(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

読書 『京都うた紀行~近現代の歌枕を訪ねて』(永田和宏・河野裕子)

2015-10-15 | 読書
読書 『京都うた紀行 近現代の歌枕を訪ねて』
        (永田和宏・河野裕子 京都新聞出版センター 2010年10月)

 和歌や短歌に親しんでおられない人には「歌枕」といってもなじみがうすいかもしれない。これは和歌に多く詠み込まれる名所や旧跡のことを云う。山城(今の京都)の国では宇治・大井川・鴨川・音羽山や瀬見の小川などがでてくる。この本は現代の歌人である永田和宏と河野裕子の二人が近・現代の短歌からピックアップした京都と滋賀の歌枕の地をともに訪ね歩いた記録であり、その50にも渡る歌枕の地にまつわる文章はまことに印象的な文で描かれ、京都という土地のよきガイドブックでもある。

 ちなみに永田和宏は京都産業大学総合生命科学部教授、京大名誉教授であり宮中歌会始詠進歌の選者である。河野裕子(かわのゆうこは)は、戦後の女性短歌のトップランナーとして活躍し、おなじく宮中歌会始詠進歌の選者であった。永田和宏は彼女の夫である。惜しいことに乳がんが再発し、2010年8月に幽明境を異にした。こ本の打ち上げの対談を終えて、一ヶ月をも経ずして。したがって、この本は彼女の「白鳥の歌」でもある。

 まえがきが長いとお叱りを蒙りそうである。では、その中からとくに印象に残るところをご紹介しよう。そして、それらを読まれて心に感じるところがあったら、是非訪ね歩いていただきたい。なお、ところどころ私が好きなところでは写真をつけたり、私なりの描写を付け加えることをお許しいただきたい。

 念のため取り上げられた歌枕の地は、洛中(数珠屋町/京都駅/二条城/四条富小路/三月書房/京都御苑/寺町今出川/北野天満宮)、洛東(南座/六波羅蜜寺/祇園/清水/南禅寺水路閣/法然院/吉田山/京都大学北部キャンパス/出町柳/大文字山/御陵)、洛北(北大路駅/光悦寺/下鴨神社/加茂川/北山/深泥池/上賀茂神社/貴船/寂光院/鯖街道/秋元神社/比叡山)、洛西・洛南(仁和寺/広隆寺/広沢池/大堰川/清滝/高山寺/深草/明智藪/黄檗山萬福寺/浄瑠璃寺/、滋賀(近江/向源寺/海津大崎/蓮華寺/白鬚神社/堅田/琵琶湖大橋/近江兄弟社/水口)のおよそ50である。


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(数珠屋町~下京区)


 ”しら珠の数珠屋町(じゅずやまち)とはいづかたぞ中京(なかぎょう)こえて
   人に問(と)はまし” ~山川登美子

 山川登美子は、与謝野晶子とならび称される「明星派」の歌人である。彼女は与謝野鉄 幹をめぐって晶子と恋を競い合った。河野裕子は、恋に敗れ早逝した登美子を忍んで、 そのエピソードを紹介している。

 ”「しら珠の数珠屋町」の歌はその頃のうたである。「しら珠」とは真珠のことである  がこの歌ではむしろ枕詞にような不思議な美しさと調べのよさとして働いていて、絶  妙なことば選びだと思う。「数珠屋町」「中京」といういかにも京都らしいしっとり  とした音感が醸し出すこの歌の風情。「人に問はまし」とは誰かに聞いてみようかし  ら、という心のたゆたいが慎ましくも華やいだ気分をうまく引き出している。登美子  の代表作といってもいい歌だと思う。

  珠数屋町という町は、今も西本願寺の門前にあり、「ぜにや」という数珠専門店の二階には昔なつかしい白のプレートに「正面通油小路西入 珠数屋町」とあり、その下にはこれまた懐かしい仁丹のあのヒゲと帽子がトレードマークの広告があった。”

 ”珠数屋町じゅずやまちとぞ声に出し登美子の後につきゆくここち” (河野裕子)


(四条富小路)     

 ”四条富小路灯ともして売る白肌の壺迷いある翳(かげ)ひきて立つ”(富小路禎子)

