Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

第10回講義「現代と人権」(2013.11.29.)

2013-11-30 | 日記
 第10回 現代と人権   日本の超国家主義――昭和維新の思想(その1)

 今日から4回にわたって検討するテーマは、「日本の超国家主義」です。これまで日本の観念論、日本の唯物論、そして日本のプラグマティズムの3種の思想とそれにもとづく運動について考察してきました。白樺派は、観念論にもとづいて、「宇宙の意志」に沿いながら、倫理的な共同体生活を続けることで、一つの理想社会の典型的なモデルを作りあげようとしました。日本共産党は、唯物論にもとづいて、マルクス主義の科学理論を基礎にした強固な党組織をつくり、当時の絶対主義的天皇制を廃止して、国民が平等な民主主義社会から社会主義社会への変革を展望して活動を進めました。そして、「生活綴り方運動」は、プラグマティズムにもとづいて、「教育勅語」にもとづく権威主義的な教育制度のもとにおいて、子どもの作文指導においてリベラルで画期的な教育を行ないました。これらの運動は、いずれも現実の社会や政治、教育に満足せずに、理念と理想を追求する思想的実践の具体例であったといえます。その思想が、伝統的な保守主義に傾倒しているか、進歩的な科学的思想を志向しているか、また人間の内省的な思考や観念的な悟りを重視しているか、事物の唯物論的な分析やその発展法則を重視しているかはともかく、現実の社会状況において、それを超え出ようとする運動的な契機を備えていたと言ってよいと思います。今日から検討する「日本の超国家主義」もまた例外ではありませんが、それはこれまでの3種の思想とは根本的な立場が異なります。

(1)右翼・伝統主義による社会変革運動
 久野さんと鶴見さんは、この章の冒頭において、日本の超国家主義、昭和時代の超国家主義の思想的・実践的な特徴を次のようにまとめています。そこでは、昭和の超国家主義が、何を変革の標的にしていたのか、それをどのような手段・方法で実現しようとしたのか、その運動の結末はどうであったかという入口の問題と出口の結論が示されています。

 「昭和の超国家主義は、既存の国家機構や伝統的制度に対して、その代表的人物を次々と殺害するという手段によって、はげしい打撃を加えた。しかし殺害のくりかえしにもかかわらず、旧来の制度や機構を一新して、自己流のスタートラインを新しく引き直す仕事は、ついに成功することができなかった。それは、旧制度の鬼子であっても、新制度の主人にはなれなかった。新しいスタートラインを全面的に引き直した独伊のファシズムとは、この点で大きく違っている」。

 「昭和の超国家主義」が変革の対象にしていたのは、既存の国家機構や伝統的制度でした。それを変革するために採用された方法は、その代表者を次々と殺害するという政治的テロリズムでした。しかし、それによって旧来の機構や制度を一新して、新しい政治機構と制度を出発させることはできませんでした。それは旧制度の内部にいて、それを担っていた人々でさえも、それを新しくすることはできなかったようです。この点において、旧来の国家制度を解体して、新しい制度を作りあげたドイツやイタリアと大きく違っています。
 昭和の超国家主義が旧い制度を破壊し、新しい制度を作れなかったことは、何を意味しているのでしょうか。久野さんと鶴見さんは、それを5点に分析してます。第1は、昭和の超国家主義の思想的限界です。昭和の超国家主義は、伝統的な国家主義との思想的な切れ目がはっきりせず、旧い制度を変革するだけの思想的・理論的な魅力や違いがはありませんでした。第2は、昭和の超国家主義が西洋思想と真っ向から対決しなかったことです。明治維新以降、西洋の近代思想や社会主義思想が取り入れられましたが、それらはいずれも衰退していきました。その結果、思想の空白が生じたのですが、そこを埋めたのが「土着的なシンボル」、天皇崇拝の思想と制度でした。昭和の超国家主義もまたこの「土着的なシンボル」を日本の思想の中心に据えようとしていましたが、そのためには明治維新以降、日本に流入してきた西洋の近代思想や社会主義思想と正面から対決しなければなりませんでしたが、それは行われませんでした。第3は、昭和の超国家主義と国民との結びつきの問題です。昭和の超国家主義は、天皇崇拝の思想を国家・制度の中心に据えるために、多くの国民大衆に働きかけて、彼らと結びつき、その心をつかむ必要がありましたが、彼らが採用した方法は、政治家や官僚を暗殺するテロリズムでした。また、伝統的な国家機構の内部にいる既成勢力と結託するという現実的な傾向もありました。第4は、その現実的な傾向ゆえに、昭和の超国家主義の思想が妥協的・折衷的な傾向を帯びたことです。相手と政治的に結託するためには、相手の立場や思想に応じて、結託する仕方や力点を変えねばならなかったために、昭和の超国家主義の本質や特質、目指す方向が不明瞭になってしまいました。第5は、伝統的な国家機構の内部と結託した結果です。その結果として、伝統的な国家主義の圧力に屈して、それによって併合され、その別動態別動体の役割を演ずるしかありませんでした。このような結果に終わった昭和の超国家主義の思想と運動の特徴を知ることは、この時期の社会運動の全体像を明らかにし、戦前日本の歴史と思想をを考察するうえで意義のあることだと思います。

