漱石の句と、三人の鼎談をもうすこしご紹介しよう。
(三十六峰我も〃と時雨けり)
稔典 この京都の東山三十六峰を詠んだ句はおもしろいですね。
子規 「我も〃と」がいいね、。山が舞台の中央に出てきて名乗っているよう。芝居がかっているところがおもしろい。
漱石 服部嵐雪の「蒲団着て寝たる姿や東山」に匹敵する名句といっていいかねえ。
子規 匹敵するかどうかはともかくとして、京都の冬の情緒を伝えるキャッチフレーズにはなってるよ。・・・・・・
稔典 このころから、漱石さんは一つの題で数句をつくるようになります。今の場合だと時雨で二句をつくったのです。漱石さんの作句が意識的になってきたということではないでしょうか。それに、この作り方は、体験や見聞にもとづく作り方ではなく、言葉から発想する作り方ですね。子規さんも一題で十句つくる「一題十句」を好まれましたが、おなじようなことを漱石さんも始めたようです。
〔余談〕子規は、短歌の革新に大きな業績を上げており、この鼎談でも印象深い歌が紹介されている。星の歌である。
”真砂なす数なき星の其の中に吾に向ひて光る星あり” (明治33年)
稔典さんは、漱石の言をかりて、こう言わしめている。
「子規君の歌は希望に満ちている。そのころは立つこともできない病人だったはずだが、気力が満ちた歌だ」
「子規君の短歌で私の好きなものがある。やはり『墨汁一滴』にある藤の花の歌だ。・・・・
”藤なみの花をし見れば紫の絵の具取り出で写さんと思ふ”
子規君は、藤の花の歌をつくりながら、ごく自然に深々と『源氏物語』の世界に入っている・・」
(見送るや春の潮のひたひたに)
稔典 句稿〔明治29年10月)にあります。15句からなるこの句稿の作品は、すべて恋の句です。今回の句は、「別恋」すなわち恋の別れを題にしたもので・・
子規 その句稿を見ると、僕が丸をつけているのはどれも王朝風な恋の句だなあ。
稔典 そうですね。次の2句に二重丸がついています。
君が名や硯に書いては洗い消す
行く春を琴掻き鳴らし掻き乱す
・・・・・
稔典 体験から発想すること。それが近代俳句の基本になりました。だから、題で発想することは前近代的で古いと見なされるようになります。でも、体験だけに固執すると、俳句の世界が狭くなりますね。体験できることはおのずと限定されますから。「初恋」「逢恋」「別恋」などど言葉から発想して恋を詠むのは、、これ、古典和歌の方法ですから古いものですが、体験の狭さを破る方法になるかも知れませんね。
(湧くからに流るるからに春の水)
稔典 今回の句ですが、「湧くからに」と「流るるからに」の対句が効果的ではないでしょうか。対句の快いリズムが春の水そのものになっていますね。すっかり俳人になって、のびやかに詠む漱石さんがここには、いると思います。
(秋立つや一巻の書を読み残し)
稔典 大正5年9月2日の芥川龍之介あての手紙に書かれている俳句です。・・・・龍之介は木曜会のもっとも若いメンバーですね。この年24歳です。ちなみに、この手紙では、小説「芋粥」を読んだ感想を細かく書いて龍之介を励ましています。さらに言えば、この年の12月、漱石さんは他界されます。
子規 この句、自分の後を若い人に託すという気分なのかねえ。「一巻の書の読み残し」は、まだ途中までしか読んでないのにもう立秋になった、と読める。また、読み残しがあるままに人生の秋も立ってしまった、とも読めるね。後者だと、後事を若い人に託す気分だ。・・・
~~~~~~~~~~~~
読み通してゆくと、漱石の句の良さが分かり、惹かれるものを感じる。同時に、漱石を改めて追ってみたいとも思った。 句にとどまらず、全人的に、絵も文学の面でも、またデザイナーとしての漱石、そして書簡などを通じての人間像も。
稔典さん、いい本を書いていただき、感謝です。 あー、楽しかった!
(三十六峰我も〃と時雨けり)
稔典 この京都の東山三十六峰を詠んだ句はおもしろいですね。
子規 「我も〃と」がいいね、。山が舞台の中央に出てきて名乗っているよう。芝居がかっているところがおもしろい。
漱石 服部嵐雪の「蒲団着て寝たる姿や東山」に匹敵する名句といっていいかねえ。
子規 匹敵するかどうかはともかくとして、京都の冬の情緒を伝えるキャッチフレーズにはなってるよ。・・・・・・
稔典 このころから、漱石さんは一つの題で数句をつくるようになります。今の場合だと時雨で二句をつくったのです。漱石さんの作句が意識的になってきたということではないでしょうか。それに、この作り方は、体験や見聞にもとづく作り方ではなく、言葉から発想する作り方ですね。子規さんも一題で十句つくる「一題十句」を好まれましたが、おなじようなことを漱石さんも始めたようです。
〔余談〕子規は、短歌の革新に大きな業績を上げており、この鼎談でも印象深い歌が紹介されている。星の歌である。
”真砂なす数なき星の其の中に吾に向ひて光る星あり” (明治33年)
稔典さんは、漱石の言をかりて、こう言わしめている。
「子規君の歌は希望に満ちている。そのころは立つこともできない病人だったはずだが、気力が満ちた歌だ」
「子規君の短歌で私の好きなものがある。やはり『墨汁一滴』にある藤の花の歌だ。・・・・
”藤なみの花をし見れば紫の絵の具取り出で写さんと思ふ”
子規君は、藤の花の歌をつくりながら、ごく自然に深々と『源氏物語』の世界に入っている・・」
(見送るや春の潮のひたひたに)
稔典 句稿〔明治29年10月)にあります。15句からなるこの句稿の作品は、すべて恋の句です。今回の句は、「別恋」すなわち恋の別れを題にしたもので・・
子規 その句稿を見ると、僕が丸をつけているのはどれも王朝風な恋の句だなあ。
稔典 そうですね。次の2句に二重丸がついています。
君が名や硯に書いては洗い消す
行く春を琴掻き鳴らし掻き乱す
・・・・・
稔典 体験から発想すること。それが近代俳句の基本になりました。だから、題で発想することは前近代的で古いと見なされるようになります。でも、体験だけに固執すると、俳句の世界が狭くなりますね。体験できることはおのずと限定されますから。「初恋」「逢恋」「別恋」などど言葉から発想して恋を詠むのは、、これ、古典和歌の方法ですから古いものですが、体験の狭さを破る方法になるかも知れませんね。
(湧くからに流るるからに春の水)
稔典 今回の句ですが、「湧くからに」と「流るるからに」の対句が効果的ではないでしょうか。対句の快いリズムが春の水そのものになっていますね。すっかり俳人になって、のびやかに詠む漱石さんがここには、いると思います。
(秋立つや一巻の書を読み残し)
稔典 大正5年9月2日の芥川龍之介あての手紙に書かれている俳句です。・・・・龍之介は木曜会のもっとも若いメンバーですね。この年24歳です。ちなみに、この手紙では、小説「芋粥」を読んだ感想を細かく書いて龍之介を励ましています。さらに言えば、この年の12月、漱石さんは他界されます。
子規 この句、自分の後を若い人に託すという気分なのかねえ。「一巻の書の読み残し」は、まだ途中までしか読んでないのにもう立秋になった、と読める。また、読み残しがあるままに人生の秋も立ってしまった、とも読めるね。後者だと、後事を若い人に託す気分だ。・・・
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読み通してゆくと、漱石の句の良さが分かり、惹かれるものを感じる。同時に、漱石を改めて追ってみたいとも思った。 句にとどまらず、全人的に、絵も文学の面でも、またデザイナーとしての漱石、そして書簡などを通じての人間像も。
稔典さん、いい本を書いていただき、感謝です。 あー、楽しかった!