 この歌には詞書(ことばがき)があり、「わが姓にゆかりの街角で、陶器店たち吉の灯がひとしお懐かしかった」とある。そう、<たち吉>があったのである。若いころはお金もなく、ただただ器を眺めるだけであったが、ここもなくなってしまった。(今は、百貨店などに出している)創業以来250年ののれんを誇る老舗であり、四条富小路の角にあった。こに歌の詠み手の富小路禎子(よしこ)は遡れば千年の家系につながる旧家の子孫である。この項では河野裕子が次のような文を書いている。

 ”白肌の美しい壺の翳りに、富小路禎子は惹かれた。それは彼女自身のこころの反映であったのだろう。

 京都の通り名は、やはり独特の趣と歴史を感じさせるものが多い。思いついただけでも、押小路、塩小路、冷泉、近衛、高倉、烏丸、河原町、武者小路、釜座(かまんざ)など。冨小路通りをゆっくり通ってみた。北は丸太町通りから南は五条通りまで。まなり長い通りである。実に風情があって、町名がまたあ面白い。舟屋町、魚屋町、甘露町、笹屋町、俵屋町など。富小路公園というのもあった。一軒一軒のお店屋さんをゆっくりのぞいて歩く。店先のすすきや桔梗の活け方にも洗練された美意識があって立ち止まったしばらく眺めてしまう。途中で宮脇賣扇庵(ばいせんあん)に寄り、二本の扇子を
買い求めた。夫と私の。通りをずっと南向すれば、深い緑に包まれた渉成園に行き当たる。冨小路通りの突き当りがここ。・・・・”

 ”富小路良き名の通り歩みつつ紺の朝顔の初花に会ふ” (河野裕子)

 ここから少し脱線をして観光のご案内。上記渉成園枳殻邸(きこくてい)は東本願寺庭園であるが、昔左大臣源融(光源氏のモデル)が奥州塩釜の風景を偲んで大阪は難波から海水を運ばせたという六条河原院苑池の趣向を取り入れている。石川丈山作庭。

     

 富小路を御池通りから南へ向かうと二本旅館<要庵西富屋>の玄関が見えてくる。麩屋町の柊家などよりも最近は評価が高いとか。またそば菓子で有名な<尾張屋富小路店>の店構へも目に入る。太子堂白毫寺も。四条から更に南下すると粋な小料理屋もあちこちにある。というような次第で、この通りは漫ろ歩きに楽しい道である。寺町通と並んで気に入っている。

     


(三月書房)    

 ”いつ来ても光も音もひそかなり寺町二条三月書房” (辻嘉夫)

 永田和宏の云うように三月書房を歌った歌は、それが歌枕になるほど多い。1950年3月の開店なので三月書房と名付けたという。店構えは質素だし、ほかの名店にあるような古式ゆかしい看板があるわけでもない。本の並べ方をみても古本屋かと見紛うほど。

 ”しかし、われわれ歌人仲間では、この店は全国でもっとも歌集の品揃えがいいということで夙に(つとに)有名である。品揃えの圧倒的な多さのほか、歌集が特等席に置かれているのも他ではちょと見られぬことだ。店の奥には店主の座る小さな机があって、その真横が歌集のコーナー。歌集を眺めながら店主に話しかけると、歌人や短歌界の状況についても詳しくて、いつまでも相手をしてくれる。「いつきても光も音もひそかなり」と歌われるごとく、人が居ても静かな空間である。本との対話を邪魔されることがないのがいい”      

 ”レモン一顆二条寺町三月書房四月の誤解六月の恋” (作者不明)

”この書店には、吉本隆明を代表とした思想本や社会、心理、文学、種々の分野の評論は云うまでもなく、不思議なことにガロ系を中心とした漫画も数多い。同人誌も多く置かれていて・・・そのどれにも店主の選択のこだわりが色濃くみえる。品揃えだけでなく、本の並び方に独特のこだわりと嗅覚があるらしい。・・・”

 私自身この寺町通が好きな散歩道の一つである。いつも京都御苑の東にある梨木神社で名水を飲ませていただき、一保堂でお茶をするか、進々堂で軽食をとる。そして御池通に向かって南下。池波正太郎の愛した村上開進堂。それに錫製品で有名な青果堂。いつも寄り道をし、最後がこの三月書房となる。



(南禅寺水路閣)


 ”南禅寺水道橋のみずの下くぐり帰りぬ恥多き日を” (島田幸典)

