ホセ・クーラは現在、テアトロコロンの2017年最後の演目であるアンドレア・シェニエに出演中です。(12月5、10、13、16日)
母国滞在中に、何度か現地メディアのインタビューにこたえています。どれもスペイン語ですが、今回紹介するものは、クーラのシェニエ論、シェニエと現代社会、オペラの発展とヴェリズモについて、オーケストラの楽器とチューニングの問題など、とても興味深い内容です。不十分な語学力を承知のうえで抜粋して訳してみました。誤訳直訳、お許しください。
なお今回の公演については、これまでに、リハーサルや初日の様子、事前の経過などをいくつかの記事で紹介しています。
また、クーラが以前、アンドレア・シェニエの解釈について語った内容もまとめています。合わせてお読みいただければありがたいです。
ホセ・クーラ:世界の偽善に対する言葉
テノールはテアトロコロンの今シーズンの幕を閉じるオペラの主人公、フランスの詩人、アンドレア・シェニエ(AndreaChénier)との関係を語る。
アルゼンチン人のテノールであるホセ・クーラは、マルセロ・アルバレスが劇場との契約解除を決めた後、テアトロコロンの新演出であるそのオペラを選択した。クーラは、世界で最も認知されたテノールの1人であり、ヴェリズモのレパートリーとの親和性が非常に高い。彼のカヴァレリア・ルスティカーナと道化師のデュオのビジョンは、おそらく究極のヴェリズモの表現であり、それは2015年のテアトロコロンでの公演だった。
ウンベルト・ジョルダーノのオペラ、アンドレア・シェニエは、フランス革命でギロチンにかけられたフランスの詩人の人生にもとづくもので、テアトロコロンの2017年シーズンの最後の演目。元のキャストに重要な変更が加えられたが、それはタイトルロールだけではなく、演出もルクレシア・マルテルの手からマティアス・カンビアッソの手に渡った。 (「Clarin.com」)
――それは特別なキャラクター:時代に抵抗する詩人
(クーラ) 2つの側面がある。一方はロマンチックな詩人、もう一方はヴェリスモの時代のスタイル。
ヴェリズモはよりドラマティックで、より直接的なモードを持っているため、その2つは相容れないスタイルであり、さらにハードなオーケストレーションによって、より「迷惑」な面がある。また、もっと甘く歌いたい場面があるが、多くのメタリックなものがあるのでできない時がある。そしてそのことは、よりロマンチックで夢みるキャラクターに逆らっている。しかし台本はその通りであり、第3幕では、アリア(実際には独白)で、「私は兵士であり、私の武器はペンであった」と語る。その時、シェニエはこう言っている。「十分だ。彼らのように私も言うべきことを言う。もし望むのなら、私を殺せばよい」と。
――ルクレシア・マルテルは演出から降りることに決めた。彼女が提案したものは何も残っていなかった?
私は彼女が何を考えていたのか、公表されたコメント以上のことはわからない。
・・(別の人がデザインした)非常に効果的なセットは変更されていない。
・・
幸運なことに、マティアス・カンビアッソ(最終的な演出家)は、劇場での素晴らしい経験をもつ人。彼は最初の日、私たちに「仕事の徹底的な研究をする時間がなかった」と言った。私たちがやっていることは、彼の素晴らしい経験と、私たち全員の豊かな経験にもとづいている。
――シェニエのキャラクターは?
シェニエは、今日、起こっていることを照らし出すうえで、非常に興味深い。それは偽善の婉曲表現である「ポリティカル・コレクトネス」についてだ。彼は自分の名前で物事を明らかにしたために首を切られた。ほとんどのアーティストと同様に、彼はある種の革命を守った。なぜなら、アーティストが正直であり、政治的に操作されていないならば、変革に賛同する立場にあるからだ。シェニエはそれについて語っている。「ある日、青空を眺めて(Improvviso)」(第1幕)は、ボブ・ディランがやったように、抗議の歌(プロテストソング)だ。シェニエは、司祭と役人たちすべてを前にして、彼らは偽善者であると伝える。
――しかし魅力的な変化ではなく、恐怖政治で終わるが?
