梅様のその日暮らし日記

その日その日感じた事や世間で話題の事について自分なりの感想や考えを書いていきます。

年賀状を読んでの総括

2015-01-07 05:52:31 | 日記
  昨日のブログは韓国ドラマのタイトルがずらりと並んだからでしょうか、いつになくアクセスがありました。検索キーワードとして一番素晴らしいのは、何度か閲覧してくださっている、「KARAヨンジ太目」ですね。KARA物は振り返ってみると案外何回も書いていました。昨日一番多かったのは、しかし今日は、また、お堅い話題に戻ります。

どうやら今年の年賀状も、届くべきものは届いたという頃になりました。一人だけ、君は私に出すべきだろうという子から来なかったのがちと問題ですが、出す・出さないは本人の自由ですので、これは放置しておきましょう。そして、自身の高齢化に伴って徐々に減りつつある年賀状ではありますが、私と同年代以上の方々の年賀状の文面に、感慨深いものが混ざっています。

   それは、政治が悪くなった、というもの。戦後の平和主義はどこへ行った、というものです。実を言えばこうした文面の年賀状を下さる方は若いころから一貫してこの内容なので、皆さんの意見が正しければ、既に日本は3、4回戦争をしていなければならない勘定になります。しかし、幸い今のところ、そうした最悪の事態には至っていません。

   繰り返しになってしまいますが、戦争はしない、と言っていれば戦争をしないで済む、どこかの国から攻め込まれずに済む、といった神話は通用しないのです。皆さん、何故にこんな単純な理屈がわからず、いわゆる平和憲法死守を叫ぶのか、私には理解不能です。

   昭和16年12月初め、文芸春秋は、「日米開戦はない。」という内容の記事を、新年号の特集記事として編集を終了しました。その時点で、天下の文芸春秋が、日米開戦の兆候を把握していなかったのです。そして、月間文芸春秋が発売されたのは真珠湾攻撃が行われた直後の事でした。

   しかたありません。日本は最後の最後まで、アメリカと戦争をする気などなかったのですから。日本には戦争をする意思がないのに、いくら交渉をしようとしても、日本と戦争する気満々だったルーズベルトが応じなかったのが事の真相です。日本は現状打開のために、首相のアメリカ訪問まで用意し、アメリカの意向を打診していたにも拘らず、死んでも日本とは戦争すると決めていたルーズベルトがのらりくらりとこれに応じなかったのです。

   ではルーズベルトは日本と戦争すると口に出して言っていたのか?否。彼の選挙公約は、「いかなる戦争にもアメリカ人の若者を送り込むことはしない!」というものでした。しかし実際には、アメリカと戦争する気はないと言い続け、洋上でアメリカ軍の攻撃を受けても一切反撃させなかったドイツを、そしてアメリカとの戦争回避のために死に物狂いで道を探っていた日本を、戦争へ引きずり込んだということが、次々と明らかになっています。

   このことはアメリカの上院議員などが著わした複数の書物で明らかにされているのであり、寝ぼけた日本人の寝言ではないのです。私に年賀状を下さっている中で、憲法九条死守を叫び続けている皆さんは、明らかに何の勉強もせず、何十年も前に壁に張った標語を唱え続けているに過ぎません。

   このテーマでは既に何冊もの本が出版されています。いずれも何百ページになる大冊です。ここでも意を尽くして述べたらきりがなくなりますから、一回で読み切れる範囲でやめておきますが、「平和」とか「戦争放棄」と唱えること自体、実はあまり意味がないのです。

   そもそも、現行憲法の改正に反対している人たちは、民主主義の何たるかを全く理解していません。日本国の憲法は、日本人が内容を練り、日本国国会によって審議されて発布されるものでなければなりません。アメリカが作ってくれて押し付けてくれた憲法を有り難く受け入れたのは占領下であったからやむを得なかったというだけのことです。(しかし国際法上ではこれも本当は違反しています。いずれの国にも、他国の憲法を作る権利はありません。当たり前でしょう。)

   国という文字は、本来「國」と書きます。漢字は象形文字です。中国の都市が城壁で囲まれるより昔には、國という文字の外側を囲む□もありませんでした。□の中は、矛を持って土地(人という説もあります)を守る姿が描かれています。国の形というのは、本来そういうものです。その意味で、中心に王様がいたからこう書くのだ、という錯覚に陥ってしまいそうな「国」という文字はもうやめて、國という由緒正しい文字に戻したらどうなのかと思います。この一文字を元に戻したからといって、漢字の学習に差し支えるというものでもありますまい。