 これは、まだ若い青年の歌である。(島田が18歳から29歳までの歌集から) それについて河野裕子は、こう言っている。

 ”若さというものは、自分にも自分以外の者にも残酷である。自分も他者も傷つけていることに気づかない。しかし、意識の深いところでは誰よりもそれを知り抜いていて、必要以上に思い悩む。自意識過剰、劣等感とその裏返しの優越感、羞恥心。それらをカバーしたり、隠すすべを身につけたりしながら、齢を重ねることによって、わたしたは世間と折り合いをつけながら何とかやってゆく”

 ”先日、南禅寺に行ってきた。折から紅葉のシーズンで観光客が多かったが、三門の間からみえる桜紅葉が濃淡さまざまな色合いをみせていて、溜め息がでるほど美しかった。楓紅葉もいいが、桜紅葉は、さりげなくて、しかも色彩が微妙なところがいい。古刹南禅寺と煉瓦づくりのアーチ型の水路閣は、長い年月をかけて、互いのよさを出し合いながら、しっとりとしたど独特の風情を感じさせる。”

 ”南禅寺の近くに戦後しばらく谷崎潤一郎が住んでいたことがあり、気分のいい歌を作っている”

  わが庵は花の名所に五六丁紅葉に二丁月はいながら (谷崎潤一郎)

 花の名所は平安神宮、紅葉は永観堂、月はいながらにしてみられる結構な住まいだよという意味。谷崎は南禅寺の蛍雪庵を借りてここで『細雪』の下巻を書いた”

 ”頭(づ)の上を幅二メートルの水がゆく旧(ふ)りし煉瓦にはさまれながら”~河野裕子


 南禅寺にゆく時は、真正面から行くのではなく、蹴上から小高い道に入り、水路閣の上面のごく狭い小径を歩くのが風情があっていい。時折京都も街並みを見下ろし、また思わぬところに小さな御堂があったりで、人影もすくなく、ゆっくり歩くのが楽しい。私のシークレットスポットである。また水路閣はスケッチの絶好のポイントでもある。


(御陵 みささぎ)琵琶湖疏水分流とあわせて

 ”御陵駅いでて御陵(みささぎ)の見えしとき嫗(おうな)あり立ち上がり車中より拝す” (真中朋久)

 京阪京津線は地下鉄東西線と相互乗り入れ。浜大津から御陵までは地上を走っている。ふと気がつくと電車は地下に滑りこみ、「御陵という駅。永田和宏はこの歌を次のように解説している。

 ”この歌は地下から地上へ出た時のうたである。地中駅では見えなかった御陵が地上へ出て見えた時、思わず嫗(おうな)が手を合わせたというものである。嫗の素朴さ、律儀さを歌っているが、地上に出て御陵が見えたという当然が、どこか新鮮にも感じられる。

 過日初めてこの駅に降り、御陵の奥まで歩いてみた。一足ごとに汗が吹き出すような日であった。御陵は正式には天智天皇山科陵という。三条通に面した入り口には立派な縦型の日時計が建てられている。天智天皇がわが国で初めて漏刻(水時計)を設置したことにちなんだものらしい。参道はこの暑さの中でも木立に覆われ、まったく別世界の涼しさである。実際、ここにこんなに豊かな木立と奥深い道があるとは、三条通からはちょっと想像できない。御陵までは入り口から500メートルはあるだろうか。真昼というのにまったく人気がない。

 ある時ひとりで林に分け入った天智天皇は、そのまま戻ることなく、ただ沓(くつ)だけが残されていたという伝承がある。その沓の残された地を御陵としたという。”

 ちなみに琵琶湖疎水が洛東の山科を蛇行して流れる「山科疏水」。疎水に沿って、よく整備された遊歩道が続き、天智天皇陵まで散策できる。
 ”陵の御垣のうちの月の道” (村田橙重)という句があるが、ちょっと歩くには暗闇の中なのではないだろうか? 一度歩いて試してみたいと思っている。


 この調子で書き続けると長くなりきりがない。そこで少しスキップしつつ加茂川/光悦寺/寂光院/秋元神社/広沢池/清滝・・・などの記述あるいは採り上げられた歌に触れることにする。

(加茂川)

