(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

時評 石巻市大川小学校の津波への対応について

2016-10-30 | 時評
(石巻市大川小学校の津波へ対応につい)
  この記事はさる27日にフェイスブックで掲載しましたが、その後大幅に加筆し、一部修正したものです。

2011年3月11日午後2時46分、東日本に巨大地震が発生し、石巻市も想定超える津波に襲われました。海岸から約4キロ離れたところにある大川小学校では、地震発生後児童54名をを校庭にあつめ、50分以上もそこに待機させました。その後近くの堤防に避難しましたが、辺り一帯は津波に呑み込まれ尊い命が失われました。この責任問題で仙台地裁は学校側に過失あり、との判断を下しています。この判決文を読んで、また学校や市、また住民などの関係者の反応をニュースで知って、少し違和感を感じました。

 まったくの部外者が何をいうか、と思われるかも知れません。しかし、明治から昭和にかけて繰り返し三陸沿岸を襲った大津波の歴史と事実を知るに及んで、過去の歴史に学ぶべきとの思いからから思いをひとこと書き留めておきたくなりました。またこの現場には昨年の夏に足を運び、大川小学校の校庭にある慰霊碑にお参りをしてきました。友人とともにその碑の前に佇んだ時は、幼い子供たちの顔が浮かんでくるようで、涙がこぼれる思いでした。結論を申し上げましょう。校庭にすぐ裏手に小山があるのです。樹々が密集し、学校側がいうような倒木や崩落の危険性は感じられません。ここに駆け上がって救助を待てばよかったのです。そうすべきでした。私が子供であったら、そうしたでしょう。事実子どもたちのうちの数名は教師の手を振り切ったそうしたのです。彼らは助かりました。どうして、そのような行動を取ったのでしょうか。彼らは祖父母から、古老たち先祖の教えでそうするように叩き込まれていたのです。

     

 実は記録文学者の吉村昭さんが1970年に『三陸海岸大津波』という題名で明治29年、昭和38年、昭和35年にこれらの地域を襲った大津波の実態を各地方をあるき回り、綿密に資料を集め、多くの人々に聞き取りをすることによって、津波の様相を描き出しています。これを知っていれば、地震のときにどういう現象がおこるか、津波はやってくるのかこないのか、どうすべきかなどを知り得たのです。

     


(『三陸海岸大津波』の教えるところ)吉村氏の著によれば、近年三陸海岸を襲って津波は三度を数える。これに加えるに安政3年7月の津波があるが、ここでは省略する。

 (1)明治29年6月15日:宮古から東南方で海底地震が発生し、それによって起こった大津波は三陸沿岸を徹底的に破壊した。その時次のような前兆がみられた。
    ・少し前にマグロや鰯などの大漁があった。安政3年の津波でも、そのような現象があった。
    ・夜になると沖合に青白い火が出現した。
    ・潮流の乱れ
    ・井戸水が濁りはじめた
    ・午後にはまれなほどの大干潮がみられた。

   地震が起こって20分を経過した頃から海水が乱れはじめ、海岸線から徐々に引きはじめ、引いた海水が沖合でふくれあがると、満を持したように壮大な水の壁となって、海岸方向に動き出した。沖合からドーンという大音響があり、音響と前   後して海上に火箭(かせん、提灯の大きさ)も見られ、怪火が沖合に揺れた。これはジャワ島付近のクラカトウ火山の爆発による大津波であった。津波の高さは、平均10~15メートル。この押し寄せる津波は、湾の奥に進むに連れて高くな   り、最大で50メートルにも達している。

 (2)昭和8年3月3日の津波:岩手県釜石市東方200キロの海底を震源とする地震が発生し、三陸沿岸に点在する村落は、再び壊滅的な打撃をうけた。津波襲来の前には、明治29年の折と同様な前兆が見られている。地震が起こったのは午前   2時32分、よく晴れた厳寒の夜であった。強震に驚いた人々は家から、走りでた。しかし震動が止むと、家の中に戻り布団の中に潜り込んだ。じつは、三陸沿岸の住民には、ひとつの言い伝えがあった。それは冬季と晴天の日には津波の来襲   がない、ということであった。しかし、その頃海上は急激にその様相を変え、海水がひきはじめ、やがて沖合の海は盛り上がり、壮大な水の壁となって、始めはゆっくりと、やがて速度を増し海岸へ突進して行った。津波は、3回から6回まで   三陸沿岸を襲い、多くの人々が津波に圧殺され引きさらわれた。その上、厳寒のしかも深夜のことであったので凍死する者も多かった。

    過去に学ぶからと言って、単なる伝聞とファクト(事実)を混同してはならないという教訓でもある。

   この地震の後、いろいろな反省がされ、県庁からは「地震津波の心得」というパンフレットが一般に配布された。それにはまず津波を予知する必要が説かれてきる。
    ”一、緩慢な長い大揺れの地震があったら、津波のくる恐れがあるので少なくとも一時間くらいは辛抱して気をつけよ。

