(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

絵画/エッセイ 一枚の絵~メトロポリタン美術館での出会い

2015-04-08 | 絵画
絵画 一枚の絵~メトロポリタン美術館での出会い

 以前、作家五木寛之の『知の休日』という本を紹介したことがある。その一部をここに再掲させていただく。

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 (アートと遊ぶ)という章では、絵画鑑賞について、”なるほど”と思うことをつぶやく。

 ”(ルーブルという広大な美術館のことに触れてからあ・・) いわゆる名画というやつは、立て続けに何点も見れば見るだけ感銘が薄くなっていく。本当は一点でいいのだ。<一期一画>というのは私の勝手な造語である。むかし、福岡で<一点だけの展覧会>という催しがあった。こじんまりしたホールの正面の壁に、名画を一点だけかけてその前にベンチや椅子を並べておく。人々は、その椅子に座って、眺めては考え、考えては眺め、気をとりなおしてはまた眺める。三十分あまりもそんなふうにして、一点の絵だけを眺めていると、絵画の良さというものがしみじみこちらにも伝わってくるような気がした。こういう展覧会も悪くない。

 人間が絵を鑑賞するさいに、発揮できるエネルギーの量というものは一定である。十点の名画を見れば、それぞれの作品に対する感動が十分の一になってしまう。まして五十点、百点と眺めてしまえば、ただ見た、というだけに終ってしまいかねない”

 
 ~その通り、と頷くのだ。そして、その一点の絵を選びだすアプローチについて、五木は次にように語っている。

 ”人気のない画廊や美術館の中で一日を過ごすというのは、なかなかいい休日の使い方というべきだろう。ニューヨークの近代美術館は、カフェやレストランがとても気分がいい。街なかにあって足の便もよく、庭にも風情がある。おおむね美術館のなかの食堂は、安くて実質的だ。大きなバッグを抱えた若い画学生たちが、三々五々、陽気なおしゃべりをしているのを横目で見ながら珈琲を呑み、アップルパイをかじる。そしてまた気をとりなおして絵を見にゆく。
 外国の美術館で絵を見るなら、すくなくとも一日たっぷりかけたほうがいい。そして自分の心に触れた一点を探し出し、その一点と徹底的につきあう。どういうふうにしてその一点を探すのか、というのが実は問題だ。

~そう言って五木寛之は、自分が国際的な美術品泥棒になったつもりで、絵をみることがある・・・とか、あるいはその美術館のオーナーが画家自身で、自分の無二の親友と想像し、「せっかく来てくれたのだから、記念にこの中で一点をあげよう、どれでも欲しいものを指さしたまえ、と言われたという仮定で絵を選び出す、というようなことを言っている。

 ~これはには共感を覚える。今年の早春、京都郊外にある大山崎山荘美術館で「光と灯り展」(クロード・モネほか)を見た時は、じっくり半日かけて鑑賞し、その一点を心に決めたことがあった。また昨年12月に福岡県立美術館で弧高の画家、高島野十郎の作品を鑑賞したが、それは名作「蝋燭」の絵を見るだけのために足を運んだのであった。やはり、絵を鑑賞する時は、1~2点に集中するのが、”いい”と思う。

     ~~~~~~~~~~~~~~~

 さて今回の記事のタイトルを「一枚の絵」とした。どういう観点からの「一枚の絵」か? 思いつくままに考えを巡らせてみよう。まず、私の好きな画家の作品からの”一枚”を選び出すという不遜な考えである。洋の東西、時代の新旧などはこの際飛ばすことにする。まずは東山魁夷の作品。あまりにも有名な「道」を挙げる方は少なくないであろう。もちろんこれは好きな作品ではある。そして青や緑を基調とした作品を、みなさん選ばれるのではないだろうか? しかし私の好きな一枚は違う。「残照」である。これは戦後間もない1947年、第三回日展で特選を得た出世作。千葉県鹿野山の九十九谷の風景に甲州や上越の山々の情景を重ねあわせたものである。

          