 河野裕子にとって鴨川は、子供が小さい頃から慣れしたしんだところであった。そして2000年の秋乳がんを告げられて以来、十日に一度くらい鴨川沿いの京大病院に通院していた。

 ”十余年まえの秋の晴れた日だった、乳がんという思いがけない病名を知らされたあの日の悲しみをわたしは生涯忘れることはあるまい。鴨川のきらめく流れを、あんなにも切なく美しくみたことは、あの時もそれ以後もない。人には、生涯に一度しか見えない美しく悲しい景色というものがあるとすれば、あの秋の日の澄明な鴨川のきらめきが、わたしにとってはそうだった。この世は、なぜこんなにも美しくなつかしいのだろう。泣きながらわたしは生きようと思った”

 ”来年もかならず会はん花棟(はなあふち)岸辺にけむるこのうす紫に”(河野裕子)

この鴨川の眺めは私にとっても好きなところである。五条あるいは四条から北上してゆく。右手に如意ヶ岳、北東には比叡の山なみ。そして北は清滝、鞍馬の山々。出町柳まで行けば高野川と賀茂川の合流するところ。右せんか、左せんかと迷う。途中、鴨川の流れの中に飛び石があって、川をわたって向こう岸に行きつける。鷺などの鳥もいて、まことにのんびりした散策となる。


(光悦寺)”本阿弥光悦は尾形光琳、俵屋宗達らとともに琳派の創始者として知られるが、9万坪もの土地に、多くの工匠、画家、さらに筆・紙・織物・などの職人を結集し、一大芸術村を作り上げた。そしてここに俗世や権力から離れて、悠々と創作三昧の晩年を送った。・・・そのせいか光悦寺はまぎれもなく寺でありながら、寺という雰囲気が希薄。三巴亭、了寂軒、太虚庵などの多くの茶室が並び、よく知られた光悦垣などに沿ってそぞろ歩いていると、明るい山荘の気分である。 私が訪ねた時は折から紅葉が見頃。鷹峰、鷲ヶ峰、天ヶ峰からなる鷹峰三山の稜線がくっきりとシルエットを見せていた。”

(寂光院)

 ”みほとけよ祈らせ給へあまりにも短きこの世を過ぎゆくわれに” (河野裕子)

 消失した本堂も本尊も再建されていて、それをみながら河野裕子は次のように感じたという。

 ”わたしたちが古刹を訪ね、仏さまをみれば手を合わせて拝むのはなぜだろう。何百年ものあいだ数限りない人々が、逃れようのないこの世の悲しみと苦しみを負いながら最後にしたことは祈るということだったのではないか。誰にもすがる事ができず、為すすべがなく、それでも生きていかなければならなくなった時、人には祈ることしか残っていない。人々の何百年もの、そうした思いと時間の蓄積が、古仏への崇敬の念をおのずから作っていったのではないか。時間が荘厳させるもの。人々の悲しみを包み込み、それを御身に吸いとってきた存在だけが持ちうるもの・・・”

(秋元神社)

 ”大君の御幸祝ふと八瀬童子踊りくれたり月若き夜に” (皇后美智子)

左京区八瀬の人々は昔から八瀬童子と呼ばれ、皇室の重要な儀式や行幸の時に、天皇の御輿をになう役割にあたってきた。


(広沢池)


 歌人土屋文明が広沢池近く住む息子や孫にあうべく、やってくる。その近くに永田和宏が住んでいた。河野裕子と結婚したての頃、御室に住んでいた二人は、中秋の名月の夜、広沢池まで月を見に行った。子どもたちが寝たちょっとした隙に抜けだして、深夜静まり人影のない湖畔で月をみていた。時間を盗むスリル。若い夫婦にとっては、そんな僅かな時間さえ貴重だった、と振り返る。そこからこの歌が生まれた。

 ”これからはかなしく思ひだすだろうあんなにも若かった夜と月と水”(永田和宏)

(清滝)

 ”ほととぎす嵯峨へは一里京へは三里水の清滝夜の明けやすき”(与謝野晶子)

 この歌が初夏の夜から朝への時の移ろいの描写として素晴らしい歌ではある。が、すこしくだけたコメントをお許しいただきたい。明治34年、すでに上京して与謝野鉄幹と同棲していた晶子は、鉄幹とともに嵯峨に一夜を過ごしている。「明易し」というからには一晩中鉄幹と一緒にいたのだろう。源氏物語をも思い起こさせる、艶めかしい情景描写である。(笑)そんなことはさておき、どこそこに何里・・というような表現は昔からある。代表的なのに、

 ”ほととぎす自由自在に聞く里は酒屋へ三里豆腐屋へ二里” (狂歌かな?)


