ハイコ・マース
フリッツ・バウアー 「昨日の英雄。それは今日のためにいる」
一 フリッツ・バウアーへの新たな関心
今日という日は、二重の意味で注目すべき日である。47年前の今日、1968年7月1日、フリッツ・バウアーは逝去した。そして、今日、2015年7月1日、我々は、「フリッツ・バウアー人権と現代法学史研究奨励賞」を初めて授与する運びとなった。フリッツ・バウアーの名前は、歴史に関心を寄せる法律家にとっては、少し前までは一つの理念像であったのかもしれない。つまり、その名前は公の記憶から忘れ去られたも同然であったのかもしれない。しかし、過去数年のうちにそれは一変した。二冊の貴重な評伝が公表され1)、大規模な展示会が開催された2)。さらには、いくつかの映画が上映され、1人の男性にスポットライトが当てられた。ナチの実行犯を不 処罰 の ままにすることをよしとしない男性に光が当てられた。映画「沈黙の迷宮のなかで」(邦題「顔のないヒトラーたち」)が2014年に上映され、ドイツ映画賞にノミネートされた。それに続いて2015年10月1日、映画「国家と闘うフリッツ・バウアー」(邦題「アイヒマンを追え」)が上映された。「南ドイツ新聞」は、新たな関心を呼び起こした理由の核心を次のように的確に表した。「昨日の英雄。それは今日のためにいる」。同紙はフリッツ・バウアーをそのように呼んだのである3)。
ドイツ司法史に知られている英雄は、そんなに多くはいない。というより逆であって、いないに等しいと言ってよいであろう。ワイマール共和国に対して、半数以上の裁判官と検察官は拒絶的な態度をとった。なかには敵対する者さえいた。共和国に対して敵対する勢力がいるという話が話題になったとき、よく知られた言葉で次のように言い表された。司法は右派勢力の中に敵がいるのを見破れなかったと。1933年、法律家はナチの権力掌握を「合法革命」であるとして正当化した。それに続いて体制を維持し、政敵を弾圧するために協力した。1万6千件の死刑判決を言い渡すことによって体制を支援したのは、公式の司法であった。しかも、司法と 行政からユダヤ系の人々を排除し、烙印を押し、権利を剥奪したのは、他でもない、そこで職務に従事していた法律家であった。彼らは、それによってユダヤ人に対する民族謀殺を制度的に準備した。さらに、ドイツの司法は、建国当初の連邦共和国において3度目の罪を犯した。彼らは、ホロコーストの犠牲者を長年にわたって無視し、ナチ犯罪の実行犯のほとんどを無罪放免にしたのである。
私は、ドイツの司法が役割を果たしてこなかったこと、このような罪を重ねてきたことに詳細に言及したいと思う。このような歴史を直視することによって、ようやくフリッツ・バウアーの偉大さと、彼が行ったことの意義を正しく理解することができるであろう。フリッツ・バウアーには、ドイツ司法のこような責任は全くない。責任がないというより、むしろ逆である。彼こそ、連邦共和国においてナチの実行犯を裁判にかけるために深く関わり、闘ったのである。独裁体制の時代、彼はスカンジナヴィア半島において亡命しながら、反ヒトラーのレジスタンス組織に入り、ワイマール民主主義の時代には、共和主義裁判官同盟に加盟し、生まれたばかりの民主政を支援する ために、黒 ・赤・金のシンボルカラーのドイツ国旗党に入党した。彼には、ドイツ司法の責任など問題にはなりえない。もしフリッツ・バウアーのような法律家がもっと多くいたならば、その後のドイツ史の歩みは、実際よりも幸運になったに違いない。
二 ナチ犯罪の責任追及
しかし、自分に都合のいいように彼の歴史を選び出すことはできない。彼の歴史をありのままに受け入れなければならない。そこから何かを消し去ってはいけない。その中の何かを言い訳してはならない。誤りを重ねてきたこと、役割を果たしてこなかったことに正面から立ち向かうことによって、その繰り返しを防ぐことができるのである。まさにそれがフリッツ・バウアーの望んだことでもあった。彼が民族謀殺を裁判にかけたことによって、ドイツ人は「自分自身を裁く」ことになった。彼はかつてそのように定式化した。実際にも、ドイツの大多数の国民は、フランクフルトのアウシュヴィッツ裁判を通じて、絶滅収容所における恐怖を目 の当たりにしたのである。
今日、我々はナチの犯罪が起こったことを知っている。しかし、そのことは、刑事訴追の期間が終了したことを意味しない。現在でも、リューネブルク州裁判所ではアウシュヴィッツ強制収容所の元親衛隊員に対する裁判が行われている。被告人は93才である。法廷にいるこの老年者を見れば、多くの傍聴人はたずねるであろう。今日でもこのような裁判をすることに、果たして意味があるのかと。それに対する私の立場は明白である。彼を裁判にかけることが正義のために遅すぎるとは思わない。この裁判は正当であり、かつ必要である。公訴権を独占した法治国家は、そのような行為者が何才であろうと関係なく、その責任を問わなければならない。70年前、犯罪を組織 したのはドイツの国家であった 。今日、この国家は、誰にその責任があるのかを最低でも明らかにしなければならない。そのことは、犠牲者とその子孫に対する義務でもある。この問題から、さらに次のことが明らかになる。今日、裁判にかけられている人物は、狂信的なナチでも、血生臭いサディストでもなかった。彼は簿記係であった。いたって普通の人であった。それゆえ、この裁判は非常に重要なのである。人間を敵視するイデオロギー、少数派の排除、集団に対する弾圧、命令と服従の崇拝、このようなことが普通の人々をしていかに民族謀殺の協力者に仕立て上げたのか。老年の被告人は、このことを私達に思い起こさせる。
私は、このような裁判が正当であると思っているだけではない。諸州の司法大臣が先々週に重要な決定をしたとも思う。州の司法大臣は、ルードヴィッヒスブルのクナチ犯罪追及中央局を引き続き運営することを決定した。実行犯がまだ生きており、訴訟能力がある限り、そして刑事訴追の期間がまだ終了していない限り、この作業はそれまで続けられねばならないのである。
リューネブルクで取り組まれている裁判が実際に実現したのは、フリッツ・バウアーがすでに1967年にアウシュヴィッツ裁判において主張していたあの法律観が貫徹されたからにほかならない。その唯一の目的が人間の大量殺戮であったような施設に勤務していた者は、謀殺の幇助犯である、というのがそれである。あれから40年以上もの歳月が流れ、デムヤニュク事件が動き始めた。その法的見解が多数派を形成するまで、我国の司法の歴史には、栄光が記されるべきページはないといえよう。
三 連邦司法省――彼にとって「敵地」だったのか?
