Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

藤原保信『自由主義の再検討』ノート(14)

2021-01-07 | 日記
 現代の人権(第14回)
 藤原保信(ふじわら やすのぶ)『自由主義の再検討』(岩波新書・1993年)ノート
 第Ⅲ章 自由主義のどこに問題があるか

 藤原さんは、1990年代にソ連・東ヨーロッパにおいて生じた社会主義の実践が失敗に終わったことを受け、それを資本主義の勝利の根拠として持ち上げ、自由主義の勝利を宣言する一部の論調に対して批判しています。しかも、国内の様々な経済問題、貧困、経済格差、失業、自殺などの問題が、弱肉強食の市場経済に起因していること、それが自由主義(物質主義と功利主義)の思想によって正当化されてきたことを指摘しています。同時に、自由主義によって正当化される国際的な自由貿易体制によって生じている国家間の経済格差や機会の不均等・不平等の原因が自由競争の名のもとに正当化されてきたことを告発しています。このような状況に歯止めをかけるためには、何をすべきか。今の私たちには、何ができるのか。藤原さんは、それを問うています。
 藤原さんは、その問題の解決策を考える理論的なきっかけをさぐるために、1970年代アメリカの政治哲学の論争、ロールズ、ドゥオーキン、ノズィックらの正義論と功利主義批判の内容を検討しました。そして、藤原さんは、「ロールズ、ドゥオーキン、ノズィックのこのような功利主義批判は、それなりに説得力をもっている。にもかかわらず、かれらは功利主義にかわって新しい別の価値観を提示し、それによって自由主義を基礎づけようとするわけではない。むしろ究極的な価値の選択を各人に委ねながら、もっぱら富、権力、地位、等々社会的価値の配分の基準を問うのである。この点で重要なのは、かれらに共通する善(the good)と正(the just)ないし権利(right)との区別である」と、彼らの理論を総括的に批判しました。そこには、善と正ないし権利を相互に関連づけようとする藤原さんの考えがうかがわれます。


 3自由主義の陥穽(2)
5目的に対する権利の優位
 ロックのような自然法思想に基づけば、私有財産の獲得と富の蓄積は、市民社会に内在する自然法によって、ある一定までは制限されますが、貨幣を媒介にして商品交換が行われるようになると、その制限は取っ払われ、規制が係らなくなります。それは、市民社会における格差の拡大のきっかけでもあります。
 ロールズは、このような経済格差と不平等を「格差原理」と公正な「機会均等原理」によって是正し、経済的自由によって経済的不平等が拡大することに歯止めをかけ、自由と平等を調和させようとしました。自然法論においては、人間は生まれながらにして自由かつ平等であると理解されてきましたが、近代市民社会における理念的な人間像としては、確かにそうかもしれませんが、人間の実像としては、個々人の能力は異なり、格差と優劣があります。ロールズの「格差原理」は、各人の能力は各人の絶対的な所有物ではなく、共通の資産として共有すべきものであって、とりわけその能力に恵まれていない人々のために用いられなければならないと言います。そうすると、人間は自由ですが、その自由によって格差と不平等が生み出された場合、自由が優先されるべきなのでしょうか、それとも格差の是正優先されるべきなのでしょうか。また、機会均等が優先されるべきなのでしょうか。ロールズの考えでは、それでもなおも自由が優先されるべきだと言います。さらに、自由ゆえに経済格差と不平等が生じた場合、それを格差原理によって是正することが優先されるべきなのでしょうか。それとも、機会均等原理によって是正することが優先されるべきなのでしょうか。ロールズの考えでは、機会均等の原理による是正が優先されるべきだと言います。
 これに対して、ドゥオーキンは、平等が究極の原理であると考えるので、ロールズが「その能力に恵まれていない人々のために用いられなければならない」というような場合、その恵まれていないものが、資源であれば、資源の平等な配分を、それが機会であれば、機会の平等な配分を実現できるのではないかと期待できそうです。それは、社会主義の理念をも彷彿させるものです。
