Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

藤原保信『自由主義の再検討』ノート(01)

2020-09-26 | 日記
 第01回 藤原保信(ふじわら やすのぶ)『自由主義の再検討』(岩波新書・1993年)ノート

 このノートでは、藤原保信さんの『自由主義の再検討』をテキストとして、それに基づいて、近代社会の歴史と思想の流れに沿いながら、国家と社会、社会と市民、資本と労働、富と貧困、権利と義務などの問題を考え、私たちの社会が抱えている様々な問題を考察し、解決する糸口を見つけるきっかけにしたいと思います。
 本書は、藤原さんが亡くなる1994年直前に書かれたものです。頁数にして200頁ほどですが、藤原さんが積み重ねてきた学問と思索を集大成したものではないかと思います。しかも、1990年代に入って、ソ連、東ドイツ、東欧の社会主義体制が崩壊し、第2次世界大戦後の世界政治の基本的な対立構造であった米ソ冷戦、東西冷戦が崩壊した直後に書かれたものです。
 あれから20年が経ち、世界史の出来事を冷静な目で見つめることができることができるようになりましたし、また藤原さんが当時書かれたものも、その真意をくみ取って考えることができるようになったのではないかと思います。多くの人々と意見を交わしたいと希望しながら、死の瞬間まで考え抜いた命がけの書物です。少しでも多くのことを本書から学び取りたいと思います。
 このノートでは、テキストの文章を紹介し、解説し、批評しながら、藤原さんが何を伝えたかったのかを整理します。藤原さんの主張をどのように受け止めるかは、1人1人の課題であり、それに関して正解のようなものはありませんが、世界史が大きく変動し、それに直面しながら書かれた藤原さんのメッセージをまずは正確に聞き取るい努力をしていきたいと考えています。そして、そのなかから物事を考える手がかり、ヒントになるものを自分の思考に取り入れたいと思います。
 藤原さんは、政治思想史の研究者であり、それに関する問題について豊富な知識を持っている専門家です。しかし、その言葉を「師匠」と言葉としてあえて受け取らないでおこうと思います。「有り難いお言葉」としてではなく、1人の研究者が必死になって時代を見つめ、そこから更に1歩踏み出す道を探しだそうとした苦悩の言葉として聞きたいと思います。

0 本書の紹介
 藤原保信『自由主義の再検討』は、1993年に岩波新書として出版されました。表紙をめくると、カバーの裏側に本書の紹介が次のように書かれています。

 資本主義の経済、議会制民主主義の政治を軸とする「自由主義」--それは社会主義体制の崩壊によって勝利したといえるだろうか。むしろ今こそ、その自己克服・修正が求められているのではないか。近代の思想史を見直しながら、自由主義の本質と限界を明らかにし、21世紀に向けた新しい思想「コミュニタリズム」への展望を語る。

 この紹介文によって、藤原さんが何を見つめ、何を考え、何をしようとしていたのかが分かります。1980年代の終わりに、西ドイツと東ドイツを分断してきたベルリンの壁が崩壊し、東ドイツが西ドイツに併合・吸収される形で、東ドイツにおける社会主義体制が消滅しました。また、ソ連における社会主義の体制が崩壊し、ロシアを始めとする連邦を構成してきた社会主義体制が崩壊しました。さらにその波を受けて、東欧の社会主義体制が連鎖的に崩壊しました。社会主義理論の創設者であるドイツのカール・マルクスとフリードリッヒ・エンゲルスが実践し、ロシアにおいてレーニンによって実践され、世界を二分するほどまでに大きな勢力圏を形成してきた社会主義体制の国家群が一瞬にして崩壊しました。それが1980年代の終わりから1990年代の初めにかけて当時の人々に衝撃を与えた世界史的な事象でした。「社会主義の時代は終わった」と、多くの人々は受け止めました。
 かりに、社会主義の時代が終わったとするながら、その後の時代はどのように特徴づけられるのでしょうか。その当時は、「自由主義の勝利」という言葉によって時代を特徴づける議論が盛んに行われていました。自由主義(資本主義)と社会主義の対立の歴史は、社会主義の崩壊・敗北によって終わり、勝利者として自由主義だけが残った。これまでのような対立の歴史はもはや存在しない。歴史もまた終わった。このような「自由主義の勝利」が声高に叫ばれていました。
 藤原さんは、これに対して異論を唱えています。自由主義は、「社会主義の崩壊によって勝利したといえるのだろうか」。世界には自由主義に起因する様々な問題(環境問題などがその典型)があふれているではないか。それを解決しないまま、対立する社会主義が崩壊したことをもって、自由主義の勝利などとのんきなことはいっていられないはずだ。「むしろ今こそ、その--自由主義--自己克服・修正が求められているのではないか」。20年以上前になされた藤原の指摘は、その当時だけでなく、「むしろ今こそ」私たちに大きな問題提起として迫っているように思います。かりに社会主義が崩壊したという主張が正しくても、世界が抱える問題は残されたままで、それを解決する作業をどのように進めていくか、その課題は残されたままになっています。
 藤原さんは、その作業を進めるために「コミュニタリズム」という新しい思想を提唱しています。社会主義は、資本主義の矛盾を克服するために提唱された思想です。その社会主義が国家体制となり、資本主義の矛盾を克服したかに見えましたが、社会主義の内部にも問題があったようです。そのため社会主義の体制は崩壊せざるをえませんでした。では、資本主義(自由主義)が勝利したのかというと、社会主義が克服しようと試みた資本主義の矛盾は未解決なままです。決して勝利したとはいえません。藤原さんは、自由主義・資本主義の--根本的変革ではないが-ー自己克服・修正の方法として、「コミュニタリズム」に可能性を発見しました。それを整理された形で書かれたのが、本書『自由主義の再検討』です。
 このように本書の特徴を大まかに理解しながら、1頁ずつ読んでいきます。

