すけさん日誌

杜の都で気ままに暮らす、管理人さんの日記です。
備忘録を兼ねた記録として使えれば、野望達成。

ひきょうもの! 大君の通貨は泣いた

2024年04月12日 | 日記とか

あたたかくなってきましたねー。

金遣いと銀遣い
徳川幕府は貨幣発行権と貨幣の様式統一をはかりました。金・銀・銭(ぜに)の三種類の性格の異なった貨幣「三貨制度(さんかせいど)」を制定しました。
「東国の金遣い、西国の銀遣い」は、江戸時代の貨幣制度の特徴を端的に表現した言葉です。当時、東日本は金貨建てで金貨支払い。西日本は銀貨建てで銀貨支払いが普通でした。これは東日本は金の産出量が多く、西日本は銀の産地が多かったことに加えて、中国との貿易で銀貨を使用する慣行があったから、ともいわれています。
金貨は小判一枚を一両、一両は四分(ぶ)、一分は四朱(しゅ)の四進法の単位で表す「計数貨幣(けいすうかへい)」、銀貨は重さがそのまま貨幣の価値となる「秤量貨幣(しょうりょうかへい)」で、単位は「匁(もんめ)」、一匁は十分(ふん)、千匁は一貫です。銭(ぜに)は一個が一文で、千文が一貫文です。


というのが基本的な知識なんですが、江戸時代の途中から計数貨幣の銀貨が設けられたので、ちょっと面倒くさいんですよね。

南鐐二朱銀 なんりょうにしゅぎん
江戸時代・明和9年~天明8年(1772~88)/寛政12年~文政6年(1800~23)
長方形の銀の薄板で、表に「以南鐐八片/換小判一両」の文字を表す。裏の上には分銅形、および「銀座/常是」の字を表す。一八世紀後半、金貨と同じ額面の「朱」を用いた銀貨として登場した。初期は品質が良く、南鐐とは「純度が高い」という意味である。


一分銀 いちぶぎん
安政6~明治2年/1859~69年
一分銀とは、天保8年(1837)から明治2年(1869)に発行された金一分を額面とする計数銀貨である。4個で小判1枚に相当した。
表面に「一分銀」と縦書きに陽鋳されており、小桜花が20個並ぶ額縁模様で囲まれている。



ちなみに、計数貨幣の銀貨が設けられた理由は wikipedia先生 によれば、以下の通りです。
明和年間までは高額取引には、西日本で丁銀・小玉銀、東日本で小判・一分判が一般的に用いられ、しかも両者の為替レートは変動相場制で、不安定だった。幕府は当初から通貨の基軸を両を単位とする金貨(小判・一分判)に統一する構想を有していた。最初は秤量銀貨の定位貨幣化が目的の五匁銀の発行を企画したが、商人らに受け入れられなかった。そこで、次の段階として金貨の通貨単位である2朱に相当する銀貨を発行して、金貨と銀貨の為替レートを固定、事実上の通貨統一を果たし、従来の銀貨=秤量貨幣(丁銀・小玉銀)の概念の意識抜き、通貨の基軸は金貨という洗脳を用意周到に行うのが狙いだった。

たしかに地域によって使うお金が違うと不便ですよね。
まあ、そのおかげで、幕末に 大変なこと になってしまうわけですが。

(ノД`)シクシク


というわけで、写真は SKK と桜。
SKKとは何かというと、wikipedia先生 によれば、以下の通りです。
仙台高等工業学校(せんだいこうとうこうぎょうがっこう)は、1906年(明治39年)に設立された旧制専門学校(実業専門学校)。略称は「仙台高工」あるいは「SKK」(エスケイケイ)。

ちなみに、一分銀に桜花がデザインされている理由は wikipedia先生 によれば、以下の通りです。
銀量の減少と引換にさらに精錬の度合いを上げた花降銀(はなふりぎん)を使用し、勘定所役人らは表面に「花降一分銀(はなふりいちぶぎん)」と表記することを計画したが、水野忠邦の反対に遭い単に「一分銀」と表記し、周囲の額に桜花を20個配置することになった。

もうwikipedia先生いないと、何もできませんなー。

(´∀`)ハハハ


ついでのちなみに、花降銀とは何かというと、コトバンク先生 によれば、以下の通りです。
純良な銀のことをいう。精錬過程で純良なものは熱を奪われる瞬間、表面が盛りあがり、花が開いたような特殊現象を呈するところからいう。

( ´_ゝ`)フーン










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