 しかし、それにもかかわらず、彼らの理論に共通するのは、善(the good)と正(the just)ないし権利(right)との区別であると、藤原さんは批判しています。この点を少し検討したいと思います。


6近代的自我の迷妄(めいもう)
 1980年代以降、アメリカの政治哲学において、新しい理論潮流が出現しました。それは伝統的な自由主義の理論に対して根底的な批判を向ける「コミュニタリズム」という理論潮流です。「コミュニタリズム」とは、日本に翻訳すると、「コミュニティー主義」、「地域社会中心主義」、「共同体主義」と様々な表現が可能です。藤原さんは、このコミュニタリズムの思想を足がかりにしながら、そこにヒントを得て、自由主義において再検討されるべき様々な点を掘り下げようとしています。
 ロールズ、ドゥオーキン、ノズィックは、いずれも功利主義を批判しながら、ホッブス、ロック、ルソー、カントらの社会契約説の伝統に回帰しようとしました。それゆえ、コミュニタリアンによる批判は、彼らの全体に向けられました。近代的自我とそれに基づく道徳理論そのものを批判の俎上に乗せました。コミュニタリアンの批判は、社会科学的であると同時に、哲学的・思想的でもあるため、すこし分かりにくいところがありますが、詳しく見ていきます。
 コミュニタリアンの代表的な論客のマッキンタイヤーやテイラーによれば、近代以降、様々な哲学・思想が主張されてきましたが、分析哲学や実存哲学、さらに現象学をも含めて、近現代の哲学はおしなべて「感情主義」または「主観主義」に陥ってきたと批判されています。そして、そのような哲学は、「善」への直接的な問いを回避することを通じて、価値の究極的な選択を個人の感情や主観に委ねてしまっていると非難されています。近代以降の哲学や思想には、人間存在とその道徳的行為に関して、根本的な誤りがあるからです。
 近代思想の出発点には、何があったでしょうか。これまで見てきたように、ホッブスやロックの近代自然法思想の出発点には、生まれながらにして自由、平等、独立した人間があります。彼らが、自由に他者と交流・交換を重ねて市民社会を形成しました。相互に契約を取り交わして、市民社会の自由を保障する機関として国家を創設しました。このような思想の出発点には、市民社会を形成する個人が存在し、その人間個人の行動は、快楽と幸福を求め、不快と苦痛を斥けるものとして説明されてきました。人間は、感情とその主観に基づいて行動する存在として認識されてきました。市民社会における人間は、快楽と不快、幸福と不幸という基準に基づいて行動し、そのような功利主義の原理が市民社会の基礎にあります。そして、その社会の基礎を揺るがす行為を行った者に対しては、国家が法によって制裁を課すことで、市民社会が維持されると考えられてきました。人間の行動を拘束・制約するものは法以外にはなく、宗教的戒律や道徳的・倫理的規範などがあっても、あくまでも個人が任意に信じている限りにおいて、その内面において規制する規範として位置づけられていました。ただし、近代以降、様々な哲学の理論潮流があり、人間の行動を快楽と苦痛、幸福と不幸というような単純な基準で分類することはできず、様々な社会的な関係において総合的に捉える必要性を強調する思想もありました。マルクスの人間観などは、その唯物論的な考えに基づいて、人間を社会関係の総体としてとらえ、経済的な社会関係と人間の社会的存在、その社会的意識の相互関連性を重視しました。しかし、それでも哲学の潮流の多くにおいては、人間をこのように感情と主観において捉える立場が一貫し、道徳的な規範や理論が位置づけられることはあっても、また重視されることはあっても、「善」の問題は重視されてこなかったようです。それは正しい人間理解だったのでしょうか。それによって正しい道徳的行為が認識されたのでしょうか。藤原さんは、それに対して懐疑的な考えを持っているようです。それは、いうまでもありません。藤原さんは、近代以降の社会理論、経済理論・政治理論が、しかも社会主義の実践をも含めて、人間にどのような惨事をもたらしたのか、人間社会にどのような悲惨な結果をもたらしたかを目の当たりにしているからです。
 マッキンタイヤーやテイラーによれば、人間は本来的には自己解釈的で、物語的な存在であるといいます。ヘーゲル的に言えば、自己意識的存在ということになります。自己解釈的・物語的な存在であるとか、自己意識的な存在という言葉は、それ自体として難解な表現です。少し難しいですが、解説を試みましょう。