フリッツ・バウアーは、彼が職務に従事していた当時、大きな抵抗に遭遇した。それは、彼自身が所属する部署からのものであった。「自分の執務室の外に出たとき、そこは敵地のようであった」という彼の有名な言葉が残されている。ナチ犯罪の追及は、その当時、司法府の上級から下級までの一連の審級からの抵抗に遭遇しただけではない。司法行政からの抵抗もあった。そして、今日の――私達は今日から出発しなければならない――連邦司法省からの抵抗もあった。我々は、自らの歴史の暗部に目を向けた。そのこともあって、ローゼンブルク・プロジェクトを立ち上げた。その名称は、ボンのケッセニッヒ地区にある邸宅にちなんで付けられたものである。 そこは、司法省がボンで職務に就いた最初の場所である。1つの学術委員会が、2012年以降、政府の介入を受けずに独立した立場から、司法省の歴史の研究に取り組んだ4)。司法省は、1950年代、60年代にナチの過去にどのように関わったのか。そこには、どのような古いしがらみがあったのか。そして、法律家がナチ時代に任務を果たしたことを知られないために、また処罰されないために、どのようにして互いに守りあったのか。このような問題を、その委員会は研究した。2016年、研究に従事した人々は、最終報告書を提出することになっている。おそらくそれは、我々の司法省にとって耳障りの良いものにはならないであろう。しかし、我々は真実が白日の下にさらされることを希望している 。そうすることによって、司法省がフリッツ・バウアーにとっていかに「敵地」であったのかを、我々はより正確に知ることができる。
四 フリッツ・バウアー――法と人間の尊厳のための闘士
歴史的に距離を置いて見るならば、ナチの犯罪人の訴追という主題に取り組んでいくと、フリッツ・バウアーとはどのような人物であったのか、彼はどのような仕事をしたのかという問題に関心を向けることになるであろう。映画の世界において現代の英雄史を探求する人々の嗜好によれば、フリッツ・バウアーはナチ・ハンターであり、彼が元ナチの法律家の側から凄まじい抵抗を受け、それに打ち勝たねばならなかった。全くそのとおりである。しかし、フリッツ・バウアーをナチの不法とアウシュヴィッツ裁判に限定して捉えてしまうと、直ちに脇道にそれてしまい、彼を正当に評価できなくなるであろう。アウシュヴィッツ裁判は、彼が政治と社会と司法において一層の 人道性を求めて取り組んだ仕事の一部でしかない。彼にとって重要であったのは、刑法と行刑である。受刑者に一定の自由を付与したり、刑事施設から一時的に外出する自由が法律によって規則化される前から、そのようにすることが社会的理由ゆえに必要であったがゆえに、バウアーは受刑者に休暇を与えることを認めていた。彼は理論家であるだけではなかった。彼は、受刑者とその家族のためにいつも気を配った。彼は、イルゼ・シュタッフがかつて定式化したように、「検事長であり、かつ保護観察官でもあった」5)。
バウアーによるこのような社会参加のための取組の提案は、その国家理解に起因するものであった。彼は、民主政と社会国家たらんとする基本法の信仰告白から、断固たる民主的・社会的な刑法を導き出した。社会は、その全成員と連帯を実感することを学ばねばならない。それは受刑者との間においても同じである。かつて強制収容所の被収容者であったバウアーが刑務所を訪問したとき、彼は受刑者を「我が同志諸君!」と呼んで挨拶をした。それは、1950年代末にちょっとした騒動を引き起こした。刑罰は、バウアーにとって応報ではなく、社会復帰のための唯一の手段であり、それ以上のものではなかった。そのため、ナチ犯罪の訴追に対して、他の犯罪に対す る基準と は異なる基準を当てはめているという非難が彼に向けられた。バウアーは、数多くのナチの実行犯には人間的な共同生活をする準備がなかったことを理由にして、他の犯罪に当てはめられる基準を適用することの妥当性を認めなかった。アウシュヴィッツ裁判において、不法を犯したことを自ら告白した被告人は一人もいなかった。ほとんどの者は、生存者に対して敬意を表することも、彼らの気持ちを察することもしなかった。「数多くの実行犯は」と、バウアーは述べた。彼らは「我が国の基本的価値、とりわけ全ての人々の人間の尊厳、諸個人の平等を認めること、性別、出自、人種、言語、出身国、出身地、信仰、宗教的または政治的思想のいかんにかかわりなく認めることから遠く隔たったところにいた 」。
人道性と寛容さ、人間の尊厳と平等――それらはバウアーにとって、ドイツ社会とその法を形成すべき基本的価値であった。これらの価値の重要性は、当時と同様に今日においても変わらない。例えば、難民を受け入れ、彼らと付き合うことを考えてみよう。そして、多種多様な宗教との間において平和的な共同生活を営むことを考えてみよう。そこで我々がまず目にするのは何であろうか。他者であろうか。自分たちの文化や幸福に対する脅威であろうか。それとも我々は他者の中に、真っ先に隣人を、彼の信仰と運命を見るのだろうか。フリッツ・バウアーにとって、その答えは明らかであろう。人道性と寛容さ、人間の尊厳と平等――彼はこの価値に生命を吹き込んだ 。そして 、この価値を実現するために闘った。その当時、社会は時には非情になり、強制力を行使することもあった。規律と秩序が重んじられていた。命令に対しては服従することが是とされた。このようなことが社会の最重要の処世術であった。そのような時代に彼は基本的価値を実現するために闘ったのである。
五 若手法律家の模範としてのフリッツ・バウアー
彼の歴史から、自分に都合のいいところを探し出すことはできない。だが、彼の伝統を探ることはできる。フリッツ・バウアーは、ドイツ司法のたぐい稀な伝統の系譜に位置している。彼は、民主主義的、社会的、そして人道的な法の側に立っている。彼は、国家とその原理ではなく、個々の人間を重視する法の側にいるのである。そして、「もう一つの視点」を持とうとする精神と努力の側に、それを「通説」に押し上げるために求められる実行力の側にいる。フリッツ・バウアーは、生前、迫害され、批判にさらされた。憎悪の対象にされたのはもちろんである。しかし、彼は今や司法と我々法律家の模範である。本奨励賞の名称が彼の名前を冠しているのは、彼こそが司法 と法律家 の模範であるからに他ならない。
我々は、フリッツ・バウアー、彼が残した業績、または彼が探求したライフワークについて博士論文を執筆している若手研究者に本奨励賞を授与することにしたい6)。我々が本奨励賞への応募を呼び掛けたところ、それに対する共感と反応には著しいものがあった。最終的に選考委員会の机の上には、13本の博士論文が積み上げられた。重さにして15キログラム、頁数にして合計1500頁の研究業績である。応募された研究業績は、その質の面においても相当なものであった。応募者の半数以上が、最優秀成績で博士号を取得している。以上から、我々は本奨励賞を授与するこを決定した。我々は、本賞の目的に従って、人権の現代的保護のために捧げられた現代史研究に 授与する ことにした。このように分野を区分したにもかかわらず、最優秀作品を選考するのは容易ではなかった。審査委員会は、我々が的確な判断に到達するために協力を惜しまなかった。このことが非常に重要なことであった。ここに審査委員会の委員の方々に対して謝意を表するものである。フリッツ・バウアー研究所元所長のラファエル・グロース教授とベルリンフンのフンボルト大学のゲアハルト・ヴェルレ教授からは、本奨励賞を受ける二人の受賞者に対して祝辞が述べられることになっている。また私は、ドイツ人権研究所のベアーテ・ルドルフ教授に対して感謝する。また、フリッツ・バウアーが初代の共同設立者になった人道主義ユニオン会長のヴェルナー・ケープ=ケルスティン氏ならびに旧ユーゴスラヴ ィア国際刑事裁判所ドイツ代表判事のクリストフ・フリュッゲ氏に対しても感謝する。彼らの協力のおかげで、我々が今日表彰する研究業績が高いレベルにあることを保障することができる。また、彼らの協力のおかげで、我々が授与する二人の受賞者がその業績と本奨励賞を誇りにすることができる。
我々は、ミュンヘンのアンドレアス・ヴェルクマイスター博士の博士論文「国際法における刑罰論」に本奨励賞を授与する7)。博士の研究は、国際刑法を用いて国家の不法を裁判にかけ処罰するフリッツ・バウアーの実践的努力につながっている。その研究は、様々に批判を加えながら刑罰の正当化論を発展させている。その出発点には、言うまでもなく人間の尊厳がある。フランクフルト・アム・マインのアルトゥール・フォン・グリュネヴァルト博士は、その博士論文「国家社会主義時代におけるフランクフルト・アム・マイン上級州裁判所の裁判官」に対して奨励賞が授与される8)。博士の研究は、フランクフルトの裁判官が国家社会主義の独裁に対して、いかに従順な態 度を示し 、不法の協力者になったかを示している。
私は、本奨励賞を受ける両名に対して心からお祝い申し上げる。そして、研究に取り組んだことに感謝する。フリッツ・バウアーは、かつて次のように述べた。「我々は大地を天国に作り変えることはできない。しかし、我々の誰もがこの大地が地獄にならないために何かをなすことができる」。個々の人間の権利と尊厳のために始めること――それがフリッツ・バウアーの業績を形成したのである。私は、二人の受賞者がさらに法学研究に積み上げていかれんことを希望する。我が国には、二人のような若い法律家が必要である。
*本稿は、2015年7月1日、ボンで開催された連邦司法・消費者保護省主催の「フリッツ・バウアー人権と現代法学史研究奨励賞」の授与式において行われた講演を加筆・補正したものである。
1)Vgl. Irmtrud Wojak, Fritz Bauer 1903–1968. Eine Biographie, 2009; Ronen Steinke, Fritz Bauer. Oder Auschwitz vor Gericht, 2013(ローネン・シュタインケ〔本田稔訳〕『フリッツ・バウアー アイヒマンを追いつめた検事長』〔2017年、アルファベータブックス社〕); vgl. zu Wojak auch die Besprechung von Heiko Holste, RuP 2010, S. 51 ff.
