りばぁさいどらいふ

東京を流れる某川のほとりから。
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旧東海道散歩 番外編㉝ 岡崎三郎信康

2019-04-30 07:45:00 | 旧東海道散歩
岡崎三郎信康・・・と聞いて「ああ!あの人ね!」と思われる方はどのくらいいるのでしょうか。少なくとも我々は、岡崎城でその生涯を知るまでこの人物を意識したことはありませんでした。
別名「松平信康」、生前は「徳川信康」と名乗っていた徳川家康の長男です。


次男の「秀康」は羽柴秀吉の養子(人質)として差し出され、江戸幕府の第2代将軍となったのは三男の「秀忠」でした。
では長男「信康」はどのような人生だったのか・・・

信康は家康の後継者として育ち、武勇に優れた武将と云われ、家康の生地である岡崎城の城主を務めていました。(母は築山殿、妻は織田信長の娘である徳姫です。)
ところが1579年(天正7年)8月3日家康が岡崎城を訪れ、翌日信康は岡崎城から退去させられてしまいます。その後は大浜城、堀江城、二俣城と転々とし、9月15日家康の命により切腹させられてしまうのです。(母である築山殿は8月29日徳川家臣により殺害されました。)
享年21歳という短い人生でした。信康の首は一度信長の元に送られた後、岡崎宿にある根石原観音堂(根石寺)に埋葬されることになるのです。

家康が信康へ切腹を命じた理由は諸説あります。
①武田勝頼との内通説
信康や築山殿と不仲だった徳姫が、父である信長へ二人が武田側と内通していると密告したことで信長が激怒し、家康に信康の切腹を命じたという説
②信康や築山殿の乱暴不行状説
気性が激しく、日頃より乱暴な振る舞いが多かった二人を家康が激怒したという説
③派閥抗争説
当時、出世の機会を多くつかんでいた浜松城派と後方支援を担当していた岡崎城派は仲が悪く、両者の対立が家康と信康との対立に発展したという説
④父子不仲説
信康が家康や信長の命に従わないなど、信康の性格を発端とした親子の不和が原因とする説

通説では①と云われていましたが、近年では④父子不仲説が有力と考えられているそうです。

生前は「徳川信康」と名乗っていましたが、江戸時代後は「徳川」姓は徳川将軍家と御三家のみに限るということになり、死後になって「松平信康」に格下げされたそうです。

あの「徳川家康」にも、このような親子関係の苦悩があったのですねsamurai
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