 人間は、自らの意識のなかで、過去、現在、未来を一本の時間的な系列でつないで、それを統一し、会話を繰り返していきます。この会話というのは、独り言のように自分に対して語る場合もありますが、その多くは、他者を意識して、他者に対して行われるものです。「昔は、……であった」、「今は、……である」、「将来は、……であるかもしれない」というように、「私」が「他者」に対して、歴史的な時間の一コマにおいて、過去、現在、未来にわたって、自分の考えを語ります。それが、会話です。そこで語られるものの中には、自分の感情であったり、また主観的な間挙げであったりしますが、それでも他者の存在を前提にしながら、それを意識して語られるのが会話です。
 このような会話がなされていることは、何を意味しているかというと、人間は最初から何らかの言語共同体のうちに存在しているということを意味しています。日本語であれ、英語であれ、スペイン語であれ、そのような言語を共通のコミュニケーション手段として共有し、それを用いて意思の疎通を図っている人間集団があり、どの言語の共同体であれ、人間は必ずどこかに所属しています。1つの共同体のなかに、他者が存在し、その他者と会話を交わすことによって、人間は「私」になります。そして、他者は「あなた」になります。これによって個人のアイデンティティーが形成され、獲得されます。アイデンティティーという言葉は、日本語で「自己同一性」と訳されることがありますが、自分が自分であること、今の自分が過去の自分と同じであること、そして将来へと向かっていく自分でもあること、これがアイデンティティーです。このような自己同一性を確認するためには、一定の共同体において、他者との会話、交流が必要です。他者との会話と交流の積み重ねのなかで、共同体における自分の位置関係を確認し、自分が何であるのか、何をなすべきなのか、また自分が何をなすべきでないのかを自覚していくことができます。
 このような言語共同体における会話と交流は、自己と他者の間において親和的に行われることもありますが、対立的に行われることもあるでしょう。しかし、対立的に行われることが「悪い」ことではありません。自己と他者の対立によって、自己が必要としているものを、他者が不必要と考えるこを確認することができることもあるからです。また、自己が快と感じていることがらを、他者が不快と感じていることを認識することができます。自己が権利であると認識していることを、他者が義務と考えていることを痛感させます。また、自己が公正であり、正義であると確信していることを、他者が不公正であり、不正であると認識していることを知らせてくれます。マッキンタイヤーやテイラーは、人間は1つの共同体において、言語を用いて会話を行い、それを通して、個人は共同体へ参加し、そのアイデンティティーを形成すると言いますが、そのように言うとき、そのアイデンティティーとは、個人の自己同一性だけでなく、言語共同体の自己同一性をも指しています。共同体における快楽と不快、幸福と不幸、権利と義務などに関する共通認識をも指しているように思います。言語を意思疎通のための共通の手段としている共同体は、個人がアイデンティティーを獲得することを保障することによって、その言語共同体のアイデンティティーをも形成します。藤原さんは、マッキンタイヤーらコミュニタリアンの考えを紹介するなかで、「人間は、最初からなんらかの言語共同体のうちに存在しているのであり、それゆえに会話は相互媒介的におこなわれる。善悪、正邪が区別されるのはこのようにしてである」、「かかる言語共同体こそ、『何が価値であり、善であり、為すに値するか』を決定しうる地平を提供しうるのである」と述べていますが、この善と悪、正と邪という価値基準は、ロールズやドゥオーキンらの政治哲学が正義の問題を語るときに排除してきた価値です。ロールズらは、正義について、権利について語り、そのために平等や機会均等、資源の平等な配分などを提唱しました。しかし、そこには「善」はありませんでした。藤原さんが、コミュニタリアンの思想を取り上げて紹介するのは、ロールズらの政治哲学を批判し、その自由主義と功利主義への批判の不徹底さを明らかにし、それを補うために善の価値基準を自由主義に取り戻すためでしょう。何に価値があるのか。何が善であるのか。いかなる行為が為すに値するのか。このような価値の問題を決定する共同体がなければ、また個人がそのような共同体から離脱するならば、人間は、個人はアイデンティティーを喪失してしまうでしょう。疎外に陥るでしょう。自己の生に意味を与えるものを失うことになるでしょう。そのような人間は、自分の人生の意味を実感できないまま、大海をさまようことになるでしょう。このように善は、人間にとって非常に重要な価値です。
