(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

読書『霧の中の巨人』・『怨殺 西穂高独標』

2009-02-05 | 時評
読書メモ『霧の中の巨人』(梓林太郎 詳伝社 2003年11月)、
     『怨殺 西穂高独標』(梓林太郎 光文社文庫 2008年11月)

 山岳ミステリーの名手梓林太郎には、いろんなシリーズの作品がある。長野県豊科署の刑事・道原伝吉の地道な捜査を丹念に描き出す作品、また長野県警山岳救助員の紫門一鬼の活躍を描く「殺人山行」シリーズなど、どれも魅力あふれる作品である。なぜそれを手にとるか、それはミステリーとしての面白さに加え、北アルプスを中心にした山岳風景の描写が魅力的だからである。安曇野からはじまり、蝶ケ岳、西穂高岳、白馬、針の木岳、立山、燕岳、・・・みんな歩いたことがあるだけに懐かしさも覚える。

 『怨殺 西穂高独標』は、梓林太郎の最新刊である。標高2908メートルの西穂高岳の西穂山荘近くの独標から痕跡を消した一人の男の行方を、その娘が追う。そのことを書くつもりはない。この本の後書に、文芸評論家の渡辺起知夫の解説があり、作者梓林太郎が山に親しむようになった経緯が書かれている。それは、梓林太郎が20年にわたって親交のあった松本清張のことを回想した本に書かれていたのである。

『霧の中の巨人』には、「回想・私の松本清張」というサブタイトルがついている。小さな中小企業あいてのコンサルティング会社~むしろ調査事務所といった方がいいかも知れない~に働き、様々な人間像をみてきた梓林太郎に、清張が関心をいだき、後年小説の種になるような話を聞いていた。いうなれば、作品のヒントを提供していた訳である。清張ファンならずとも興味のある話題である。ヒントになるようなエピソードがいくつも語られている。それはともかく、この本は、むしろ清張との結びつきを語りながらも、梓林太郎の自伝的なエッセーといえよう。いくつかの仕事を移り変わり、相当な辛酸を舐めていることが語られている。その会社で、上司の佐竹と話をしているときに、文学作品ことに清張の作品について話が弾んだ。その佐竹が山に登っていることから、ある日冬の北穂高岳に誘われた。

 ”山に登ることを妻に話した。彼女は高い山などに登ったことがなかったから、
「山登り。素敵なことじゃない。気候もいいし」と、草原のピクニックを思い浮かべているようなことを云った。私は、山具店で下見してきた装備が必要なことを話した。ザックだけは古いのがあったが、山靴・ピッケル・アイゼン・寝袋・羽毛服、毛の下着などは取りそろえなくてはならなかった。それらの値段に妻は目をまるくした。登山に反対するかと思ったが、「登りたいんでしょ、行ってきたら」といった。雪や氷や、切り立った岸壁が彼女の頭には浮かばないようであった。それでも「ご来光はきれいでしょうね」といった。”

 ”私の北アルプス処女山行は快適だった。四人のベテランにはさまれて。横尾から涸沢(からさわ)を経て、標高3106メートルの北穂高山頂に登りついた。山頂は、風が強く、立っているのが困難なくらいだったが、薄く雪化粧した穂高連峰や槍ヶ岳をはじめて眺めて感動した。佐竹に教えられ、日本の近代登山黎明期に活躍した山案内人上条嘉門次が「鳥も通わぬ」と云ったという滝谷を、腹這いになってのぞいた。東側の横尾谷の陥没を越えて眺められ常念岳、大天井岳、燕岳も、その時に覚えた。”

 北穂高の山小屋では、レコードでクラシック音楽を聴いたと書かれている。後年とりつかれたように、その時眺めた山々に登るようになる。そんな梓は、じつは天竜川右岸の下伊那郡(現飯田市)の生まれである。小学生のころに、天竜を越えた彼方に連なる赤石山脈(南アルプス)の峰がしらの名を、父や祖父か教えられていた。梓林太郎の、このような山との結びつき、また生きてきた背景を知ると、一層その著作に親しみが湧いてきた。

コメント (3)
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