 この絵を初めて見たのはいつのことか忘却の彼方であるが、見た時はなぜか懐かしさを感じたのである。デジャブー感覚があった。そして思い出したのだ。学生時代、山登りに明け暮れていた頃に燕岳から常念岳・蝶ケ岳を経て槍穂高へと縦走したことがあった。蝶ヶ岳の山上近くについたのは、もう午後の遅めであった。3時か4時頃であったろう。眼前に広がったのは穂高連峰。北穂、涸沢岳を経て奥穂高、前穂高岳とつづく山なみ。もう日が落ちかかっているのに、前方の穂高の山々は静寂の中に、まだ陽を浴びて輝いていた。その残照になぜか惹かれて、ずうっと腰をおろし眺めていた。心の安らぎのようなものを感じ、そこから離れがたかったのである。

 虚子の句にこういうのがある。”遠山に日の当たりたる枯野かな” 彼は自ら『虚子俳話』のなかで、こう書いている。

 ”自分の好きな句である。どこかで見たことのある景色である。心の中では常に見る景色である。遠山が向こうにあって、前が広漠たる枯野である。その枯野には日はあたっていない。落莫とした景色である。ただ、遠山には日が当たっている。私はこういう景色が好きである。わが人生は概ね日の当たらぬ枯野の如きものであってもよい。むしろそれを希望する。ただ、遠山の端に日の当たっていることによって、心は平らかだ。烈日の輝きわたっているごとき人世も好ましくないことはない。が、煩わしい。遠山に日の当たっている静かな景色。それは私の望む人世である”

 稲畑汀子は、これに関して、”寒々とした景のなかそこだけがあったかそうに明るく輝いている。そのことが荒涼とした枯野に立つ人に一点の心の火を点ずるのである。それは救いでもあり人生の希望でもある” と解説をしている。東山魁夷がそこまで思って、この「残照」を描いたのかは分からない。しかし、戦後まもない時期に人心も山河大地も荒れ果てていた時期に、なにがしか”心の明るさ”を思い描いていたように思う。


 がらり変わって。安野光雅さんの絵も大好きである。原色や派手な色をほとんど使わない淡い色調の水彩画で、落ち着いた雰囲気の絵を描く。佐藤忠良と対談を聞いていても、またいつかNHKで放映されたヨーロッパでのスケッチ風景をみても、穏やかな温顔には惹きつけられる。安野さんの絵はずいぶん沢山みてきた。真似して描いて見たこともある。しかし、なかなかその雰囲気は絵に描けない。彼は日本の原風景をこよなく愛する。それを眺めながら、心温まる絵を描くのである。以前、奈良の明日香村へ出かけた時のことをこんな風に描写している。

 ”日本の各地から、あの段々畑に稲を植えるために、人が集まってくるという。春は野山が花で埋まり、やがて柿の葉の新緑が日に映えているかと思うと、秋には赤い実をつける。破壊されつつある日本の自然を、てをこまねいて見ていなければならないこのごろ、明日香に残す自然と、そこに生きる人々の志を、このうえなく美しいと思う”

 安野さんは生まれ故郷の津和野や安曇野の自然を数多く描いている。ところが、日本の風景にとどまらない。イタリアの陽光、イギリスの村、アメリカの風、スイスの谷、ドイツの森、ニューヨークの落ち葉などなど。その中にアメリカ東海岸のニューイングランドの景色を描いたスケッチがある。その中の一枚が、とても気に入っている。ボストンの西に位置するコンコード郊外でメープルウッドの黄葉に包まれた町を描いたものである。気に入っている理由・・・”黄色が好きなんや!” 単純なのである(笑)

     


 次はオーストラリの画家フレデリック・マッカビン(Frederic McCubbin)の絵をとりあげることにする。80年代に豪州で仕事に携わっていた頃、メルボルンには何度も、いや毎月と言うくらい出張していた。メルボルンヒルトンを定宿にしていたが、週末には歩いたすぐのところにナショナル・ギャラリー・オブ・ビクトリアがあった。そこで見たのが、F・マッカビンの絵「The Pioneer」であった。荒れた、未開拓の地を切り開いてゆく入植者たち。まさにパイオイニアである。こういう人たちの苦労があってこそ今日の繁栄するオーストラリアがある。どんな気持ちで大自然と対峙したのか、その苦労を思って、しばし絵の前に佇んでいた。また幼い赤ん坊を膝の上にのせた妻と、今火を熾している夫を描いた「On the Wallaby Track」などの名作もある。