 藤原さんは、このように近代の哲学が前提にした人間観、市民社会観を前提にしたときに失われていく「善」を取り戻し、それを復活させるためには、市民社会ではなく、「言語共同体」を前提にする必要があると考えているようです。藤原さんは、次のように言います。

 このように考えたとき、近代哲学一般におけるように、善の問題をたんに個人の感情や主観に解消する必要はない。個人がそのような言語共同体のうちに存在し、そこから善悪の観念を獲得していくかぎり、それは合理的説明の不可能なものではない。もちろん、それはつねにどこにおいても普遍妥当性をもつ絶対的真理として主張されうるものではない。むしろつねに蓋然性をふくまざるをえないものであり、誤りを減じつつよきものへと修正し造り変えていくような形でしかありえない。しかものちにみるように、そうであるがゆえにそれは真の会話を成立させ、共同意識を高めていくものともなるのである。

 コミュニタリズムの代表的論客のマイケル・サンデル(NHKで放送されたハーバード大学の哲学教室の講義は非常に有名で、翻訳されて出版されています)は、近代市民社会の人間を「負荷なき自我」と呼んだそうです。テイラーは「遊離せる自我」と呼んだそうです。つまり、近代哲学が前提とした人間観、近代自然法思想が前提とした自然状態の人間観は、社会的な諸関係から切り離され、自己決定だけを拠り所とする「内容を欠いた空虚な自我」だということです。それは、「理想的で自由で合理的な行為者」ではなく、「まったき性格なしの、道徳的深みなしの個人」ということです。このような近代的自我が自己充足的なものとして想定されたとき、他者関係が全て手段化されていく危険性を持ってしまいます。近代哲学が想定した人間像は、本来的には政治、経済、宗教、文化、言語などの社会的な関係を取り持っているはずです。そして、他者と交流・会話を通じて社会を形成し、自己を獲得していくので、社会も自己も「自己決定」だけで成り立たないはずです。そこには自ずと善悪の価値が前提にあるはずですし、また自己決定もまた善悪によって制限されるはずです。自己決定が、善悪を踏まえてなされれば、内容が豊富なものになるでしょう。しっかりとした性格を有した、道徳的な深みを持つでしょう。そうすれば、自己の目的のために他者を手段として利用するような行為は、善悪の価値基準に照らして見れば許されなくなるでしょう。藤原産は、自由な自己決定を善によって制約できると考えています。
 藤原さんの著作では、近代的自我の迷妄について、それをマルクスの「人間疎外」と関わらせて解説していませんが、私はそれには関連生があるように思います。マルクスは、『経済学・哲学草稿』の中で人間疎外の背景には、市民社会があること、しかも市民社会における市場経済を通じて、私有財産の獲得と富の蓄積を求める人間社会があることを指摘しました。その市民社会は、自由・平等・独立の人間社会であり、道徳や倫理によって規制されず、善悪の価値基準によって拘束もされない自然の状態でした。そのような社会において、人間は自由に経済活動し、自由な交換経済を通じて、私有財産を獲得することができました。人間の行動を規制するのは、市民社会の外側にある国家(リヴァイアサン)だけであって、それは市民社会の経済法則に積極的に関与することなく、人々の自由な活動が保障されるよう、いわば後見人の役割を果たすことに徹する機関でした。マルクスは、そのような市民社会が人間疎外の元凶であると告発し、それを解決するために共産主義を唱えたのです。また、『資本論』において市民社会における経済的搾取のメカニズムを暴き、そこでも人間が経済的搾取から解放されるのは共産主義社会においてであると主張しました。