 序章 自由主義は勝利したか
1自由主義から社会主義へ
 藤原さんは、学生時代に--1950年代、60年代--、H・J・ラスキの『ヨーロッパ自由主義の台頭』(1936年)を興味をもって読んだそうです。自由主義は、階級や人種を超えた普遍的な思想・体制であった。いや、そのはずであった。しかし、実際には中産階級が政治的支配を握るためのイデオロギーでしかなかった。そのことが今や--1930年代--明らかになった。それゆえ自由主義は、そのイデオロギーの虚構性を暴き、それを見抜いた人々によって批判され、何時の日か崩壊・没落することを運命づけられている。自由主義の崩壊後、それにとって代わる思想は何か。階級や人種を超えた普遍的な思想は何か。それは社会主義である。藤原さんは、このような主張に興味を抱き、例えばE・H・カーの『西洋世界に対するソヴィエトの衝撃』(1947年)も読まれたようです。資本主義から社会主義へ、その思想の確立・変遷過程、それに基づいた政治変革の運動過程、そして国家・社会の体制構築の過程には様々なものが予想され、紆余曲折を経ながら進められるとしても、社会主義は思想的にも、運動的にも、体制面においても、自由主義にとって代わるべき歴史の未来を意味していた。藤原さんは、このように「社会主義」を回想します。それは、目の前で社会主義が崩壊したがゆえにです。社会主義は、資本主義の問題点を解決するために、資本主義を根底から変革して、新たな水準にまで引き上げた社会の状態を指していたはずである。しかし、今では社会主義が資本主義によって根底から覆されたかのようである。これは一体どういうことか。藤原さんは、このように社会主義を回想しています。