2)Vgl. Fritz Backhaus/Monika Boll/Raphael Gross (Hrsg.), Fritz Bauer. Der Staatsanwalt. NS-Verbrechen vor Gericht, 2014, mit der Besprechung von Ulrich-Dieter Oppitz, RuP 2015, S. 60 f.
3)Willi Winkler, Ein Held von gestern für heute, Süddeutsche Zeitung v. 2. Juni 2015.
4)Weitere Informationen unter www.uwk-bmj.de.
5)Ilse Staff, Fritz Bauer, in: Streitbare Juristen. Eine andere Tradition, hrsg. v. Kritische Justiz, 1988, S. 444.
6)Weitere Informationen zur aktuellen Ausschreibung www.bmjv.de/fritz-bauer.
7)Andreas Werkmeister, Straftheorien im Völkerstrafrecht (= Schriften zum Internationalen und Europäischen Strafrecht, Bd. 20), Nomos Verlag Baden-Baden, 409 S., brosch., 99 Euro, ISBN 978-3-8487-2084-2.
8)Arthur v. Gruenewaldt, Die Richterschaft des Oberlandesgerichts Frankfurt am Main in der Zeit des Nationalsozialismus. Die Personalpolitik und Personalentwicklung (= Beiträge zur Rechtsgeschichte des 20. Jahrhunderts, Bd. 83), Verlag Mohr Siebeck Tübingen, 403 S., brosch., 79 Euro, ISBN 978-3-16-153843-8.
解説
1.ハイコ・マース演説の現代史的意義
本稿は、ハイコ・マース「フリッツ・バウアー――『昨日の英雄。それは今日のためにいる』」(Heiko Maas, Fritz Bauer - "Ein Held von gestern für heute", in: Recht und Politik Vierteljahresschrifte für Rechts- und Verwaltungspolitik, 51. Jahgang 3. Quatral 2015, S. 145-148.)の邦訳である。
2015年7月1日、ハイコ・マース(ドイツ連邦司法・消費者保護省大臣)は、刑法学の歴史研究に従事した二人の若手法曹の博士論文に研究奨励賞を与え、その功績を称えた。奨励賞を授与されたのは、ミュンヘンのアンドレアス・ヴェルクマイスターによる「国際法における刑罰論」とフランクフルト・アム・マインのアルトゥール・フォン・グリュネヴァルトの「国家社会主義時代におけるフランクフルト・アム・マイン上級州裁判所の裁判官」の2編の論稿である。
ヴェルクマイスターの論文は、国際刑法における刑罰の目的と正当性を考察したものである。戦争、紛争、また宗教対立などを背景にして深刻な問題が起こっている現代世界において、人間の尊厳を志向する国際刑法は、国際犯罪への理性的な対応をいかにすれば自治原できるか。社会および市民を敵・味方に分断しようとするスローガンが聞こえてくるなかで、排外主義的な刑法に陥るのを防ぎ、国際刑法における刑罰の有効性と限界を明らかにしようとしている。グリュネヴァルトの論文は、ナチ時代におけるフランクフルト・アム・マイン上級州裁判所における裁判官・検察官の人事政策を分析し、戦前から戦後かけての司法機関の変質と再生の過程を明らかにしている。1933 年以降、 多くの裁判官・検察官が政治的・人種的な理由から排除され、無権利状態に置かれた。その空席を埋めたのは、いかなる思想の持主の法律家であったのか。その法律家は、戦後はどのような帰趨をたどったのか。その実像の解明は、現代の法律家の理想像を浮き彫りにすることにもつながる。
いずれも刑事司法の歴史的・現代的な問題を考察した力作である。しかし、2人の若手法曹の研究が高く評価されたのは、それらが学問的に優れているからだけではない。その賞の名が冠したフリッツ・バウアーの理論的実践と精神を今日的に継承し、それを発展させることが期待されているからでもあある。バウアーは、1960年代、アウシュヴィッツ強制収容所におけるナチのホロコーストのメカニズムの全貌を司法の場において暴き、その関与者の刑事責任を厳しく追及したフランクフルトの検事長である。ヨーロッパ全体を巻き込んだ戦争とファシズム、その不法と人権侵害は国際的な犯罪でもあった。そして、それを下支えしたのは政治家や軍人だけでな く、裁判 官や検察官などのエリートもいた。彼らによって、ナチの政権掌握から政治体制の確立、強制収容所の建設、その後の安楽死計画やジェノサイドが「合法化」されたのである。バウアーの名を冠した研究奨励賞が設立するまで、彼の死から50年を要した理由は明らかではないが、二人の若手法曹にバウアーの法律家として精神が引き継がれようとしているのは確かである。戦前のドイツにおいて、ユダヤ人であったがゆえに、また共和制を支持した裁判官であったがゆえに差別され、さらに社会民主主義者であったがゆえに弾圧された法律家の記憶が呼び覚まされようとしている。戦後のドイツにおいて、ドイツ司法を人道的・民主的に再建するために、ナチ残党の妨害をはねのけて、アウシュヴィッツ強制収容所の 関与者たちを法廷に連れ出した検事長の実践に注目が集まっている。かつての英雄であった法律家がハイコ・マースの演説によって今日の英雄として復活し、ドイツ司法の歴史のページに刻み込まれようとしている。法律家フリッツ・バウアーの精神は、ドイツの刑事司法と刑法史研究の新たな方向を指し示している。
2.フリッツ・バウアーとアウシュヴィッツ裁判
フリッツ・バウアーは、1903年にシュトゥットガルトに生まれた。ハイデルベルク、ミュンヘン、チュービンゲンの大学で法律学を学び、カール・ガイラーの指導のもとで経済法に関する論文「トラストの法的構造」を執筆して、法学博士号を取得し、1930年にドイツ最年少の区裁判所判事の職に就いた。しかし、その宗教的出自と政治思想ゆえに1933年以降、裁判官職から排除され、強制収容所に収容された。釈放後の1936年にはデンマークへ、1943年にはスウェーデンへ亡命し、1949年に帰国後、ニーダーザクセン州裁判所の検事長に、1956年にヘッセン州裁判所の検事長に就任した。その後、アルゼンチンのブエノス アイレス に潜伏するアドルフ・アイヒマンの逮捕とイェルサレムでの裁判に関わり、1963年から1965年までアウシュヴィッツ強制収容所におけるホロコーストに関与した所長・看守などを追及する「アウシュビッツ裁判」を起こした。1968年7月1日、自宅浴槽で死亡しているところを裁判所関係者によって発見された。奨励賞の授与式は、彼の47回目の命日に開催された。