サンデルやマッキンタイヤーなどのコミュニタリズムの論者は、近代的自我の迷妄から脱出し、自由主義の暴走に歯止めをかけようとしていますが、それが共産主義(コミュニズム)とは異質の方法であることは明らかです。藤原さんは、1990年前後におけるソ連・東ヨーロッパの社会主義の実践の失敗を目の当たりにして、社会主義・共産主義の思想が再検討を迫られた時期に、自由主義の再検討の一環として、コミュニズムではなく、コミュニタリズムにヒントを得ようとしました。そこから得られた着想は、社会主義・共産主義と無関係ではありませんが、しかし別の道を通って類似のものを得ようとしているように見えます。言語共同体と市民社会を重ね合わせて捉え、善悪の価値基準を内在した言語共同体的な市民社会を構想し、それに内在する善の規範によって、資本主義の暴走に歯止めをかけれるのではないかと期待しているように見えます。コミュニタリズムの論者や藤原さんによれば、言語共同体は、一方では他者との会話と交流の場であり、善悪の価値判断の基準を生み出す土台です。しかも、他方では資本主義の経済圏を形成し、自由な市場経済が展開される場でもあります。このように言語共同体は、他者との会話の場であると同時に市場経済の交換の場でもります。言語共同体は、善悪の価値を共有します。その言語共同体が同時に経済活動を行う市民社会でもあります。言語共同体的な市民社会において展開される市場経済は、近代哲学が前提としてきた個人と社会の利益共同体(ソサイエティー、ゲゼルシャフト)の市場経済とは同じものではないと思います。
 古代ギリシア、プラトン以来の伝統的な思考において、世界は1つの調和的な秩序をなしていました。人間は、そのなかに包摂され、善悪の価値基準や行為の評価基準も、その秩序から導き出されていました。人間を取り巻く世界、人間がそこに包摂される社会には、1つの秩序があり、階層制・身分制の構造をなしていましたが、善悪の道徳的秩序はその秩序の構成要素でもありました。つまり、近代以前の社会は、経済的な土台をなす基礎部分と政治制度・法制度などの部分とを1つの秩序に包摂した社会であったということです。しかし、近代以降、社会は自由・平等・独立した人間によって形成され、社会契約を通じて設立された国家機関は、あくまでも市民社会の外側に立って市民社会における人間の自由を保障するための機関・装置になってしまい、市民社会から排除されてしまいました。それゆえ、市民社会は善悪の基準を持たない社会になってしまったのです。
 藤原さんは、このような近代的な市民社会と近代的自我の迷妄を嘆き、それに代わる新しい社会のイメージを語っているように思います。それは、次の文章からうかがわれます。

 このような(近代以降の)主観ないし自我のあり方は、社会理論としては社会契約説的発想につながる。すなわち、それは自由で平等で独立した個人の自然状態を出発点としながら、道徳をたんなるそこにおける自然権をよりよく実現するための平和の戒律(義務の規則)とし、国家を人為的構成物としていったのである。このようにして個人が、他者との関係に先行し、他者関係は自己充足的な個人のためのたんなる手段となっていった。あるいは公的目的や公的連関から切り離された権利が個人の権利として措定され、義務はかかる権利のよりよき実現のために守られるべきものとなっていったのである。

 道徳という規範は、たんなる個人の内面的な規範にとどまるものではないように思います。自由を実現するために、国家機関があることは確かですが、自由の行き過ぎた実現、権利の過度な主張に歯止めをかけるために、国家機関は無策であってはなりません。したがって、国家はたんなる社会契約によって設立された人為的な構成物、法的機関・装置であってはならず、道徳的な規範を内在した国家でなければならないでしょう。それは、言語共同体に根付いた土着の共同体ともいえます。そうすれば、自己と他者の関係においても、他者を自己の目的のための手段とするようなことはなくなるでしょう。市場経済システムにおいても、資本の過度な蓄積、私有財産の獲得、富の蓄積に歯止めがかけられ、搾取と収奪を緩和することができるかもしれません、藤原さんは、コミュニタリズムの論者が主張した共同体は、近代市民社会に代わる新しい社会になりうると期待を込めているようです。