(2)超国家主義の原型
 1921(大正10)年9月28日、「神州義団」の朝日平吾という29才の青年が安田財閥の安田善次郎を自宅で刺殺し、自らもその場で自殺するという事件が起こりました。捜査当局は、その動機と目的が書かれた「斬奸状」を押収しましたが、それが外部に漏れないようにしました。その内容が明らかになったのは、北一輝宛てに書かれた9月3日付けの遺書「死の叫び声」がガリ版印刷で流布されてからのことです。それによって、安田善次郎の刺殺の思想的動機が世に明らかになりました。そこには、超国家主義の原型が表されています。朝日は、なぜ財閥の領袖を殺害したのでしょうか。そもそも日本の現状をどのように見ていたのでしょうか。その根源には何があると認識していたのでしょうか。それを取り除き、彼が理想とする社会へと変革するためには、どのような方法が望ましいと考えていたのでしょうか。そして、それをなすべきは誰だと主張していたのでしょうか。朝日の遺書には、次のように書かれています。
 国家機構の中枢にいる者は何をしているか。彼らは不正を働き、それで得た金で財をなしている。また、それで政治を買収し、男爵の称号を手に入れている。資本家と企業家は、軍事産業や公共事業を私物化して、私利私欲をむさぼり、大儲けしている。巨大財閥もたそれに群がって、国の事業を利権として扱っている。国家と国民を顧みない非情で、嘆かわしい政治と経済が横行している。これに対して批判する者がいるか。いるにはいるが、彼らは日本の伝統的な国のあり方とは相容れない西洋の近代思想や社会主義思想を日本に流入され、それをもとにして日本の現状を批判しているではないか。ひどい政治によよって虐げられている貧しい人々の恨みつらみを煽り、凶暴で暴力的な労働者・農民運動を準備しているではないか。このように政治・経済の担当者も、その批判者も日本の国家と国民を顧みないどころか、非常に危機的な情勢を作り出し、日本を破局へと追い込もうとしている。このようなもとで国民はどのような生活を送っているか。働きすぎ、悪い衛生状態、栄養不足のために、多くの労働者・若者が肺炎を患っている。子どもを育てるために、売春をせざるをえなない未亡人がいる。炎天下であれ、雨風のなかであれ、右、左と声を出しながら訓練に励んでいる若い兵士がいる。腹をすかせたあまり、人の物を盗み食いして、刑務所に収容される人々がいる。それに対して、大きな法律違反をしながら、法律を巧みに使いこなして法の網の目をかいくぐって罪を免れる政治家や官僚がいる。前線で戦う兵士が敵の砲弾によって焼け死んでいるときに、ごちそうを食べ、酒をあおっている指揮官がいる。その戦争の手柄をあたかも自分一人でたてたかのような顔をして、忠君愛国を口にしている司令官がいる。このように黙って見過ごすわけにはいかない。日本の国家機構の内部にいる彼らこそ、我らの敵である。
 朝日の情勢認識は以上の通りです。これを変革するためには、どのような手段に訴えればよいと考えたのでしょうか。この醜悪極まる現実を変える方法は、いかなるものなのでしょうか。
 世の青年の皆さん。皆さんはには、大正維新を実行する任務があります。そのために、次のことを行うことが必要です。第1は、悪い政治家、軍人、官僚を殺害することです。第2は、既成政党を破壊することです。第3は、高級官僚と特権階級を殺害することです。第4は、普通選挙制度を実施することです。第5は、特権階級と身分の世襲をやめさせ、世襲財産を没収することです。第6は、土地の国有化を図り、小作農を救うことです。第7は、10万円を超える財産を没収することです。第8は、大資本を国営化することです。そして第9は、どのような地位・身分にある者も一年間の兵役に就く義務を負うことを行うことです。これらを行うために、特権にしがみついている政治家や役人、特権階級を殺害し、自らも自決してください。
 朝日の提唱している方法は、まさしく政治テロの方法です。しかも、その先には、普通選挙制度にもとづく議会政治、土地と大企業を国営化する社会主義、一握りの人が社会の富を独占せず、皆が経済的に平等になるような社会があります。方法は暴力的なテロですが、目標は豊かで平等な社会です。そして、この任務を遂行する部隊について、朝日は次のように言います。
 私のこの考えを具体的に実行してください。それを他人に話してはいけません。騒いではいけません。表に現さずに、黙って実行に移してください。ただナイフで刺してください。ナイフで突いてください。ナイフを投げてください。それを実行する者同志で連絡を取らないでください。結束する必要はありません。1人が1人を殺すだけです。そうすれば、革命の機運が盛り上がり、社会のいたるところで烽火があがり、多くの同志が現われるでしょう。何かの利益を得ようとしてはいけません。自分の行動と名前が後に歴史に刻まれるなどと期待してはいけません。ただ殺すだけ、自決するだけでよいのです。他にもっと良い方法があるのではないかと考えないでください。愚かな行動を呼びかけているなと思わないでください。その愚かさに従い、行動してください。