     

そして私が選んだ一枚の絵は「Home comming」という作品である。失踪していたか、あるいは見捨てられたかとも思っていた夫が突然帰ってきた。女の表情は、喜びでは溢れてはいない。なんとも複雑な面持ちだ。ひとりきりになり、農家を支え赤ん坊を育て、苦労して生計を維持してきた女性に焦点が当たっている絵である。このあとどうなるか・・? 色んなドラマが読みとれる一枚である。絵画自体の巧拙もあるが、そこに込められたオーストラリア初期の入植者たちへの思いが伝わってきて好きな一枚となった。

          



 ところで高島野十郎という画家をご存知だろうか? この孤高の画家を知る人は多くはないかも知れない。私自身も一昨年の冬まで知らなかった。「月」や「蝋燭」の絵を描きつづけたことで知られている。そして彼の作品との出会いはまさに奇遇とも言うべきものであった。野十郎は明治23年生まれ。東京帝大農学部水産学科を首席で卒業しながら、画家への道を選んだ。そして”世の画壇と待ったく無縁になることが小生の研究と精進です”と本人が語るように美術の流行や画壇の趨勢(すうせい)に見向きせず、写実に徹した作画をおこなった。花や果実といった静物から信州などの風景画そして晩年は月だけが描かれている夜空を表現したり、また初めのころから一貫して火の灯された蝋燭の絵を描きつづけた。それゆえ「蝋燭の画家」ともいわれる。

                          

 その絵をかなり多く収蔵していいる福岡県立美術館が中心となり、2005年の12月に没後30年を記念して高島野十郎作品点を開き、その名が次第に世に知られるようになった。近年になってNHKの美術番組でも放映したりした。それを見ていた美術に造詣のある親しい友人が、一度実物を見てみたいと、仕事で福岡へ出張した際に、この福岡県立美術館を訪れた。が、残念ながら、野十郎作品が巡回中であったため、見ることが叶わなかった。

 一昨年の年末の頃、この野十郎作品のことがその友人との間で話題に上った。”そう。一体どんな絵なのかなあ”と興味を示した私は好奇心ついでにすぐ野十郎のことを調べてみた。そうしたところ東京の足立区の綾瀬美術館のウエブサイトの中に、”野十郎の”月”と”蝋燭に関する味わいのあるエッセイのような作品紹介の一文を見つけた。その中に野十郎の辞世の歌が引かれてあった。

  ”花も散り世はこともなくひたすらにただあかあかと陽は照りてあり”

 己の来し方を振り返った時、世の人と交わることもあまりなく、絵を描きつづけてきたそれでもその歩んだ道の上には太陽が照っていたのだ、といささかの自負も持っていたのではないか。 そうなのか、それならこの男の絵を実際に見てみようとの好奇心がうつぼつと湧いてきた。調べてみると、”今”、福岡県立美術館で野十郎作品展が開かれているではないか。ただし、あと三日を残すのみ。遠隔の地にいる友人と連絡をとりあい、すぐ福岡へ飛んだのである。ただ、野十郎の絵を見るだけのために。
 
  
 まずいくつかの野十郎作品をご紹介する。「月」の絵のことについては没後30年記念展の画集のなかに川崎とおる(早大名誉教授、ロシア文学)という人が次のような文章を描いている。

 "高島さんが月の絵を私のところに持参したのは、昭和38年。さらに私が月の絵を持って詩人の宇佐美英治氏を訪れると、「これは凄い」といって氏が中原佑介氏に連絡を してくださり、その年の「芸術新潮」8月号に、高島さんを他の数人の画家とともに紹介した。・・・高島さんが私の書斎でふろしきを解いて新しい月の絵を差し出したときには、出来たて の黄金のパンをもらったような香りがした。画家は「ぼくは月ではなく闇を描きたかっ た。闇を描くために月を描いたのです」と言った。野十郎の闇は青い緑をたたえた生命の海である・・・。