 資本家本位の弱肉強食の厳しい競争社会から労働者への配慮を意識した寛容な経済社会への転換の契機は、様々なものがあり得ると思います。税制度と社会保障制度を改革することによって、同じような社会を作ることも可能でしょう。労働者を搾取し収奪してきた大企業に大幅な法人税を課して、庶民に還元することも必要でしょう。しかし、それを揺るぎないものにするためには、社会の経済的土台に善の規範を定着させることが必要です。しかも、それは共通の善です。資本家も労働者も、企業人も従業員も、等しくそれに従って生きていく人生の指針のようなものです。残念ながら、その具体的な方法は検討課題のようです。


7価値相対主義の問題
 藤原さんが、資本家本位の弱肉強食の厳しい競争社会から労働者への配慮を意識した寛容な経済社会への転換の契機として社会の共通価値として善を重視し、それを社会に定着させるべきであると訴えていることは重要なことだと思います。しかし、善とは何かという問いに対して、藤原さんがさしあたり示した答えは、善とは人生の究極目的であり、いかに生きるかといった人生観に関わる価値でした。しかし、人生の究極目的は、人それぞれであって、それぞれが考えて、自分の人生の目的と生きる方法を見つけるべきです。「人は……に生きるべし」という基本命題のようなものが先にあって、「お前の生き方は、……に徹していない。……に生きるべし」と非難されるならば、個人の人格と尊厳が侵害されるおそれがあります。それは人生観や価値観の不当な押しつけになり、人間の自律性を損ない、最終的に人間の生き方を否定することになりかねません。人生の究極目的としての誰もが肯定する善の価値はあると思いますが、それは個人の選択に委ねて、共通する価値の議論を正や正義の問題に限定することは理由のないことではありません。
 そうすると、人生の究極的な目的という人々に共通する善の価値というものはないとすると、ロールズらの議論には正当な理由があることになります。彼らの正義論は善を欠いていましたが、それは絶対的な価値を拒否する個人尊重の考えともいえるからです。しかも、それは絶対的な価値を最初から拒否する価値相対主義の考え方につながります。
 絶対的な価値はない。価値というのは、相対的なものである。相対的というのは、人に応じて価値のあるものは異なる。時代におうじて、価値も異なる。このような考えが価値相対主義です。価値は一元的に決定されているものではなく、多元的なものであり、何に価値を見出すかは、歴史的・時代的な状況のなかで、最終的に個々人が決定するという考えです。何が正しいのか、何が誤っているのか、どのような選択をすることが望ましいのか、何を斥けたほうがよいのか。人は人生の様々な局面において悩むことがありますが、人生の選択において、共通する善のような選択肢がないならば、自分が正しいと思う方向を選択するほかありません。その意味では、価値相対主義は、人々に自己決定することを求め、その結果に対して自己責任を負うことを求めることにもなるでしょう。もしかすると、それは人々の不安の種になるかもしれません。なんでもいいから、何か客観的で絶対的な価値基準がほしいという感情をかきたてるかもしれません。ロールズやドゥオーキンらは、このような問題については、少なくとも正、正義の観念について、個人の選択に委ねずに、客観的な基準を打ち立てようとしました。その点については、価値相対主義とは異なりますし、人々は正の問題については自己決定する必要はなくなり、人々も安心できるかもしれません。しかし、その正義の観念は善の価値観を欠いたままです。
 藤原さんは、この点を指摘して、「かれらが善と正を区別し、究極的価値への問いを回避するとき、その理由は価値相対主義者のものと共通する。それは特定の価値の基準を他人に押し付け、他人の自由を奪うことになるというものであり、それは時にはそれを権威主義的態度と結びつけていく」と批判しています。善のない正では不安であるため、人々はそれを判断する客観的な基準を求めるようになるおそれがあります。自己決定できないため、他者に決定を委ねるようになると、権威ある人々の価値観を求めることもあるでしょう。そうすると、最終的には、善の価値を欠いたままの正の観念では、人々は自由を放棄し、権威ある価値を受け入れる危険性があります。藤原さんの主張には、戦前までのドイツや日本のな歴史の教訓が刻まれているようで。価値相対主義に思想は、ドイツのワイマール共和国において政権を担当した社会民主主義の思想とも関連します。価値の判断基準を持たない共和国が、その後、ナチスによって乗っ取られたのは、多くの有権者がナチスの絶対的な権威に対して閉塞感を打開する価値を見出したからではないでしょうか。それは当時の日本も同じです。藤原さんの文章には、そのような歴史の教訓が刻まれているように思います。