(浄瑠璃寺)最後に京都の一番南に佇むお寺のことを取り上げる。河野裕子は二人で訪れた想い出と重ねあわせ、まことに魅力的な文をもって紹介している。

          

 ”旅に来てやさしき季節ひらくごと浄瑠璃寺までただ二人のみ” (川口美根子)

 ”「じょうるりじ」。声をたてず、、「じょうるりじ」と口の中で音だけを転がしてみる。何という音のよろしさだろう。この四十年来、気持ちの奥底に静かに沈んでいて、たまゆらに、ふと心をかすめるようにこの音は在り続けてきた。

  ”じょうるり の な を なつかしみ みゆき ふる 
    はる の やまべ を ひとり 行くなり” (会津八一)

   注)河野の表記は一首を続けて書いているが、八一の『鹿鳴集』にあるとおり、かなの分かち書きとした。また『鹿鳴集』は八一が奈良地方に遊んだ時の歌を集めているが、この浄瑠璃寺は山城国相楽郡、今の木津川市にあり、京都のお      寺である。 

 ”なぜ浄瑠璃寺という寺名がついたのだろう。本尊が東方の浄瑠璃世界を司る薬師如来であるからだという。薬師如来は、その名の通り衆生の病苦を救い癒やしてくれる仏さまで左手に薬壺を持っておられる。「浄瑠璃」とは透明な青い瑠璃のこと、目を閉じて浄瑠璃と薬師如来のイメージを結んでみると気持ちがきれいに澄んでくる。・・・

 わたしは恋人とふたりで浄瑠璃寺へ行ったのだが、記憶に強く残っているのは浄瑠璃寺から岩船寺までの二キロほどを歩いてた野の道の風情である。季節がいつであったのか全く思い出せないけれども本当に「ただ二人のみ」であったし、辺りの様子は「やさしき季節ひらくごと」としか言いようのない柔らかな光と風と草木の中にあった。

 それは、浄瑠璃寺とその近くの風土だけが持つ佇まいそのもののようにも、今になって思い返される。「じょうるりじ」と繰り返しながら見えてくるのは、 ゆったりと横長に広がる本堂の屋根の勾配とその前に広がっていた池の静かさである。なぜこんな野の中にこんな簡素なお寺があるのだろう。そしてこんなにも辺りの草木と馴染んでしっくりと優しいのだろう。・・”

 ”浄瑠璃寺とそこから岩船寺までの野の道と人の親切、歳月をへても、いえ経たからこそ心に染み馴染んだ景と人。”


 ”若かりき浄瑠璃寺よりの野の道を薄(すすき)苅萱(かるかや)分けて歩みき”(河野裕子)


 まだまだ紹介したい情景と歌がある。永田和宏が短歌の師である高安国世と連れ立ってドライブし、よく出かけた琵琶湖大橋を眺めるスポット、守山の今浜辺りは是非足を運んでみたいと思っている。

 ”なかでもお気に入りが琵琶湖大橋であった。わたしも何度かお伴をして、大橋の見える湖岸のヨットハーバーや喫茶店で、長くとりとめもない話をしたものだった。歌の話、ドイツ文学や、映画、多くの歌友の話と、話題は尽きず、大橋に灯りが灯りはじめるころまでいることも多かった。”

  ”湖を囲み灯の生まれつぐを見ていしが山々はいつか闇に沈める”(高安国世)

ようやく闇に沈むころ僅かな時間、ブルーモーメントという空や湖面が青く見える時があると聞く。その瞬間を写真に収めたいと思っている。大気の澄む深秋か冬がいいのかなあ。


     ~~~~~~~~~~~~~~~~~


 いやあ長くなってしましました。お付き合いいただき、ありがとうございました。

 そうそう、思い出しました。この本文ではありませんが、二人が訪ねた歌枕の地について詠んだ歌に心惹かれるいい歌がいくつもあります。長くなるので、稿を改め「余滴」としてご紹介します。週末までにアップししますので合わせてお読みいただければ幸いです。







  
コメント (2)
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