人と、オペラと、芸術と ~ ホセ・クーラ情報を中心に by Ree2014

テノール・指揮者・作曲家・演出家として活動を広げるホセ・クーラの情報を収集中

アンドレア・シェニエの解釈――信じるものを守るために立ちあがる Jose Cura / Andrea Chénier 

2016-04-29 | オペラ・音楽の解釈


ホセ・クーラの最後の来日は2006年、ボローニャ歌劇場のジョルダーノ「アンドレア・シェニエ」でした。共演はマリア・グレギーナ、バリトンのカルログエルフィ。ボローニャでの公演がDVDにもなっていますし、来日公演をご覧になった方も多いかと思います。
 →クーラのHPのDVD紹介ページ

 

ボローニャ歌劇場でのリハーサル風景
Rehearsing Andrea Chenier in Bologna (exerpt)


クーラは、このアンドレア・シェニエを、共感できるオペラのキャラクターとしてあげています。
いくつかのインタビューからシェニエの解釈や作品論を、またいくつかのクーラの録音などを紹介したいと思います。

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●共感できるのはシェニエとトスカのカヴァラドッシ
人格的な意味で共感できる役柄は、アンドレア・シェニエとマリオ・カヴァラドッシ。両者は類似している。自ら信ずるものを守るために立ち上がり、そしてそのために死ぬ。

ジョルダーノのアンドレア・シェニエとプッチーニのトスカ、2つのオペラは構造も非常によく似ている。アリアの場所、デュエットの文脈、これらは実質的に同じだ。アリア「星は光りぬ」と「五月の晴れた日のように」は兄弟だ。

シェニエの作曲はトスカに4年先行している。シェニエと違って、トスカは途切れのない傑作だ。しかしシェニエとカヴァラドッシは、ともに人間的にポジティブ。ステージに行くたびに、「自分自身であること」を主張し、そして死ぬ。



――2014年ストックホルムでのインタビューより
●彼らは変革の萌芽

彼らは人々の魂に向けて語る。画家、作曲家、演奏者、哲学者、詩人など、いわゆる知識人であり、彼らは常に変革の萌芽である。

そのために彼らの多くは、身体的または社会的な死をも含む高い代償を払ってきた。アンドレア・シェニエはそうした人々の1人。彼は両方の代償を払った。最初は社会的な信用を奪われ、そしてギロチンに。

私自身が一種のドン・キホーテなので、シェニエであることにくつろぎを感じている。
シェニエの性格と精神を明らかにしている"Improvviso"(独白)は、真のプロテスト・ソング(抵抗の歌)だ。

●ジョルダーノは良い作曲家だが、天才ではなかった
アンドレア・シェニエのオペラ全体の中で、最も重要であり、キャラクターにとってのターニングポイントとなるフレーズの一つは、ぎこちなく音楽に埋もれたままになっている。
それは、“La eterna cortigiana curva la fronte al nuovo iddio”(同じ年老いた売春婦が新しい神にひざまずく)。群衆が新しい司令官に盲目的に熱狂している様をみながら、シェニエが言う言葉だ。

(キーとなるフレーズが埋もれていること等について)ジョルダーノは良い作曲家であったが、天才ではなかった。ヴェルディやプッチーニならば、このようなことは想像もできない。

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クーラがこのオペラ全体のキー・フレーズだと指摘したセリフは、ボローニャ歌劇場の公演DVDでは「永遠の奴隷だ!新しい神を拝もうと列をなして!」という字幕がついていました。確かに、音楽の流れの中に埋もれており、指摘されて改めて見なければ、このフレーズは印象に残らず、見落としてしまうと思いました。
フランス革命のなかで力を発揮し、その後の恐怖政治、反革命、混乱の時代のなかで断頭台に送られたシェニエ、そのシェニエをめぐる時代のうねりと転換点を見すえたシェニエの透徹した視点を示すフレーズが、オペラのなかで十分に生かされていないというのが、クーラの指摘なのだと思います。
クーラ自身、情熱的な熱血漢で、社会的関心も高く、シェニエの人物像に共感を感じているだけに、また、そして、作曲家、指揮者としても活動しているクーラだけに、シェニエの人物像、物語をより深めることに十分成功していないジョルダーノの音楽上の弱点を指摘しないではいられないのでしょうか。



クーラが人格的に共感できるという悲劇の詩人シェニエ、クーラのこれまでの動画や録音からいくつか紹介します。

1997年、ウィーンでコレッリを囲むコンサートより。「5月の晴れた日のように」。熱く歌いあげている。今の成熟した声、表現とはまた違う若い魅力がある。
Jose Cura "Come un bel dì di maggio" Andrea Chénier


同じく、シェニエの辞世の句「5月の美しい日のように」、1999年パリ、コンサートのため、やや明るめの表現でドラマティックに盛り上げている。
Jose Cura 1999 "Come un bel dì di maggio" Andrea Chénier


アンドレア・シェニエから第2幕の二重唱「甘美な時よ、崇高な愛の時よ!」を。2001年ベルリンでのコンサートより(音声のみ)。録音良くないが美しい。
Jose Cura 2001 "Ora soave, sublime ora d'amore!" Andrea Chénier


一番最近のもので録音がある、同じく「5月の美しい日のように」の2013年ウィーン国立歌劇場。解釈を深め円熟した味わいのシェニエ。革命の激動に散った詩人の生への哀惜、誇りと諦観が切ない。
Jose Cura 2013 "Come un bel dì di maggio" Andrea Chénier


最後に、上にあげたものとダブりますが、クーラの「5月の美しい日のように」だけを年代別に1999、2001、2004、2013年と並べたマニアックな(笑)ものを。こうして聴くと、初期の若々しい声の魅力とともに、年を重ねるごとの解釈と表現の深まりが聴きとれるように思います。
José Cura Andrea Chénier "Come un bel dì di maggio" 1999~2013











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