アウシュヴィッツ裁判は、1963年から1965年までフランクフルトで行われた。検事局は24人の被疑者を割り出し、そのうち22人を起訴した。病気などの理由で裁判が打切られた被告人を除き、最終的に20人の被告人の判決が言い渡された。6人が終身刑、11人が有期刑に処され、3人に無罪が言い渡された。終戦から20年が経った年、アウシュヴィッツの過去を暴き、それを処罰することは、ドイツ社会がナチの過去と絶縁し、人道的・民主的に再生するために必要なことであった。フランツ・フォン・リストの社会復帰思想の理論的流れ与むバウアーが、ホロコーストの再犯の危険性がなく、すでに「社会復帰」し、「善良な市民」とし て勤労にいそしんでいる元ナチの被告人たちに「報復」するかのように刑罰を与えたことは矛盾ではないかと批判もあったが、ハイコ・マースは当時を振り返り、バウアーがアウシュヴィッツ裁判で追求したものが、人道性と寛容さ、人間の尊厳と平等であったこと、それゆえに正義に適った裁判であったことを強調している。そして、バウアーがアウシュヴィッツ裁判において貫こうとした法律観――その唯一の目的が人間の大量殺戮であったような施設に勤務していた者は、謀殺の幇助犯であるという犯罪観――が、あれから40年以上も経って、デムヤニュク裁判において適用されているとして、フリッツ・バウアーの法律観が現代のドイツ刑事司法において継承されていることを高く評価している。検事長フリッツ・バウアーの精神は、ドイツの刑事司法に人道性と寛容の理念を、人間の尊厳と平等を息吹を注ぎ込んでいる。
3.フリッツ・バウアーの刑法理論的実践が残した教訓
しかし、残念なことに、フリッツ・バウアーが起こしたアウシュヴィッツ裁判の詳細は日本において十分に知られていない。フランクフルト・アム・マインの地方裁判所において、どのような人物が、いかなる罪状によって起訴され、どのように裁かれたのか。そして、上訴審において、その判決が維持されたのか、それとも刑が減軽され、また無罪が言い渡されたのか。終身刑に処されたフランツ・ホフマンのように、長期間にわたる収容のため施設内で死去した者もいたが、なかには380人の謀殺を幇助したとして3年6月の懲役刑に処されたエミル・ハントルのように、未決勾留期間の刑期への算入によって1965年8月に釈放され、1984年に81才で死去した者もいた。さらには、少なくとも4千人の謀殺を幇助したとして3年3月の懲役刑に処されたフランツ・ルーカス博士のように、連邦通常裁判所の差戻し判決後、1970年にフランクフルト地方裁判所で無罪が言い渡された被告人もいた。このように様々である。しかし、有罪が無罪とされたことに驚きを禁じ得ない。
アウシュヴィッツ強制収容所においてホロコーストに深く関与したルーカス博士に無罪が言い渡されたのは、おそらく1968年10月1日に施行された改正刑法によるものと思われる。それまでは、加減的身分犯に非身分者が関与した場合には、加減的身分犯の規定が適用されるのは身分者だけであって、非身分者には刑が加減される前の通常の罪の規定が適用されると規定されていたが(刑法〔旧〕50条2項)、構成的身分犯に非身分者が関与した場合についての規定はなく、身分者だけでなく、非身分者にも構成的身分犯の規定が適用されると解釈されていた。アウシュヴィッツ強制収容所で行われた大量虐殺は、ユダヤ人やポーランド人に対する排外主義から実行された「下劣な動機」による殺人行為であり、刑法上の謀殺罪(刑法211条)にあたる。それはナチに固有の民族観・人種観・世界観を背景にしており、そのような思想を信奉する者(構成的身分者)にしか行いえない行為である。ただし、ナチの世界観を信奉しない者(非身分者)であってもそれを幇助した場合には謀殺罪の幇助犯として処罰されるという刑法解釈が、アウシュヴィッツ裁判において妥当していた。たとえルーカス博士がナチの世界観を信奉せず、「下劣な動機」から関与していたわけでなくても、彼は謀殺罪の幇助犯として処罰されたのである。
この刑法(旧)50条2項を3項に移し、2項に構成的身分犯に関与した非身分者には未遂減軽規定を適用し、その刑を引き下げる規定を設けたのが、1968年10月1日の改正刑法であった。ルーカス博士はアウシュヴィッツ強制収容所親衛隊所属の医師であり、アウシュヴィッツの駅に輸送されたユダヤ人・ポーランド人を労働可能者と不可能者に選別し、不可能者をガス室に送るなどの作業に従事していた。しかし、強制収容所の生存者は、ルーカス博士のことを「彼は自分たちのことを人間として扱った唯一の医師であった」と証言し、親衛隊員であったルーカス博士にも人間的な感情が残されていたこと、被収容者には彼だけが頼りであったことを証言した。そのようなこともあって、ルーカス博士には「下劣な動機」から謀殺に関与したわけではないと認定され、謀殺罪の幇助に未遂の規定を適用する改正規定が適用され、その結果、謀殺罪の法定刑(終身刑)を減軽した刑(15年以下の懲役刑)で処断されることになったのである。しかも、当時の刑法(旧)67条1項では、公訴時効は「長期において10年を超える自由刑を科せられる重罪の場合にあたっては15年」と定められていたために、ルーカス博士の行為の時効は、ナチが降伏した1945年5月8日から計算して、すでに1960年5月8日で完成していたとされ、それゆえ「無罪」の判決が言い渡されたのではないかと思われる(この点に関しては、Ronen Steinke, Fritz Bauer. Oder Auschwitz vor Gericht, 2013, S. 209, 205 f.〔ローネン・シュタインケ[本田稔訳]『フリッツ・バウアー アイヒマンを追いつめた検事長』[2017年、アルファベータブックス社]235頁以下、312頁以下を参照されたい)。ルーカス博士には謀殺罪の幇助に未遂減軽規定が適用されるたことによって、1963年にアウシュヴィッツ裁判が始められる前に、すでに公訴時効が完成していたことになった。このことをフリッツ・バウアーは知る由もない。
4.未解決の問題
フリッツ・バウアーは、1968年7月1日に死去した。謀殺罪の幇助に未遂減軽規定を適用する刑法改正が施行されたのが、1968年10月1日である。その3ヵ月の間にナチ犯罪の責任追及の攻守の力関係が逆転したように思えてならない。なぜバウアーは死んだのか。そして、バウアーが死んだ直後に刑法改正が実現したのは偶然なのか。その改正を指揮した司法官僚は誰なのか。それを明らかにしなければならない。
また、謀殺罪は元々「熟慮して」人を殺す行為であって、その規定には「下劣な動機」などの規範的要件はなかった。その要件を取り入れたのは、1941年9月4日の刑法改正であった。それによって、謀殺罪が「熟慮による殺人」から「下劣な動機による殺人」に変えられ、謀殺罪の成否が「熟慮」の有無という法適用者の事実認定から、「下劣な動機」の有無という規範的判断へと委ねられることになった。概して謀殺罪の成立要件が厳しくなったといえる。このような法改正をする必要性はどこにあったのか。独ソ戦が開始され、時局の推移を案じた支配階級が、「敗戦後」のドイツにおいて謀殺罪で裁かれるのを回避するための保険だったのか(「我々は確かに上司が命じた職務を熟慮して遂行した。しかし、それは下劣な動機からではなかった。ゆえに我々には謀殺罪はあたらない」)。1941年刑法改正を指揮した司法官僚は誰であったのか。それと1968年改正とは無関係なのか。