 朝日の「死の叫び声」は、世を憂えて、決死の覚悟で要人を暗殺した時の相手の叫び声ではありません。その要人に抑圧され、虐げられ、名もなく死んでいった国民の声に思いをはせながら、政治テロに走り、自決した瞬間の朝日自身の声です。この遺書が世に出回ってから1ヶ月ほどして、19才の青年・中岡良一が原敬を刺殺しました。中岡は原に向かって、「国賊、国賊」とののしりながら、襲いかかったようです。その動機は、朝日と同じです。捜査当局は、新聞関係者に対して、このような行動の動機を書いた文書や遺書が発見されても、それを発表・報道してはならないと禁止の措置をとりました。超国家主義の実力行動が、これを以上拡大するのを防ぐためですが、政治や経済、軍部の内部の腐敗状況を多くの人々が知っていたこと、若者が義憤の念に駆られて行動に出るほど腐敗が著しかったことを物語っています。また、2年後の1923年、関東大震災のさなかに、社会主義運動の指導者・大杉栄夫妻が軍部憲兵隊の甘粕大将によって不法拘禁されたまま、虐殺され、亀戸の労働者・平沢計七ら17人が軍隊と警察によって刺殺されました。超国家主義は、伝統的な国家機構の内部にいる腐敗した政治勢力だけでなく、国情や国体とは相いれない西洋の近代思想、なかでも社会主義の運動家をも標的にしていました。超国家主義は、お互い連絡をとって、組織的に行動していたわけではありませんが、朝日の行動をきっかけにして、それに続く者が続出したということは、政治家、官僚、労働運動家を抹殺したいと感じる人々が、民間や軍部のなかにいたということを示しています。
 明治以来の伝統的な国家主義は、元老、重臣、新旧の華族、軍閥、財閥、政党の首脳によって支えられていました。朝日らの超国家主義は、それを誰彼の区別なく、悪の元凶と見なして、殺害し、伝統的な国家制度を破壊することを目的としていました。ここに超国家主義と伝統的な国家主義との基本的な違いがあります。伝統的な国家主義は、天皇を日本の歴史・文化・伝統の中心に据えて、それによって国家的な統合を図ってきましたが、超国家主義は、元老・重臣の制度、新旧の華族制度、軍閥・財閥の存在、既成政党のすべてが、日本の国体に背く諸悪の権化であると認識し、同じ天皇を盾にして、そのような国家統合に対抗しました。伝統的な国家主義は、天皇を統合の象徴として利用しましたが、超国家主義は、そのように統合する政治を変革するための象徴として天皇を利用しました。それゆえ、伝統的な国家主義だけでなく、天皇中心の国体とは相いれない社会主義者もまた標的にされました。しかし、超国家主義の運動は成功しませんでした。「大正維新」を実現するには至りませんでした。何故でしょうか。朝日らの超国家主義が認識していたように、伝統的な国家主義は、腐敗し、堕落し、破綻しつつありました。この国家機関が、このままの状態で維持できるとは誰も考えていませんでした。このような状況を正すべく、大正時代においては、吉野作造を理論的な指導者とする民本主義、ヨーロッパの近代主義や社会主義が普及され、明治以来の国家や家制度を、上から支配する方法ではなく、下からそれを支える方法で改革しようとしていました。いわゆる「大正デモクラシー」と呼ばれる思想状況が現われました。この時期の社会主義思想のなかには、天皇制の廃止を訴える日本共産党のラディカルな主張もありましたが、天皇制を社会構造から切り離して日本の伝統として位置付け、それを社会主義に結びつける考えもありました。腐敗し破綻した国家機構をこのようなヨーロッパの新しい思想によって変革する取り組みがあり、それが多くの知識人や文化人の関心の的になっていました。超国家主義は、伝統的な国家主義と対抗することはあっても、新しい思想潮流に対しては十分に対抗できなかったようです。それゆえ、大正デモクラシーを押しのけて、「大正維新」を実現するには至らなかったのです。
 しかし、西洋の思想は、天皇制や国体とは根本的に合致するものではありません。理論的に正しく、正当な内容であっても、天皇を中心にした現実の社会に生まれ育った政治家や経済人にとっては、また一般の国民にとっても、やはり異質なものでした。人間はみな平等であるという思想には共感できても、天皇も人間であり、特権的な地位にあることは間違っていると言われると、果たしてそうだろうかと疑問視する雰囲気が強かったわけです。それゆえに、近代思想は、マルクス主義がその典型でしたが、日本では見込みがないものとして斥けられていきました。明治新以降、様々な思想が外国から日本に取り入れられましたが、どの思想も一定の歴史的な背景を持ったもので、多くの思想家の心を捉えましたが、どれもその当時の日本社会に定着しませんでした。その要因は様々でしたが、いずれにしても国民の間では広まりませんでした。内容的に正当であっても、日本の社会的・国民的な風土に沿わない思想は、最終的には日本に土着化しませんでした。このような事情が背景となって、天皇制だけが日本の歴史のなかで一度もつまずいたことがなく、天皇を中心にすえた国家・社会の思想だけが日本の社会的・国民的な風土に合致すると感じられたのではないかと思います。超国家主義は、このように一方で天皇を国家的・社会的な中心にしながら、他方で腐敗・堕落する国家機構と伝統的な制度を解体するために、天皇を変革の象徴に代えて、国家主義をさらに強めていきました。