2自由主義は勝利したか
 東ドイツにおいて、東欧諸国において、そしてソ連において社会主義は崩壊しました。資本主義を乗り越えて新たな社会をもたらすはずに社会主義は、人々の期待や予測を裏切って、無惨にも崩壊しました。社会主義の理念・学説は、1917年にロシアにおいて、そして戦後はドイツの東半分と東欧諸国において実践に移されましたが、それは失敗に終わった実験でしかなかったと、藤原さんは指摘しています。
 もちろん、今でも社会主義を名乗る国はあります。また、社会主義的経済とその政治体制に分類される国はあります。中国、北朝鮮、ベトナム、キューバなどの国がそれです。しかし、そのような国の状況はどうでしょうか。資本主義の矛盾や問題点を克服して成立したといえるでしょうか。現実はそうではありません。むしろ、資本主義の社会よりも深刻な問題を抱えているといえます。中国における香港における人権抑圧、ウイグルやチベットにおける民族・宗教弾圧を批判しているのは、資本主義諸国の人権運動家やメディアの方です。北朝鮮の場合は、人権それ自体が国家によって否定され、一方での核開発とミサイル実験の蔭で、他方での貧困と餓死、疾病と退廃が蔓延し、深刻な状況にあると言わなければなりません。このような問題を解決する理念こそ、社会主義であったはずです。しかし、理念としての社会主義はともかく、体制としての社会主義、現実としての社会主義は、もう終わったと言わざるを得ないと、藤原さんは言います。それは嘆きでもあります。
 現在だけでなく、藤原さんが本書を書いた1990年代の前半にこそ、このような主張が強く主張されていました。例えば、日系アメリカ人のフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』がそうです。資本主義の陣営は、社会主義の陣営と闘ってきた。社会主義の終焉は、それゆえ資本主義の勝利を意味する。社会主義は、資本主義の問題を解決し、その矛盾を止揚すると豪語してきた。しかし、行き詰まって崩壊したのは社会主義の方であり、問題と矛盾を抱えていたのは社会主義の方であった。つまり、資本主義には社会主義が指摘してきたような問題も矛盾もないのである。社会主義の終焉によって到来したのは、根本的な矛盾も体制の選択(資本主義か社会主義かの体制選択)もない時代である。かりに資本主義に問題があるとすれば、それは社会主義によってではなく、資本主義自身によって解決されるべきであり、また解決することができる。『歴史の終わり』では、そのように述べられています。
 しかし、そのような主張は非常に短絡的であると言わなければ成りません。1990年代の初頭においては、そのような断言できる歴史的事象があったのかもしれませんが、現在では資本主義国を含め世界は解決困難な課題に直面しているように思います。人間と自然の関係に目を向けるならば、地球上の自然環境の破壊は、人類の危機、さらには地球上の生命すべての危機をもたらしています。資本主義諸国は、なんとか経済的な繁栄を維持しているように見えますが、それは、ラテン・アメリカ、アフリカ、中近東、東南アジアなどの発展途上国の犠牲の上に成り立っているともいえます。ソ連・東欧における社会主義体制の崩壊によって、かつての米ソ冷戦時代のような「歴史」は終焉を迎えたのかもしれませんが、「歴史の終わり」どころか、新たな「歴史の始まり」の時代にいるように思います。それでも、資本主義・自由主義は勝利宣言をできるのでしょうか。自由主義は、世界と人類が直面している難問を解決できる自信があるのでしょうか。

3自由主義とは何か
 では、自由主義とは何でしょうか。社会主義の理念・学説が、その内部にある矛盾を克服し、問題を解決しようと試みた自由主義とは何でしょうか。自由主義とは、資本主義と同義であるといってよいでしょう。しかし、少し厳密に言うと、自由主義を経済領域において具体化したものが資本主義経済・市場経済であり、政治領域において具体化したものが民主主義、とりわけ複数政党制・普通選挙制度・議会制民主主義です。つまり、自由主義の社会とは、経済的には資本主義社会であり、政治的には議会制民主主義であると、藤原さんは言います。そして、このような経済システム・政治システムが、先に挙げたような環境問題などのグローバルな問題を引き起こしているのです。
 自由主義は、経済的には生産手段の私的所有を前提とし、労働生産物は商品という形態をとって市場を通じて交換され、それによって利潤の最大化を図ることを目的としています。そして、政治的には、思想、言論、出版、結社などの自由を人々に法的に保障しつつ、複数の政党が存在し、選挙を通じて政権が成立し、また交替することによって成り立っています。
 このような自由主義の社会システムは、イギリス、フランスなどのヨーロッパにおいて成立し、その後多くの国において普及しました。そのシステムのおかげで、社会と人々は経済的な繁栄と幸福に恵まれました。しかし、それが同時に人類に多くの課題を投げかけているのです。自由主義は、経済的な繁栄と幸福をもたらす一方で、貧困と飢餓、不平等と不幸をもたらしています。これらの問題を解決するためには、自由主義は自由主義にとどまってられません。自己を修正し、自己を克服していかなければなりなせん。そのためには、何をどうすればよいのか。藤原さんは、このように問題提起します。
 ただし、問題はとてつもなく大きく、一挙に解決することができないほど複雑です。従って、自由主義とは何であるのかという問いは、様々な角度から問い直さなければなりません。例えば、自由主義以前の時代において、人々はなぜ自由主義をもとめ、社会を変革したのか。自由主義にはどのような希望が込められていたのか。自由主義によって世界と人類をどのような方向に向かわせようとしたのか。このような自由主義の正当性を解き明かしたうえで、それにどのような限界と陥穽(落とし穴)があったのかを見ていくべきでしょう。そして、その限界を超えるために考案されたのが社会主義の離縁であったわけですが、それにも同じように限界と陥穽があり、それゆえに崩壊したというのであれば、それを克服するきっかけを再び元々の自由主義に求めることができるのかどうか、自己修正された自由主義であれば可能なのかどうかを検討することができるでしょう。