1968年7月から10月にかけて攻守逆転したことにより、ナチの犯罪人を不処罰にする刑法規定が成立したが、ハイコ・マースによると、バウアーがアウシュヴィッツ裁判において貫こうとした法律観が今では現代のドイツ刑事司法において継承され始めているという。攻守の再逆転である。バウアーの法律観とは、唯一の目的が人間の大量殺戮であったような施設に勤務していた者は、下劣な動機に基づいて謀殺を幇助した者であるという犯罪観である。そして、それがアウシュヴィッツ裁判から40年以上も経って、デムヤニュク裁判において適用されているというのである。この法律観・犯罪観が1968年10月以降も妥当し、刑法改正されなかったならば、ルーカス博士がアウシュヴィッツ強制収容所の基本目的を認識していた以上、彼もまた下劣な動機から謀殺を幇助したことになり、彼に無罪判決が言い渡されることはなかったであろう。そのバウアーの法律観とは、どのようなものか。改めて検討する必要がある。また、「デムヤニュク裁判」の内容についても調べる必要がある。
*本稿は、立命館大学2017年度研究成果国際発信プログラム(後期募集分)「過去の克服法理の刑法理論的展開――アウシュヴィッツ裁判とデムヤンユク裁判における過去の克服の法的実相」の研究成果の一部である。
フリッツ・バウアー 「昨日の英雄。それは今日のためにいる」
一 フリッツ・バウアーへの新たな関心
今日という日は、二重の意味で注目すべき日である。47年前の今日、1968年7月1日、フリッツ・バウアーは逝去した。そして、今日、2015年7月1日、我々は、「フリッツ・バウアー人権と現代法学史研究奨励賞」を初めて授与する運びとなった。フリッツ・バウアーの名前は、歴史に関心を寄せる法律家にとっては、少し前までは一つの理念像であったのかもしれない。つまり、その名前は公の記憶から忘れ去られたも同然であったのかもしれない。しかし、過去数年のうちにそれは一変した。二冊の貴重な評伝が公表され1)、大規模な展示会が開催された2)。さらには、いくつかの映画が上映され、1人の男性にスポットライトが当てられた。ナチの実行犯を不 処罰 の ままにすることをよしとしない男性に光が当てられた。映画「沈黙の迷宮のなかで」(邦題「顔のないヒトラーたち」)が2014年に上映され、ドイツ映画賞にノミネートされた。それに続いて2015年10月1日、映画「国家と闘うフリッツ・バウアー」(邦題「アイヒマンを追え」)が上映された。「南ドイツ新聞」は、新たな関心を呼び起こした理由の核心を次のように的確に表した。「昨日の英雄。それは今日のためにいる」。同紙はフリッツ・バウアーをそのように呼んだのである3)。
ドイツ司法史に知られている英雄は、そんなに多くはいない。というより逆であって、いないに等しいと言ってよいであろう。ワイマール共和国に対して、半数以上の裁判官と検察官は拒絶的な態度をとった。なかには敵対する者さえいた。共和国に対して敵対する勢力がいるという話が話題になったとき、よく知られた言葉で次のように言い表された。司法は右派勢力の中に敵がいるのを見破れなかったと。1933年、法律家はナチの権力掌握を「合法革命」であるとして正当化した。それに続いて体制を維持し、政敵を弾圧するために協力した。1万6千件の死刑判決を言い渡すことによって体制を支援したのは、公式の司法であった。しかも、司法と 行政からユダヤ系の人々を排除し、烙印を押し、権利を剥奪したのは、他でもない、そこで職務に従事していた法律家であった。彼らは、それによってユダヤ人に対する民族謀殺を制度的に準備した。さらに、ドイツの司法は、建国当初の連邦共和国において3度目の罪を犯した。彼らは、ホロコーストの犠牲者を長年にわたって無視し、ナチ犯罪の実行犯のほとんどを無罪放免にしたのである。
私は、ドイツの司法が役割を果たしてこなかったこと、このような罪を重ねてきたことに詳細に言及したいと思う。このような歴史を直視することによって、ようやくフリッツ・バウアーの偉大さと、彼が行ったことの意義を正しく理解することができるであろう。フリッツ・バウアーには、ドイツ司法のこような責任は全くない。責任がないというより、むしろ逆である。彼こそ、連邦共和国においてナチの実行犯を裁判にかけるために深く関わり、闘ったのである。独裁体制の時代、彼はスカンジナヴィア半島において亡命しながら、反ヒトラーのレジスタンス組織に入り、ワイマール民主主義の時代には、共和主義裁判官同盟に加盟し、生まれたばかりの民主政を支援する ために、黒 ・赤・金のシンボルカラーのドイツ国旗党に入党した。彼には、ドイツ司法の責任など問題にはなりえない。もしフリッツ・バウアーのような法律家がもっと多くいたならば、その後のドイツ史の歩みは、実際よりも幸運になったに違いない。
二 ナチ犯罪の責任追及
しかし、自分に都合のいいように彼の歴史を選び出すことはできない。彼の歴史をありのままに受け入れなければならない。そこから何かを消し去ってはいけない。その中の何かを言い訳してはならない。誤りを重ねてきたこと、役割を果たしてこなかったことに正面から立ち向かうことによって、その繰り返しを防ぐことができるのである。まさにそれがフリッツ・バウアーの望んだことでもあった。彼が民族謀殺を裁判にかけたことによって、ドイツ人は「自分自身を裁く」ことになった。彼はかつてそのように定式化した。実際にも、ドイツの大多数の国民は、フランクフルトのアウシュヴィッツ裁判を通じて、絶滅収容所における恐怖を目 の当たりにしたのである。
今日、我々はナチの犯罪が起こったことを知っている。しかし、そのことは、刑事訴追の期間が終了したことを意味しない。現在でも、リューネブルク州裁判所ではアウシュヴィッツ強制収容所の元親衛隊員に対する裁判が行われている。被告人は93才である。法廷にいるこの老年者を見れば、多くの傍聴人はたずねるであろう。今日でもこのような裁判をすることに、果たして意味があるのかと。それに対する私の立場は明白である。彼を裁判にかけることが正義のために遅すぎるとは思わない。この裁判は正当であり、かつ必要である。公訴権を独占した法治国家は、そのような行為者が何才であろうと関係なく、その責任を問わなければならない。70年前、犯罪を組織 したのはドイツの国家であった 。今日、この国家は、誰にその責任があるのかを最低でも明らかにしなければならない。そのことは、犠牲者とその子孫に対する義務でもある。この問題から、さらに次のことが明らかになる。今日、裁判にかけられている人物は、狂信的なナチでも、血生臭いサディストでもなかった。彼は簿記係であった。いたって普通の人であった。それゆえ、この裁判は非常に重要なのである。人間を敵視するイデオロギー、少数派の排除、集団に対する弾圧、命令と服従の崇拝、このようなことが普通の人々をしていかに民族謀殺の協力者に仕立て上げたのか。老年の被告人は、このことを私達に思い起こさせる。
私は、このような裁判が正当であると思っているだけではない。諸州の司法大臣が先々週に重要な決定をしたとも思う。州の司法大臣は、ルードヴィッヒスブルのクナチ犯罪追及中央局を引き続き運営することを決定した。実行犯がまだ生きており、訴訟能力がある限り、そして刑事訴追の期間がまだ終了していない限り、この作業はそれまで続けられねばならないのである。
リューネブルクで取り組まれている裁判が実際に実現したのは、フリッツ・バウアーがすでに1967年にアウシュヴィッツ裁判において主張していたあの法律観が貫徹されたからにほかならない。その唯一の目的が人間の大量殺戮であったような施設に勤務していた者は、謀殺の幇助犯である、というのがそれである。あれから40年以上もの歳月が流れ、デムヤニュク事件が動き始めた。その法的見解が多数派を形成するまで、我国の司法の歴史には、栄光が記されるべきページはないといえよう。
三 連邦司法省――彼にとって「敵地」だったのか?