(3)天皇の国民、天皇の日本
 明治以降の伝統的な国家主義は、「思想」というより「制度」であり、その制度を維持し動かすための解釈システムでした。そのシステムを作ったのは、伊藤博文でした。天皇に対する畏敬の念は、日本人の自然の信仰のように思われていますが、「天皇の日本」は、自然的なものでも、土着のものでもなく、伊藤らが苦心のすえに作りあげていった一つの芸術作品にたとえられます。それが人為的な作品ではなく、自然の産物のように感じられるところに、伊藤らの努力があったようです。伊藤が中心になって、明治時代の全般を通じて「天皇の国家」と「天皇の国民」を作りあげたときに、柱に据えたのが明治憲法と教育勅語でした。
 明治憲法には、天皇が国家の政治権力を掌握することが規定されています。教育勅語には、天皇が日本の精神的な権威であることが書かれています。これによって、天皇は政治権力と精神的権威の両方を兼ね合わせることができました。当時のヨーロッパ諸国、例えばドイツでは、政治権力はドイツの皇帝が掌握し、宗教的・精神的権威はローマ教皇にありました。それは今でも変わりません。このようにヨーロッパ諸国では、政治と宗教は分離され、それが当たり前でしたが、日本では明治憲法と教育勅語によって権力と権威が天皇に集中させられていました。つまり、日本の政治や社会は、憲法という法的なルールによって外部的に規律されながら、教育は教育勅語という道徳的なルールによって内面的に規律されてきたということです。これによって、政治と宗教、法と道徳、公と私が融合し、政治はその内容ではなく、宗教によって権威づけられ、個々の人間教育は宗教的道徳観によって規律され、プライバシーや私的生活空間の重要性は日本では定着しにくい状況が最初からありました。天皇は、ヨーロッパのローマ教皇のような神の権威の世俗の代行者ではなく、「神」そのもの、キリストのような存在であり、真・善・美を体現したカリスマ的な存在、国家・社会の絶対的な主体として位置付けられていました。
 このように伊藤は、天皇を明治憲法と教育勅語によって絶対的主体として位置付けましたが、それと同時に国民の「主体性」をどのようにして維持するかということに苦心したそうです。天皇を全能の絶対的主体として規定する以上、国民はそれに従う絶対的な客体になります。国民が客体として位置付けられてしまうと、国家・社会を創造するためのエネルギーを得られなくなります。また客体としての地位を押し付けてしまうと、国民が本来持っているエネルギーが反政府の方向に吸収され、ひいては反天皇の運動へと吸合されてしまう恐れがあります。明治時代の自由民権運動がその危険性を実証しています。伊藤はこれを教訓とし国民を天皇との関係においては絶対的な客体として位置付けながら、その枠内でその「主体性」を引き出そうと工夫しました。その工夫は、国民が天皇の政治を「翼賛」するとか、天皇の親政を「輔弼」するという形式に現れています。この形式が、国民が「主体的」に社会や政治に参加できる道すじになったのです。それによって、同時に天皇のシンボルとしての地位は高まり、天皇の政治が誤っても、その原因は国民の「翼賛」や「輔弼」にあったと見なされ、天皇の責任は一切不問に付される構造ができるようになりました。
 久野さんと鶴見さんは、「注目すべき」こととして、天皇に備わっている宗教的な権威と政治的な権力のうえに明治の日本国家が成り立っていたと論じ、天皇の宗教的権威を「顕教」、その政治的権力を「密教」としてたとえています。顕教とは、国民に対する「たてまえ」として天皇が絶対君主である、天皇に無現の権威と権力があるという教えを意味しています。密教とは、支配者層の間では、この天皇の絶対的な権威と権力が憲法その他の法律によって定められ、天皇が国家の最高機関に位置し、国民がそれを「翼賛」し、「輔弼」することの「申し合わせ」を意味しているます。国民に対する「たてまえ」としては天皇は絶対君主であり、支配者層における「申し合わせ」としては天皇は立憲君主、最高機関であるということです。