     一、遠雷あるいは大砲のごとき音がしたら津波のくる恐れがある。
     一、津波は激しき干き潮をもって始まるのを通例とするから、潮の動きに注意せよ。また避難方法としては、
     一、家財に目をくれず、高いところへ身ひとつでのがれよ。・・・

 (3)昭和35年5月24日のチリ地震津波:5月21日気象庁は南米チリの大地震をとらえ、ついで23日4度目の地震が極めて激しい地震であることも観測した。これはハワイ沿岸にも広がり、60名の死者を出した。しかし、気象庁では、チ   リ地震による津波が日本の太平洋沿岸に来襲するとは考えず、津波警報も発令しなかった。その後大船渡湾にいた漁師などから海面の異常な動き~潮が強い力で引きははじめた~などで異変を知ったのである。これは、明治29年、昭和8年の   大津波とは根本的に異なる奇妙な津波であった。つまり津波は、地震にともなって起こるものとされていたのだ。人々は悠長に構えていた。潮の動きを訝しんで、高潮らしいとの報が海岸  の各所から消防本部に入るようになった。 しか    し、それを津波と結びつけるものはほとんどいなかった。しかし、海面の上昇は想像以上のものがあり、陸にあがった海水は人家をのみこみ、奥の方に進んでいった。この津波は三陸海岸全域を襲った。「地震がなても、津波が来    た」のである。

  このような地震は例外的なもので、予知はできなかったのであろうか? いや、ここにも学ぶべき過去の歴史があったのである。詳しいことは省略するが、はるか遠く離れた地域の地震によって起こった津波の来襲が過去にもあった。元宮古測候  所長の二  宮三郎氏は、旧南部藩の古記録やその他の史料をあさって行くうちに、津波の記録にも接した。今から220年前の宝暦元年に大槌地方を襲った津波の記録である。それによれば、地震の記載がまったくみられないこと、また津波の  時間がかなり長く、緩やかであることなどから、後に昭和35年の津波の実地調査にあたった折、あらゆる点で宝暦元年の津波と酷似していることに気づいた。また外国の地震史を調査した結果、宝暦元年の津波来襲の前日に、チリ津波の元と   なった地震の震源地と同一海域で、巨大な地震による大津波が発生していることをつきとめた。この二宮氏の比較調査は、チリ津波が決して珍しいものではないことを立証したが、その襲来を予知し警告を発しなかった気象庁はひとつの大き   な過失を犯したことになる。


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 ここで本論の仙台地裁判決に戻ります。石巻市側や学校関係者は、浸水想定区域外であったため、津波は予見できなかったと主張しています。しかし、想像を超える地震が発生したのです。だから、想定を超える事態が起こってもおかしくないのです。それに、”たいした津波もこないだろう”という希望的な甘い判断です。見たくないことには、目を向けようとしない、という感じすらします。これは私たち日本人の体質のようにも思います。

 大川小学校の校庭に児童を集めて、引率した女性教師は地元の人ではなく、区域外からこられていたと聞いています。おそらく津波の恐ろしさを十分に承知していなかったのではないでしょうか? そのため地震による建物の崩落から逃れるために校庭に児童を集めたのでしょう。いたずらに彼女を責めることはできません。学校全体としてこれまで繰り返された大津波の過去の歴史を系統的に学んでいれば、的確な判断ができたものと思われます。
     

 机上の空論のようなマニュアルを作るより、過去の歴史に学んで、現場の人たちが自己判断ででも行動を迅速に取れるようにすべきでしょう。また、それぞれの住民も、何処に過失があるのかなどという責任のなすりあいではなく、自らも過去の歴史に学んで、言われずとも各々で行動できるように勉強すべきでしょう。吉村さんの本は今は改定され、文庫本(文春文庫)で読むことができます。薄い本です。これを小学校の教材あるいは副教材として、必修すべきかと思います。

 最後になりますが、大川小学校の一部遺族や有志は震災の記憶を伝え残そうと「大川伝承の会(仮称)」を立ち上げたそうです。その会で津波で多くの犠牲者が出た名取市閖上(ゆりあげ)地区の資料館「閖上の記憶」を視察した時のことです。

 地区で息子を亡くした女性が1933年の昭和三陸津波について記した石碑が地域に残っていたことを紹介。”私たちは先人の学びを知ろうとしなかったのかもしれない。記憶の伝え方が重要だ”と訴えたそうです。


追記)平安時代の後期、869年には貞観地震と呼ばれるマグニチュード8.1の超巨大地震が発生しています。東京電力が原発の津波対策として、このことを十分に読み込んでいたのか疑問が残ります。やはり、過去の歴史には学ばなければならないと思うのです。





コメント (4)
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