フリッツ・バウアーは、彼が職務に従事していた当時、大きな抵抗に遭遇した。それは、彼自身が所属する部署からのものであった。「自分の執務室の外に出たとき、そこは敵地のようであった」という彼の有名な言葉が残されている。ナチ犯罪の追及は、その当時、司法府の上級から下級までの一連の審級からの抵抗に遭遇しただけではない。司法行政からの抵抗もあった。そして、今日の――私達は今日から出発しなければならない――連邦司法省からの抵抗もあった。我々は、自らの歴史の暗部に目を向けた。そのこともあって、ローゼンブルク・プロジェクトを立ち上げた。その名称は、ボンのケッセニッヒ地区にある邸宅にちなんで付けられたものである。 そこは、司法省がボンで職務に就いた最初の場所である。1つの学術委員会が、2012年以降、政府の介入を受けずに独立した立場から、司法省の歴史の研究に取り組んだ4)。司法省は、1950年代、60年代にナチの過去にどのように関わったのか。そこには、どのような古いしがらみがあったのか。そして、法律家がナチ時代に任務を果たしたことを知られないために、また処罰されないために、どのようにして互いに守りあったのか。このような問題を、その委員会は研究した。2016年、研究に従事した人々は、最終報告書を提出することになっている。おそらくそれは、我々の司法省にとって耳障りの良いものにはならないであろう。しかし、我々は真実が白日の下にさらされることを希望している 。そうすることによって、司法省がフリッツ・バウアーにとっていかに「敵地」であったのかを、我々はより正確に知ることができる。
四 フリッツ・バウアー――法と人間の尊厳のための闘士
歴史的に距離を置いて見るならば、ナチの犯罪人の訴追という主題に取り組んでいくと、フリッツ・バウアーとはどのような人物であったのか、彼はどのような仕事をしたのかという問題に関心を向けることになるであろう。映画の世界において現代の英雄史を探求する人々の嗜好によれば、フリッツ・バウアーはナチ・ハンターであり、彼が元ナチの法律家の側から凄まじい抵抗を受け、それに打ち勝たねばならなかった。全くそのとおりである。しかし、フリッツ・バウアーをナチの不法とアウシュヴィッツ裁判に限定して捉えてしまうと、直ちに脇道にそれてしまい、彼を正当に評価できなくなるであろう。アウシュヴィッツ裁判は、彼が政治と社会と司法において一層の 人道性を求めて取り組んだ仕事の一部でしかない。彼にとって重要であったのは、刑法と行刑である。受刑者に一定の自由を付与したり、刑事施設から一時的に外出する自由が法律によって規則化される前から、そのようにすることが社会的理由ゆえに必要であったがゆえに、バウアーは受刑者に休暇を与えることを認めていた。彼は理論家であるだけではなかった。彼は、受刑者とその家族のためにいつも気を配った。彼は、イルゼ・シュタッフがかつて定式化したように、「検事長であり、かつ保護観察官でもあった」5)。
バウアーによるこのような社会参加のための取組の提案は、その国家理解に起因するものであった。彼は、民主政と社会国家たらんとする基本法の信仰告白から、断固たる民主的・社会的な刑法を導き出した。社会は、その全成員と連帯を実感することを学ばねばならない。それは受刑者との間においても同じである。かつて強制収容所の被収容者であったバウアーが刑務所を訪問したとき、彼は受刑者を「我が同志諸君!」と呼んで挨拶をした。それは、1950年代末にちょっとした騒動を引き起こした。刑罰は、バウアーにとって応報ではなく、社会復帰のための唯一の手段であり、それ以上のものではなかった。そのため、ナチ犯罪の訴追に対して、他の犯罪に対す る基準と は異なる基準を当てはめているという非難が彼に向けられた。バウアーは、数多くのナチの実行犯には人間的な共同生活をする準備がなかったことを理由にして、他の犯罪に当てはめられる基準を適用することの妥当性を認めなかった。アウシュヴィッツ裁判において、不法を犯したことを自ら告白した被告人は一人もいなかった。ほとんどの者は、生存者に対して敬意を表することも、彼らの気持ちを察することもしなかった。「数多くの実行犯は」と、バウアーは述べた。彼らは「我が国の基本的価値、とりわけ全ての人々の人間の尊厳、諸個人の平等を認めること、性別、出自、人種、言語、出身国、出身地、信仰、宗教的または政治的思想のいかんにかかわりなく認めることから遠く隔たったところにいた 」。
人道性と寛容さ、人間の尊厳と平等――それらはバウアーにとって、ドイツ社会とその法を形成すべき基本的価値であった。これらの価値の重要性は、当時と同様に今日においても変わらない。例えば、難民を受け入れ、彼らと付き合うことを考えてみよう。そして、多種多様な宗教との間において平和的な共同生活を営むことを考えてみよう。そこで我々がまず目にするのは何であろうか。他者であろうか。自分たちの文化や幸福に対する脅威であろうか。それとも我々は他者の中に、真っ先に隣人を、彼の信仰と運命を見るのだろうか。フリッツ・バウアーにとって、その答えは明らかであろう。人道性と寛容さ、人間の尊厳と平等――彼はこの価値に生命を吹き込んだ 。そして 、この価値を実現するために闘った。その当時、社会は時には非情になり、強制力を行使することもあった。規律と秩序が重んじられていた。命令に対しては服従することが是とされた。このようなことが社会の最重要の処世術であった。そのような時代に彼は基本的価値を実現するために闘ったのである。
五 若手法律家の模範としてのフリッツ・バウアー
彼の歴史から、自分に都合のいいところを探し出すことはできない。だが、彼の伝統を探ることはできる。フリッツ・バウアーは、ドイツ司法のたぐい稀な伝統の系譜に位置している。彼は、民主主義的、社会的、そして人道的な法の側に立っている。彼は、国家とその原理ではなく、個々の人間を重視する法の側にいるのである。そして、「もう一つの視点」を持とうとする精神と努力の側に、それを「通説」に押し上げるために求められる実行力の側にいる。フリッツ・バウアーは、生前、迫害され、批判にさらされた。憎悪の対象にされたのはもちろんである。しかし、彼は今や司法と我々法律家の模範である。本奨励賞の名称が彼の名前を冠しているのは、彼こそが司法 と法律家 の模範であるからに他ならない。
我々は、フリッツ・バウアー、彼が残した業績、または彼が探求したライフワークについて博士論文を執筆している若手研究者に本奨励賞を授与することにしたい6)。我々が本奨励賞への応募を呼び掛けたところ、それに対する共感と反応には著しいものがあった。最終的に選考委員会の机の上には、13本の博士論文が積み上げられた。重さにして15キログラム、頁数にして合計1500頁の研究業績である。応募された研究業績は、その質の面においても相当なものであった。応募者の半数以上が、最優秀成績で博士号を取得している。以上から、我々は本奨励賞を授与するこを決定した。我々は、本賞の目的に従って、人権の現代的保護のために捧げられた現代史研究に 授与する ことにした。このように分野を区分したにもかかわらず、最優秀作品を選考するのは容易ではなかった。審査委員会は、我々が的確な判断に到達するために協力を惜しまなかった。このことが非常に重要なことであった。ここに審査委員会の委員の方々に対して謝意を表するものである。フリッツ・バウアー研究所元所長のラファエル・グロース教授とベルリンフンのフンボルト大学のゲアハルト・ヴェルレ教授からは、本奨励賞を受ける二人の受賞者に対して祝辞が述べられることになっている。また私は、ドイツ人権研究所のベアーテ・ルドルフ教授に対して感謝する。また、フリッツ・バウアーが初代の共同設立者になった人道主義ユニオン会長のヴェルナー・ケープ=ケルスティン氏ならびに旧ユーゴスラヴ ィア国際刑事裁判所ドイツ代表判事のクリストフ・フリュッゲ氏に対しても感謝する。彼らの協力のおかげで、我々が今日表彰する研究業績が高いレベルにあることを保障することができる。また、彼らの協力のおかげで、我々が授与する二人の受賞者がその業績と本奨励賞を誇りにすることができる。
我々は、ミュンヘンのアンドレアス・ヴェルクマイスター博士の博士論文「国際法における刑罰論」に本奨励賞を授与する7)。博士の研究は、国際刑法を用いて国家の不法を裁判にかけ処罰するフリッツ・バウアーの実践的努力につながっている。その研究は、様々に批判を加えながら刑罰の正当化論を発展させている。その出発点には、言うまでもなく人間の尊厳がある。フランクフルト・アム・マインのアルトゥール・フォン・グリュネヴァルト博士は、その博士論文「国家社会主義時代におけるフランクフルト・アム・マイン上級州裁判所の裁判官」に対して奨励賞が授与される8)。博士の研究は、フランクフルトの裁判官が国家社会主義の独裁に対して、いかに従順な態 度を示し 、不法の協力者になったかを示している。
私は、本奨励賞を受ける両名に対して心からお祝い申し上げる。そして、研究に取り組んだことに感謝する。フリッツ・バウアーは、かつて次のように述べた。「我々は大地を天国に作り変えることはできない。しかし、我々の誰もがこの大地が地獄にならないために何かをなすことができる」。個々の人間の権利と尊厳のために始めること――それがフリッツ・バウアーの業績を形成したのである。私は、二人の受賞者がさらに法学研究に積み上げていかれんことを希望する。我が国には、二人のような若い法律家が必要である。
*本稿は、2015年7月1日、ボンで開催された連邦司法・消費者保護省主催の「フリッツ・バウアー人権と現代法学史研究奨励賞」の授与式において行われた講演を加筆・補正したものである。
1)Vgl. Irmtrud Wojak, Fritz Bauer 1903–1968. Eine Biographie, 2009; Ronen Steinke, Fritz Bauer. Oder Auschwitz vor Gericht, 2013(ローネン・シュタインケ〔本田稔訳〕『フリッツ・バウアー アイヒマンを追いつめた検事長』〔2017年、アルファベータブックス社〕); vgl. zu Wojak auch die Besprechung von Heiko Holste, RuP 2010, S. 51 ff.