それがキャラクターの面白さの理由だ。冒頭、彼が告発したのと同じように、彼が守ったものが、彼が批判したものと同様に危険に見え始めると、彼はそれについても告発する。だからこそ彼の友人は、(敵ではない)彼の頭を切り落した。そして違いは、あなたの頭が切断される時、敵が体を傷つけるのではなく、友人がそれを切り落とすとき、それはあなたの魂を傷つけるということだ。物語は、今日起こっていることに照らして非常にモダンだ。
――いつも、アンドレアシェニエの音楽の失敗が話題になるが、それについてはうんざり?
オペラで起きる雰囲気は、闘牛やサッカーのようなもの。そこでは不快感を伴う情熱がカクテルに変わる。
ヴェリズモは、"通常の"ロマン派オペラの成果、例えばヴェルディに到達していないのは事実だ。しかし、ヴェルディとワーグナーに達するには200年にわたる進化があり、これまでのすべての作曲家がそこを通過している。ヴェリズモは、音楽を作る方法への反作用として生まれ、それは模索である。その誕生は物議を醸し、平静なものではなく、むしろ伝統に対する反発だった。 その後、アーリゴ・ボーイトがリードしていたヴェリズモが、ヴェルディに影響を与えた。しかしヴェリズモには成熟する時間がなかった。それが洗練されなかった理由だ。ピエトロ・マスカーニは長年活動していたので洗練された。彼の最後のオペラには素晴らしい豊かな色彩がある。イリスは素晴らしい。ヴェリズモが始まったとき、フランスで印象派が始まり、シェーンベルクがオーストリアに登場した。吸収することがたくさんあった。1900年以降、素晴らしい達成があった。ジャコモ・プッチーニが、「マダムバタフライ」、「トスカ」、「西部の娘」などのオペラを驚くほどの密度で作曲し、「三部作」(1918年「外套」「修道女アンジェリカ」「ジャンニ・スキッキ」)、「トゥーランドット」において音楽的色彩を豊かに洗練した。
――しかし今日でも、「トゥーランドット」の歌手のすべての声を聞くことはまだ不可能だ。オーケストラが勝つ。同時に柔軟かつ大きな声を見つけることも困難だ。
問題は、楽器が構築される方法と材料にある。腸で作られたガットから金属製の弦に変わり、私たちは半音を上げて演奏している。これらの楽器は非常に明るい響きをもっている。作曲家が望んでいたことをするのは、そのハーフトーンを下げることではないだろうか?これは音に到達することについてではなく、今、オリジナルよりも半音高くなっているその音についてのことだ。今日の歌手については、1950年代の歌手のように柔軟性をもって歌わないということが主張されている。これらのアーティストが素晴らしい声を持っていたことは事実だが、しかしまた、現在では、すべてのチューニングをハーフトーン上げていることを考慮しなければならない。それらの伝説の歌手たちがその柔軟性をもって半音高く歌えるかどうかはわからない。もし人々がこのことについて関心を持っているのなら、私はそのシステムを問題にしていくよう問いかけるだろう。喉頭には登るための留め金はないのだから。ノートは作られているが、すべての上の半音は少しタイトだ。私は最近、435Hzのチューニングで演奏するイギリスのオーケストラとともに歌った。すべてが変わった。その言葉はチューニングによって理解される。ヴェルディは432Hzを好み、その周波数の声の音は、最大50人のミュージシャンのオーケストラで、テキストを理解し、歌手が強制しない柔軟性を持っていると主張していた。
(補足*現在では440Hzが基準とされていますが、実際にはもっと高い442~445Hzで演奏されることが多いそうです)
――なぜ今日では、80名以上のミュージシャンがオーケストラに参加している?
楽器の音がとても明るいため、バランスをとるためにはより多くが必要になるためだ。この問題は、歌手に向かって叫ぶことに限ったことではない。それほど単純なことではない。これはすでにマリア・カラス、プラシド・ドミンゴによって指摘されていたことだ。
*画像は劇場関係のFBなどからお借りしました。