(4)国民の天皇、国民の日本
 しかし、伊藤の作りあげた芸術作品としての明治国家は、伊藤の死後、独自の運命をたどっていきます。天皇中心の国家体制は、徐々に統合力と求心力を失い、外部からは見えなくても、内部から解体し始めます。それに対して、伊藤の作った憲法を読み抜き、読み破ることによって、「天皇の国民」、「天皇の日本」を、「国民の天皇」、「国民の日本」へと作り変え、それを新しい統合のルールにする動きが出てきました。1人は吉野作造です。もう一人は北一輝です。吉野は、議会と政党の内閣を基礎として、「国民の天皇」と「国民の日本」を実現しようとしました。北は、軍事独裁を通じて、「国民の天皇」と「国民の日本」を作ろうとしました。天皇と国民の間に介在し、腐敗の温床となっていた様々な国家機関、官僚機構、政党を排除して、一方で国民に、他方で天皇に通ずる政府を作ろうとしました。吉野は、世論と民衆運動を基礎にしながら、民主主義と合法性を目指しました。北は、暴力とクーデタにもとづいて、独裁主義と非合法を目指しました。これらの運動はどのように実践され、どのように結末したのでしょうか。

 次回は、北一輝の出発点にあった思想と吉野作造の民本主義について見ていきます。とくに北の思想は、昭和の超国家主義との関係で非常に重要です。139頁から160頁まで読んでください。