2)Vgl. Fritz Backhaus/Monika Boll/Raphael Gross (Hrsg.), Fritz Bauer. Der Staatsanwalt. NS-Verbrechen vor Gericht, 2014, mit der Besprechung von Ulrich-Dieter Oppitz, RuP 2015, S. 60 f.
3)Willi Winkler, Ein Held von gestern für heute, Süddeutsche Zeitung v. 2. Juni 2015.
4)Weitere Informationen unter www.uwk-bmj.de.
5)Ilse Staff, Fritz Bauer, in: Streitbare Juristen. Eine andere Tradition, hrsg. v. Kritische Justiz, 1988, S. 444.
6)Weitere Informationen zur aktuellen Ausschreibung www.bmjv.de/fritz-bauer.
7)Andreas Werkmeister, Straftheorien im Völkerstrafrecht (= Schriften zum Internationalen und Europäischen Strafrecht, Bd. 20), Nomos Verlag Baden-Baden, 409 S., brosch., 99 Euro, ISBN 978-3-8487-2084-2.
8)Arthur v. Gruenewaldt, Die Richterschaft des Oberlandesgerichts Frankfurt am Main in der Zeit des Nationalsozialismus. Die Personalpolitik und Personalentwicklung (= Beiträge zur Rechtsgeschichte des 20. Jahrhunderts, Bd. 83), Verlag Mohr Siebeck Tübingen, 403 S., brosch., 79 Euro, ISBN 978-3-16-153843-8.
解説
1.ハイコ・マース演説の現代史的意義
本稿は、ハイコ・マース「フリッツ・バウアー――『昨日の英雄。それは今日のためにいる』」(Heiko Maas, Fritz Bauer - "Ein Held von gestern für heute", in: Recht und Politik Vierteljahresschrifte für Rechts- und Verwaltungspolitik, 51. Jahgang 3. Quatral 2015, S. 145-148.)の邦訳である。
2015年7月1日、ハイコ・マース(ドイツ連邦司法・消費者保護省大臣)は、刑法学の歴史研究に従事した二人の若手法曹の博士論文に研究奨励賞を与え、その功績を称えた。奨励賞を授与されたのは、ミュンヘンのアンドレアス・ヴェルクマイスターによる「国際法における刑罰論」とフランクフルト・アム・マインのアルトゥール・フォン・グリュネヴァルトの「国家社会主義時代におけるフランクフルト・アム・マイン上級州裁判所の裁判官」の2編の論稿である。
ヴェルクマイスターの論文は、国際刑法における刑罰の目的と正当性を考察したものである。戦争、紛争、また宗教対立などを背景にして深刻な問題が起こっている現代世界において、人間の尊厳を志向する国際刑法は、国際犯罪への理性的な対応をいかにすれば自治原できるか。社会および市民を敵・味方に分断しようとするスローガンが聞こえてくるなかで、排外主義的な刑法に陥るのを防ぎ、国際刑法における刑罰の有効性と限界を明らかにしようとしている。グリュネヴァルトの論文は、ナチ時代におけるフランクフルト・アム・マイン上級州裁判所における裁判官・検察官の人事政策を分析し、戦前から戦後かけての司法機関の変質と再生の過程を明らかにしている。1933 年以降、 多くの裁判官・検察官が政治的・人種的な理由から排除され、無権利状態に置かれた。その空席を埋めたのは、いかなる思想の持主の法律家であったのか。その法律家は、戦後はどのような帰趨をたどったのか。その実像の解明は、現代の法律家の理想像を浮き彫りにすることにもつながる。
いずれも刑事司法の歴史的・現代的な問題を考察した力作である。しかし、2人の若手法曹の研究が高く評価されたのは、それらが学問的に優れているからだけではない。その賞の名が冠したフリッツ・バウアーの理論的実践と精神を今日的に継承し、それを発展させることが期待されているからでもあある。バウアーは、1960年代、アウシュヴィッツ強制収容所におけるナチのホロコーストのメカニズムの全貌を司法の場において暴き、その関与者の刑事責任を厳しく追及したフランクフルトの検事長である。ヨーロッパ全体を巻き込んだ戦争とファシズム、その不法と人権侵害は国際的な犯罪でもあった。そして、それを下支えしたのは政治家や軍人だけでな く、裁判 官や検察官などのエリートもいた。彼らによって、ナチの政権掌握から政治体制の確立、強制収容所の建設、その後の安楽死計画やジェノサイドが「合法化」されたのである。バウアーの名を冠した研究奨励賞が設立するまで、彼の死から50年を要した理由は明らかではないが、二人の若手法曹にバウアーの法律家として精神が引き継がれようとしているのは確かである。戦前のドイツにおいて、ユダヤ人であったがゆえに、また共和制を支持した裁判官であったがゆえに差別され、さらに社会民主主義者であったがゆえに弾圧された法律家の記憶が呼び覚まされようとしている。戦後のドイツにおいて、ドイツ司法を人道的・民主的に再建するために、ナチ残党の妨害をはねのけて、アウシュヴィッツ強制収容所の 関与者たちを法廷に連れ出した検事長の実践に注目が集まっている。かつての英雄であった法律家がハイコ・マースの演説によって今日の英雄として復活し、ドイツ司法の歴史のページに刻み込まれようとしている。法律家フリッツ・バウアーの精神は、ドイツの刑事司法と刑法史研究の新たな方向を指し示している。
2.フリッツ・バウアーとアウシュヴィッツ裁判
フリッツ・バウアーは、1903年にシュトゥットガルトに生まれた。ハイデルベルク、ミュンヘン、チュービンゲンの大学で法律学を学び、カール・ガイラーの指導のもとで経済法に関する論文「トラストの法的構造」を執筆して、法学博士号を取得し、1930年にドイツ最年少の区裁判所判事の職に就いた。しかし、その宗教的出自と政治思想ゆえに1933年以降、裁判官職から排除され、強制収容所に収容された。釈放後の1936年にはデンマークへ、1943年にはスウェーデンへ亡命し、1949年に帰国後、ニーダーザクセン州裁判所の検事長に、1956年にヘッセン州裁判所の検事長に就任した。その後、アルゼンチンのブエノス アイレス に潜伏するアドルフ・アイヒマンの逮捕とイェルサレムでの裁判に関わり、1963年から1965年までアウシュヴィッツ強制収容所におけるホロコーストに関与した所長・看守などを追及する「アウシュビッツ裁判」を起こした。1968年7月1日、自宅浴槽で死亡しているところを裁判所関係者によって発見された。奨励賞の授与式は、彼の47回目の命日に開催された。