 どうすればよいのでしょうか。私たちは、一定の社会関係のなかで、生き方や価値観を抱いたり、それにしたがって行為選択をするにあたっても、意識するにせよ、意識しないにせよ、一定の方向に方向づけられています。資本主義的生産様式が支配的な現代の社会において、大量生産と大量消費が続けられてきましたが、それは終わることなく続いています。何が欲しいのか、何を必要としているのかについて、自分で考えて決める前に、欲望が刺激され、かき立てられ、その意識に引っ張られるかのように消費へと向かってます。それは人生設計、生き方においても同じです。個々人は、自分で善を判断し、生き方を選択していると思っていますが、実はそれは決定させられているかのような状況にあるというのです。藤原さんは、「そのような状況を考慮に入れたとき、善悪への問い直しを回避し、それを個人の選択に委ねることは、そのような状況の支配にそのまま身を委ねることにならないであろうか」と疑問を投げかけ、「むしろそのような状況によってもたらされる一定の生の選択をも反省の俎上にのせ、そのなかで善き生き方を問うことが必要とならないであろうか」と、生き方の問題、社会と自己との関わりの問題を問い直し、さらには自由主義の原則を再検討する必要のあることを強調しています。
 藤原さんは、次のように言います。
 この点、今日われわれに許されている価値の選択は、外見上そういわれているほど多元的でも多様でもないことにも注意すべきであろう。それは理性的生活、気概的生活、欲望的生活というギリシア的区別を廃棄し、すべてを欲望的生活に収斂しているようにもみえる。いな、この欲望的生活すら、今日の消費社会においては、しばしば同質化し、画一化を余儀なくされているようにみえる。いずれにせよ、善悪の選択を個人の主観に委ねることが、そのまま価値の主体的選択を意味しないことは明らかであろう。
 のみならず、あらゆる社会と同じく今日の社会においても、さまざまの不平等も存在し特権も存在する。にもかかわらずそのような社会で、価値相対主義を唱えることは、結局のところ、既存の不平等や特権を放任し、時には隠蔽し、結果的にそれを擁護することにならないであろうか。そのようなばあいには、まずもってみずからの価値前提とそれをしからしめている社会への反省が、責任ある生き方と責任ある理論の前提をなすといえる。
 現代の資本主義社会において、貧富の差と経済的格差があり、不平等と不公平がまかり通っていることは事実です。交換過程における自由と平等が実現しているかぎり、それでも正義であるというのは、社会において善が実現していないことを隠蔽することにほかなりません。善の問題は個人の主観の問題だと言い続けるなら、そのような社会を変革するきっかけを見つけることはできないでしょう。善の問題は、社会の問題であって、客観的なルールの問題にしていかなければなりません。藤原さんは、そのように訴えています。


8善の共通性と責任ある自由
 藤原さんは、価値相対主義の問題を述べたときに、善のような客観的・絶対的な基準を社会共通の価値として認めると、個人の自律性と尊厳を抑えこんでしまうのではと疑問が出されていることを紹介しました。また、善の問題を個人に委ねると、不安担った個人が、権威のある価値を求めて、ファシズムに加担する危険があると危惧を述べました。しかし、藤原さんのような観点から考えられた客観的な善の基準は、個人の自律性を損なうこともなく、また権威主義的に特定の価値観を押しつけることにもならないと言います。それは、「善の共通性」という言葉で表されています。コミュニタリズムの論者は、人々は「言語共同体」において相互に会話と交流を重ねるなかで、社会に共通する善の価値基準を見つけることができると主張しました。その社会は、1つのコミュニティーであり、経済活動の場でもあります。経済活動は、ホッブス以降、自由な個人によって行われてきました。私有財産の獲得と富の蓄積を目的として推進され、その目的に反する行動がとられた場合に、国家・政府は、その行為を規制するだけでした。国家は人々の自由を保障するために存在するというとき、その自由とは経済的自由、私有財産の自由、富の蓄積の自由であり、より具体的に言うならば、搾取と収奪の自由でした。藤原さんは、現代の社会が、社会と人々の間に共通する善の価値を自覚するならば、このような自由主義の弊害を克服できると確信しているようです。その自由は、「責任ある自由」という言葉で表されています。