  ひところ私は、書斎の窓に満月が昇りはじめると、野十郎の眼になりきって、中天に 吊るされた巨大な球体をじっと凝視しつづけた・・・皓々と輝く球体の光に染まったあ とで、野十郎の月を見直す・・・画家の眼で捉えられ、描かれたイミテーションのはず の『月』がそれ自身の光輝を放ち、見る者を捉えて放さない…”

     


少し調べてみると、高島野十郎は仏教のこともよく学んでいたようで、いわゆる”日想観”に似た”月想観”とでもいうような心境があったのかも知れない。ところで俳句や和歌の世界では、月は秋を象徴するものとして捉えられており、古来数多くの秀句が詠まれてきた。それは月に関する季語を拾えば分かることである。

 名月(満月)/望月/十六夜/立待月/居待月/二日月/繊月・・・。そして名月の夜には縁側にでて、お供え物を食べながら、月の眺めを親しむ。

   ”たまさかに肩寄せあって十三夜”

 ところがそうした見方ばかりではない。「真如の月」という言葉がある。”衆生の真如仏性は、常の煩悩に包まれながら、その体、少しも染まらず、汚れず、たとえば、月の雲におおわれても、月の体は常に清く明らかなるごとし。これを真如の月というなり。”(年波草) 野十郎の描くところの月の世界も、そういうようなところかもしれない。そういう思いを持って、改めて野十郎の「月」の絵を眺めてみると、心に清澄を感じ、透徹したものが湧いてくるような気がする。ということで、この「月」の絵は気に入っている。


 次に「蝋燭」である。彼は、なぜ蝋燭を描くのか、蝋燭は何を意味しているのか、それについて彼は一切語っていない。揺らめく炎が演じる光と闇。これにも何か宗教的な意味合いがあるのであろうか?すこし考えてみたい。陶芸家河井寛次郎は、その著『火の誓い』のなかで、こんな言葉をつぶやいている。

 ”身体(からだ)に灯ともす 全身に灯す

 全身の明るさで自分の所在を示している提灯。暗闇の中の平和な穴をあけている提灯。 自分を明るくしているだけではなく、ぐるりも明るくしないではおかない提灯。自分を焼かないように、他をも焼かない提灯。向こうよりは足下を見さす灯。小さいけれども大きな夢を見させる提灯。穏やかではあるが、八方を照らさないではおかない灯”

     

 何も語らなかった野十郎ではあるが、案外同じようなことを思っていたのかもしれない。野十郎の「蝋燭」には何枚もの絵があって、少しずつ微妙に光の色も違い、好きか嫌いかと聞かれても、なかなか明快な答えをするのがむづかしい。確かに”気にはなる”絵である。たまたま冒頭で書いた親しい友人は、偶然の成り行きで、最近この『蝋燭』の絵を一枚知人から譲られた! 野十郎のことを分かってくれる人にもらってもらいたいと。そういうわけで、いずれこの友人とで一緒に『蝋燭』の絵をみながら、改めての品定めをしてみたいと思っている。

 最後の一枚は「萌え出づる森」と題された風景画である。他にも「林径秋色」という黄葉・紅葉の雑木林を描いた絵もある。こういうのに、弱いんだなあ! 雑木林そのものが好きなのである。そんなところに身をおいていると、心に安寧を感じるのである。と、言うわけで、今のところ、高島野十郎に関する一枚はこの「萌え出づる森」としたい。しかし、これから、かの友人と野十郎の作品について語り合う機会があれば、いくばくかの議論の末に見方は変わってきて「月あるいは「蝋燭」の絵を選ぶかもしれない。

     


 すこし長くなったので、ここでいったん筆をおかせていただく。続編では、好きな画家としてマティスそしてラウール・デュフィの絵について採り上げる。そして最後にはこのブログ記事の締めくくりとして、私の所有するところの一枚をご紹介させていただく。


 (次回をお楽しみに。週末にアップします)

















コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする