(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

読書/俳句『俳人漱石』(後編)

2007-03-11 | 時評
漱石の句と、三人の鼎談をもうすこしご紹介しよう。

(三十六峰我も〃と時雨けり)
稔典 この京都の東山三十六峰を詠んだ句はおもしろいですね。

子規 「我も〃と」がいいね、。山が舞台の中央に出てきて名乗っているよう。芝居がかっているところがおもしろい。

漱石 服部嵐雪の「蒲団着て寝たる姿や東山」に匹敵する名句といっていいかねえ。

子規 匹敵するかどうかはともかくとして、京都の冬の情緒を伝えるキャッチフレーズにはなってるよ。・・・・・・


稔典 このころから、漱石さんは一つの題で数句をつくるようになります。今の場合だと時雨で二句をつくったのです。漱石さんの作句が意識的になってきたということではないでしょうか。それに、この作り方は、体験や見聞にもとづく作り方ではなく、言葉から発想する作り方ですね。子規さんも一題で十句つくる「一題十句」を好まれましたが、おなじようなことを漱石さんも始めたようです。


〔余談〕子規は、短歌の革新に大きな業績を上げており、この鼎談でも印象深い歌が紹介されている。星の歌である。

   ”真砂なす数なき星の其の中に吾に向ひて光る星あり” (明治33年)

 稔典さんは、漱石の言をかりて、こう言わしめている。
「子規君の歌は希望に満ちている。そのころは立つこともできない病人だったはずだが、気力が満ちた歌だ」
「子規君の短歌で私の好きなものがある。やはり『墨汁一滴』にある藤の花の歌だ。・・・・   
   ”藤なみの花をし見れば紫の絵の具取り出で写さんと思ふ”

 子規君は、藤の花の歌をつくりながら、ごく自然に深々と『源氏物語』の世界に入っている・・」


(見送るや春の潮のひたひたに)
稔典 句稿〔明治29年10月)にあります。15句からなるこの句稿の作品は、すべて恋の句です。今回の句は、「別恋」すなわち恋の別れを題にしたもので・・

子規 その句稿を見ると、僕が丸をつけているのはどれも王朝風な恋の句だなあ。

稔典 そうですね。次の2句に二重丸がついています。

    君が名や硯に書いては洗い消す
    行く春を琴掻き鳴らし掻き乱す

   ・・・・・

稔典 体験から発想すること。それが近代俳句の基本になりました。だから、題で発想することは前近代的で古いと見なされるようになります。でも、体験だけに固執すると、俳句の世界が狭くなりますね。体験できることはおのずと限定されますから。「初恋」「逢恋」「別恋」などど言葉から発想して恋を詠むのは、、これ、古典和歌の方法ですから古いものですが、体験の狭さを破る方法になるかも知れませんね。


(湧くからに流るるからに春の水)
稔典 今回の句ですが、「湧くからに」と「流るるからに」の対句が効果的ではないでしょうか。対句の快いリズムが春の水そのものになっていますね。すっかり俳人になって、のびやかに詠む漱石さんがここには、いると思います。



 (秋立つや一巻の書を読み残し)
稔典 大正5年9月2日の芥川龍之介あての手紙に書かれている俳句です。・・・・龍之介は木曜会のもっとも若いメンバーですね。この年24歳です。ちなみに、この手紙では、小説「芋粥」を読んだ感想を細かく書いて龍之介を励ましています。さらに言えば、この年の12月、漱石さんは他界されます。

子規 この句、自分の後を若い人に託すという気分なのかねえ。「一巻の書の読み残し」は、まだ途中までしか読んでないのにもう立秋になった、と読める。また、読み残しがあるままに人生の秋も立ってしまった、とも読めるね。後者だと、後事を若い人に託す気分だ。・・・

  
         ~~~~~~~~~~~~

 読み通してゆくと、漱石の句の良さが分かり、惹かれるものを感じる。同時に、漱石を改めて追ってみたいとも思った。 句にとどまらず、全人的に、絵も文学の面でも、またデザイナーとしての漱石、そして書簡などを通じての人間像も。
稔典さん、いい本を書いていただき、感謝です。 あー、楽しかった!
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読書/俳句『俳人漱石』

2007-03-11 | 時評
『俳人漱石』(坪内稔典 岩波新書 2003年12月)

 かなりの間、夏目漱石にたいする私のイメージは、芳しいものではなかった。大文豪ではあるが、倫敦に留学してノイローゼになるなんて大和男子のすることか・・・と。それが芳賀徹の『詩歌の森へ」で、”ピトロクリの谷は秋の真下にある・・”という「永日小品」の中の文章を読んだころから、すこしづつ変わってきた。さらに、おなじく芳賀徹の大著にして好著の『絵画の領分』のなかの記述で、小説家としての漱石のみならず、画人と交友する漱石、絵を描く事の好きな漱石、そしてデザイナーとしての漱石など、様々な顔を通して親近感が高まっていった。 その中で、絵の好きな漱石らしい句がいくつか紹介されていた。

     京洛の水注(みずさし)買ふや春の町
     銀屏に墨もて梅の春寒し
     白き皿に絵の具を溶けば春浅し 
     活けて見る光琳の画の椿哉

     絵所(絵どころ)を栗焼く人に尋ねけり
     注)絵どころ、は画廊、美術館とでもいう意味か。ロンドン留学中の句

 角度を変えた漱石研究でもしようかなと思っている矢先に、この本を手に取った。稔典さんの本だからといこともある。すこし前に読んだ稔典さんの『季語集』は、まだ俳句に手を染めていなかった頃だが、新鮮な感覚があり、エッセイとして楽しんだ。余談だが、いずれも岩波新書だ。 岩波の赤本は、このほかに小林恭二の『俳句という遊び』などの本を出しており、俳句の世界でも注目してる。

 さてこの本は、2500をこえる漱石の俳句から、百句を選び出し、それを漱石と子規と稔典さんが鼎談の形で対話するという仕立てある。もちろん、すべて稔典さんのシナリオに沿っているわけだが、これがなかなか”おもろい”のである。 稔典節がとまらない!

いくつかの句と鼎談を引用してみたい。


(鐘つけば銀杏ちるなり建長寺)
漱石 あれっ、これは子規君の有名な句にそっくりじゃないか。例の、「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」

稔典 ええ。そうですね。漱石さんの句は9月6日の海南新聞に、そして子規さんのは11月8日にやはり海南新聞に出ました。

漱石 私の句が先にできているのか。こりゃ、驚き桃の木柿の種だ。・・・

子規 二人で何を言ってるんだね。明瞭じゃないか。どちらが秀句であるかは。

稔典 鎌倉の建長寺に対して西の法隆寺。銀杏に対して柿。鐘つくに対しては柿喰う。この東西対決はたしかに西の勝ちですね。鐘をついたらはらはら銀杏が散るというのは、これ、寺の風景としては平凡です。はっとするものがありません。
     ・・・・・・
稔典 海南新聞の俳句は、子規さんを囲む会で生まれたか、あるいは子規さんが選んだ句だと考えられます。つまり子規さんは見ている。だから建長寺の句が  子規さんの頭のどこかにあり、法隆寺の句をつくるとき、それが無意識に媒介になったと思うのですね。

子規 それはあり得るね。僕は漱石君の句を大きく発展させたわけだ。


(夕月や野川をわたる人はだれ)
子規 ひゃっ! 恋だね。このようなロマンチックな句も漱石君の特色だ。

稔典 「何となく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな」という歌を連想しました    。・・・漱石さんには、与謝野鉄幹や晶子の「明星」に近いものがありますね。ロマンティチックな感情です。たとえば「草枕」那美、「虞美人草」の藤尾は、いわゆる紫の女です。

漱石 鉄幹や晶子はあまり読んではいないんだ。でも、美なるものへの憧れは、たしかに晶子などに近いものがあるかも知れません。

稔典 ・・この句はですね、村上霽月(せいげつ)が日記に書き留めてくれていたので残ったものです。9月22日に霽月が子規さんを訪ねました。ちょうど   漱石さんも学校から帰ったところでしたが、碌堂もやってきて、四人で連座   したようです。

子規 霽月は漢詩文や蕪村が好きだった。奇抜な発想も得意だったから、漱石君を敬慕していたのじゃないかね。
   
  ”霽月とは何らの関係もなくしてしかも隠然霽月と対峙する者を漱石となす”
       ー「明治29年の俳句界」に載った子規の言葉


(唐黍を干すや谷間の一軒家)
稔典 ・・・晩秋の明るい風景ですが、明るいだけにシーンとさびしいよう   な・・・・

子規 たしかにシーンとさびしいが、でも、なつかしい気もするね。この小品画のような風景にある光は何百年も前の光と同じなのかもね。

稔典 そうですね。今、子規さんが言われた小品という言葉から連想したのです が、小品文を集めた『永日小品』に「昔」という短い作品があります。「ピトロクリの谷は秋の真下にある」と始まりますが、このピトロクリの谷は百年の昔、二百年の昔に帰っている感じで、空の雲も、「古い雲の心地」がします。仙郷、あるいはユートピアなのですね。そこは。
ピトロクリはスコットランドの小さな村だそうですが、明治35年10月上旬に漱石さんはそこに行ったようです。

漱石 古い話で覚えてはいないが、ピトロクリや河之内の風景は好きだな。心が安らぐからね。

稔典 その好きな風景が、小説「草枕」に結晶するのでしょうか。も一種の仙郷
ですね。しかも、那古井にはやもめではないが、バツイチの那美さんがいる。河之内をうんとふくらませると「草枕」になる感じがします。・・

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


余談なるが、このピトロクリは、英国スコットランドのハイランド地方にあり、漱石が訪れた明治35年10月、それを遡ること30年前に、日本の明治政府使節団が遊覧している。以前の読書日記にも書いたが、岩倉具視を団長とする特命全権大使のミッションである。それは、久米邦武編の『特命全全権大使米欧回覧実記』に詳しい。
    


・・・(つづく)


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