 このように、自由主義の「自由」の意味を再度検討することによって、これまでの自由を批判して、これらかの自由を構想することができるのではないでしょうか。自由は弱肉強食の自由でなくてもよいはずです。搾取と収奪の自由以外の自由もあるはずです。他者の自由を自分の自由の手段にしてしまう自由でなくてもよいはずです。藤原さんは、このような立場から、次のように言います。
 われわれはすでに、人間が本来的に自己解釈的で物語的な存在であることをみた。統一的な自我のなかで過去をふり返り、現在を吟味しつつ、未来を選択していく。そのなかで善悪、正邪が自覚され選択されていく。しかもかかる自我はつねに特定の言語共同体のうちに存在し、それゆえに他者を介し他者との対話のなかでそのような行為を繰り返していく。そのような行為に照らし合わせたとき初めて、主観的にも客観的にも、たんなる「生きること」から区別された「善く生きること」の選択が可能になり、おのれの善が他者の善と相乗的にあることの自覚も可能となるのである。自由と自律、合理的な価値選択はそのようにして成立するのであり、そこにたんなる恣意と区別された責任ある自由が成立するといえる。
 藤原さんは、このような「責任ある自由」の一例として、19世紀後半に活躍したイギリスの思想家のトーマス・ヒル・グリーンの言葉を引き合いに出しています。この言葉も非常に重要です。少し長い引用になりますが、書き出しておきます。
 おそらくわれわれはすべて、自由は、もし正しく理解されたならば、すべての天恵のうちでもっとも偉大なものであるということ、そしてその達成が市民としてのわれわれのすべての努力の真の目的であるということに同意するであろう。しかしわれわれが自由についてこのように語るとき、われわれはそれによってわれわれが何を意味するかを注意深く考察しなければならない。われわれはたんに制約や強制からの自由を意味しない。われわれはそれが何であるかにかかわりなく、たんにわれわれが好きなようにする自由を意味しない。われわれは他の人々における自由の喪失という犠牲において、ある人または何人かの人びとによって享受せられる自由を意味しない。われわれが非常にたかく評価されべきものとしての自由について語るとき、われわれの意味するのは、為しまたは享受するに値するもの、しかもまた、われわれが他の人びとと共通に為しまたは享受するものを、為しまたは享受する積極的な力または能力である。(「自由立法と契約の自由)
 自由は、近代以降、市民の努力によって獲得されてきました。それは偉大なものです。しかし、その自由の意味をもう一度考え直さなければなりません。自由とは、国家による制約や国家の強制力から自由であることはもちろんですが(制約からの自由)、それは好き勝手に振る舞ってもよい自由であることを意味しません。そのような自由は、他者の自由の犠牲と喪失の上に成り立つ自由でしかありません。それは、無責任な自由であり、低い価値しか持たない自由です。高く評価される自由があるはずです。それは、他の人々と共通に行うに値することを行う自由です。他の人々と享受するに値するものを享受する自由です。そのような自由を実現するためには、これまでの自由の意味を振り返り、それを乗り越えらなければなりません。そのような自由を獲得する力と能力を身につけなければなりません。T・H・グリーンの言葉から、そのような自由を構想すべきでしょう。
 藤原さんは、グリーンの自由論を振り返りながら、それをコミュニタリズムの理論に関連づけて、その自由論の現代的な可能性を追求しようとしています。それは、国内外における自由主義の弊害、資本主義的自由がもたらした問題を解決するための理論的な提言です。最終章の「コミュニタリズムに向けて」を読みながら、藤原さんが伝えたかった事柄を理解したいと思います。