アウシュヴィッツ裁判は、1963年から1965年までフランクフルトで行われた。検事局は24人の被疑者を割り出し、そのうち22人を起訴した。病気などの理由で裁判が打切られた被告人を除き、最終的に20人の被告人の判決が言い渡された。6人が終身刑、11人が有期刑に処され、3人に無罪が言い渡された。終戦から20年が経った年、アウシュヴィッツの過去を暴き、それを処罰することは、ドイツ社会がナチの過去と絶縁し、人道的・民主的に再生するために必要なことであった。フランツ・フォン・リストの社会復帰思想の理論的流れ与むバウアーが、ホロコーストの再犯の危険性がなく、すでに「社会復帰」し、「善良な市民」とし て勤労にいそしんでいる元ナチの被告人たちに「報復」するかのように刑罰を与えたことは矛盾ではないかと批判もあったが、ハイコ・マースは当時を振り返り、バウアーがアウシュヴィッツ裁判で追求したものが、人道性と寛容さ、人間の尊厳と平等であったこと、それゆえに正義に適った裁判であったことを強調している。そして、バウアーがアウシュヴィッツ裁判において貫こうとした法律観――その唯一の目的が人間の大量殺戮であったような施設に勤務していた者は、謀殺の幇助犯であるという犯罪観――が、あれから40年以上も経って、デムヤニュク裁判において適用されているとして、フリッツ・バウアーの法律観が現代のドイツ刑事司法において継承されていることを高く評価している。検事長フリッツ・バウアーの精神は、ドイツの刑事司法に人道性と寛容の理念を、人間の尊厳と平等を息吹を注ぎ込んでいる。
3.フリッツ・バウアーの刑法理論的実践が残した教訓
しかし、残念なことに、フリッツ・バウアーが起こしたアウシュヴィッツ裁判の詳細は日本において十分に知られていない。フランクフルト・アム・マインの地方裁判所において、どのような人物が、いかなる罪状によって起訴され、どのように裁かれたのか。そして、上訴審において、その判決が維持されたのか、それとも刑が減軽され、また無罪が言い渡されたのか。終身刑に処されたフランツ・ホフマンのように、長期間にわたる収容のため施設内で死去した者もいたが、なかには380人の謀殺を幇助したとして3年6月の懲役刑に処されたエミル・ハントルのように、未決勾留期間の刑期への算入によって1965年8月に釈放され、1984年に81才で死去した者もいた。さらには、少なくとも4千人の謀殺を幇助したとして3年3月の懲役刑に処されたフランツ・ルーカス博士のように、連邦通常裁判所の差戻し判決後、1970年にフランクフルト地方裁判所で無罪が言い渡された被告人もいた。このように様々である。しかし、有罪が無罪とされたことに驚きを禁じ得ない。
アウシュヴィッツ強制収容所においてホロコーストに深く関与したルーカス博士に無罪が言い渡されたのは、おそらく1968年10月1日に施行された改正刑法によるものと思われる。それまでは、加減的身分犯に非身分者が関与した場合には、加減的身分犯の規定が適用されるのは身分者だけであって、非身分者には刑が加減される前の通常の罪の規定が適用されると規定されていたが(刑法〔旧〕50条2項)、構成的身分犯に非身分者が関与した場合についての規定はなく、身分者だけでなく、非身分者にも構成的身分犯の規定が適用されると解釈されていた。アウシュヴィッツ強制収容所で行われた大量虐殺は、ユダヤ人やポーランド人に対する排外主義から実行された「下劣な動機」による殺人行為であり、刑法上の謀殺罪(刑法211条)にあたる。それはナチに固有の民族観・人種観・世界観を背景にしており、そのような思想を信奉する者(構成的身分者)にしか行いえない行為である。ただし、ナチの世界観を信奉しない者(非身分者)であってもそれを幇助した場合には謀殺罪の幇助犯として処罰されるという刑法解釈が、アウシュヴィッツ裁判において妥当していた。たとえルーカス博士がナチの世界観を信奉せず、「下劣な動機」から関与していたわけでなくても、彼は謀殺罪の幇助犯として処罰されたのである。
この刑法(旧)50条2項を3項に移し、2項に構成的身分犯に関与した非身分者には未遂減軽規定を適用し、その刑を引き下げる規定を設けたのが、1968年10月1日の改正刑法であった。ルーカス博士はアウシュヴィッツ強制収容所親衛隊所属の医師であり、アウシュヴィッツの駅に輸送されたユダヤ人・ポーランド人を労働可能者と不可能者に選別し、不可能者をガス室に送るなどの作業に従事していた。しかし、強制収容所の生存者は、ルーカス博士のことを「彼は自分たちのことを人間として扱った唯一の医師であった」と証言し、親衛隊員であったルーカス博士にも人間的な感情が残されていたこと、被収容者には彼だけが頼りであったことを証言した。そのようなこともあって、ルーカス博士には「下劣な動機」から謀殺に関与したわけではないと認定され、謀殺罪の幇助に未遂の規定を適用する改正規定が適用され、その結果、謀殺罪の法定刑(終身刑)を減軽した刑(15年以下の懲役刑)で処断されることになったのである。しかも、当時の刑法(旧)67条1項では、公訴時効は「長期において10年を超える自由刑を科せられる重罪の場合にあたっては15年」と定められていたために、ルーカス博士の行為の時効は、ナチが降伏した1945年5月8日から計算して、すでに1960年5月8日で完成していたとされ、それゆえ「無罪」の判決が言い渡されたのではないかと思われる(この点に関しては、Ronen Steinke, Fritz Bauer. Oder Auschwitz vor Gericht, 2013, S. 209, 205 f.〔ローネン・シュタインケ[本田稔訳]『フリッツ・バウアー アイヒマンを追いつめた検事長』[2017年、アルファベータブックス社]235頁以下、312頁以下を参照されたい)。ルーカス博士には謀殺罪の幇助に未遂減軽規定が適用されるたことによって、1963年にアウシュヴィッツ裁判が始められる前に、すでに公訴時効が完成していたことになった。このことをフリッツ・バウアーは知る由もない。
4.未解決の問題
フリッツ・バウアーは、1968年7月1日に死去した。謀殺罪の幇助に未遂減軽規定を適用する刑法改正が施行されたのが、1968年10月1日である。その3ヵ月の間にナチ犯罪の責任追及の攻守の力関係が逆転したように思えてならない。なぜバウアーは死んだのか。そして、バウアーが死んだ直後に刑法改正が実現したのは偶然なのか。その改正を指揮した司法官僚は誰なのか。それを明らかにしなければならない。
また、謀殺罪は元々「熟慮して」人を殺す行為であって、その規定には「下劣な動機」などの規範的要件はなかった。その要件を取り入れたのは、1941年9月4日の刑法改正であった。それによって、謀殺罪が「熟慮による殺人」から「下劣な動機による殺人」に変えられ、謀殺罪の成否が「熟慮」の有無という法適用者の事実認定から、「下劣な動機」の有無という規範的判断へと委ねられることになった。概して謀殺罪の成立要件が厳しくなったといえる。このような法改正をする必要性はどこにあったのか。独ソ戦が開始され、時局の推移を案じた支配階級が、「敗戦後」のドイツにおいて謀殺罪で裁かれるのを回避するための保険だったのか(「我々は確かに上司が命じた職務を熟慮して遂行した。しかし、それは下劣な動機からではなかった。ゆえに我々には謀殺罪はあたらない」)。1941年刑法改正を指揮した司法官僚は誰であったのか。それと1968年改正とは無関係なのか。
1968年7月から10月にかけて攻守逆転したことにより、ナチの犯罪人を不処罰にする刑法規定が成立したが、ハイコ・マースによると、バウアーがアウシュヴィッツ裁判において貫こうとした法律観が今では現代のドイツ刑事司法において継承され始めているという。攻守の再逆転である。バウアーの法律観とは、唯一の目的が人間の大量殺戮であったような施設に勤務していた者は、下劣な動機に基づいて謀殺を幇助した者であるという犯罪観である。そして、それがアウシュヴィッツ裁判から40年以上も経って、デムヤニュク裁判において適用されているというのである。この法律観・犯罪観が1968年10月以降も妥当し、刑法改正されなかったならば、ルーカス博士がアウシュヴィッツ強制収容所の基本目的を認識していた以上、彼もまた下劣な動機から謀殺を幇助したことになり、彼に無罪判決が言い渡されることはなかったであろう。そのバウアーの法律観とは、どのようなものか。改めて検討する必要がある。また、「デムヤニュク裁判」の内容についても調べる必要がある。
*本稿は、立命館大学2017年度研究成果国際発信プログラム(後期募集分)「過去の克服法理の刑法理論的展開――アウシュヴィッツ裁判とデムヤンユク裁判における過去の克服の法的実相」の研究成果の一部である。