旧東海道に戻り、名鉄の車両基地を通過し・・・
日本橋から318km
脇道に入り、「JTEKT 岡崎工場」の前を通過します。
歌川広重「東海道五十三次之内 藤川 棒鼻ノ図」
棒鼻は、宿場の入口に立っていた棒杭のことです。馬には御幣が立てられており、御馬献上(旧暦の8月、幕府から京都御所へ馬を献上していました。)の一行が描かれています。宿場の外へ迎えに出た人々は、紋付き袴姿でとても緊張している様子。左端に描かれた子犬が可愛いです。
この浮世絵の世界が再現された「藤川宿東棒鼻跡」
石垣まで再現されています。
藤川宿に入ります。藤川宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠数36軒の小さな宿場でした。
1975年(寛政7年)建立「秋葉山常夜燈」
「むらさき麦」・・・初めて知りました。江戸時代以降栽培されなくなりましたが、平成6年から再び栽培されるようになったそうです。
道に迷いながら、何度も角を曲がり「曲手(かねんて)」を進みます。
発足したばかりの藤川宿は大変小さな宿場であったため、加宿としてこの辺り(宿場の東側)に山中郷の市場村を移転させたそうです。
気持ちの良い1本道を進みます。
「称名寺(しょうみょうじ)」
「問屋場跡」
「米屋と銭屋」
今は広場になっている「本陣跡」
石垣や井戸が残っていました。
手前には高札場が再現されていました。
江戸時代は、問屋場跡の辺りに高札場があったそうです。
この景色を見ながら、高台でひと休み。
ふと見ると・・・目の前に「むらさき麦栽培地」がありました。
藤川小学校の児童が育てているそうです。
稲穂がうっすらと紫色で、全体をみると確かに紫色の麦畑です。(写真ではわかりにくいほど、薄い紫色です。)
「ここも三河 むらさき麦の かきつばた」 松尾芭蕉
(ここも三河なのだ。紫色の麦が(知立八つ橋の)かきつばたのようだ。)
(つづく)
日本橋から318km
脇道に入り、「JTEKT 岡崎工場」の前を通過します。
歌川広重「東海道五十三次之内 藤川 棒鼻ノ図」
棒鼻は、宿場の入口に立っていた棒杭のことです。馬には御幣が立てられており、御馬献上(旧暦の8月、幕府から京都御所へ馬を献上していました。)の一行が描かれています。宿場の外へ迎えに出た人々は、紋付き袴姿でとても緊張している様子。左端に描かれた子犬が可愛いです。
この浮世絵の世界が再現された「藤川宿東棒鼻跡」
石垣まで再現されています。
藤川宿に入ります。藤川宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠数36軒の小さな宿場でした。
1975年(寛政7年)建立「秋葉山常夜燈」
「むらさき麦」・・・初めて知りました。江戸時代以降栽培されなくなりましたが、平成6年から再び栽培されるようになったそうです。
道に迷いながら、何度も角を曲がり「曲手(かねんて)」を進みます。
発足したばかりの藤川宿は大変小さな宿場であったため、加宿としてこの辺り(宿場の東側)に山中郷の市場村を移転させたそうです。
気持ちの良い1本道を進みます。
「称名寺(しょうみょうじ)」
「問屋場跡」
「米屋と銭屋」
今は広場になっている「本陣跡」
石垣や井戸が残っていました。
手前には高札場が再現されていました。
江戸時代は、問屋場跡の辺りに高札場があったそうです。
この景色を見ながら、高台でひと休み。
ふと見ると・・・目の前に「むらさき麦栽培地」がありました。
藤川小学校の児童が育てているそうです。
稲穂がうっすらと紫色で、全体をみると確かに紫色の麦畑です。(写真ではわかりにくいほど、薄い紫色です。)
「ここも三河 むらさき麦の かきつばた」 松尾芭蕉
(ここも三河なのだ。紫色の麦が(知立八つ橋の)かきつばたのようだ。)
(つづく)