Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

刑法による過去の清算と戦後民主主義(2・完)

2024-03-03 | 旅行
  刑法による過去の清算と戦後民主主義
 一 過去の清算という言葉
 二 継承されるドイツの精神的遺産
 三 愛国と憂国なき民主主義
 四 『ローゼンブルクの記録』による過去の清算?

 三 愛国と憂国なき民主主義
 1ゲーテとナポレオン
 マンがゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』に関して指摘しているように、その舞台はヨーロッパから新天地アメリカへと向かう。物語は、「アメリカへの移住」という動機によって展開され、大多数の登場人物がアメリカへの移住を決意することで結末を迎えるという。ゲーテにとってアメリカとは何か。ヨーロッパの遥か彼方にあり、宗主国イギリスから独立と自由を勝ち取ったばかりの国である。ゲーテはその勝利を「人類をほっと安堵させてくれる」ものと呼び、マンはこれに「これ以上に民主主義的な気持ちのこもった言葉はありません」と相槌を打つ。ゲーテは、ヨーロッパからアメリカへと遍歴する空想の中で考えただけであったが、実際には年齢ゆえに移住できなかっただけである。それほどまでにアメリカはゲーテにとって魅力的な国であった。では、ドイツはどうだったのか。アメリカへと心を惹かれたゲーテの目に当時のドイツはどのように映ったのだろうか。そこには愛する国を憂える民族的な感情はあったのだろうか。さらには、ドイツを追われてアメリカに渡り、そこから帰国したマンは、敗戦後のドイツを愛と憂いの目で見つめたのだろうか。
 ゲーテは、戯曲『ファウスト』第1部を出版した1808年に友人に宛てた手紙に次のように書いたそうである。「君たちを縛っている鎖は切れっこないよ、この人物は君たちには偉大すぎるのだから」。「この人物」とは、フランス皇帝ナポレオンである。1804年にフランス皇帝に推戴され、1805年にイタリア国王に就任し、アウステルリッツの戦いでロシア、オーストリア連合軍を撃破し、1806年にイェーナ、アウエルシュタットでプロイセン軍を破り、ベルリンへ入城したナポレオンを、ゲーテは「偉大な人物」と呼んだ。祖国ドイツに対する侵略者・侵略軍とは考えなかった。四分五裂した「神聖ローマ帝国」の領邦体制の専制支配と前近代的停滞からドイツ人を救済する偉大な解放者をナポレオンに見たのである。そこに祖国への愛国と憂国の感情はあったか。ドイツの惨状に向けられたのは、フランス由来のコスモポリタニズムの冷たい侮蔑の視線ではなかったか。ナポレオンに対するゲーテの賛美は、その後も終生変わらなかったという9)。
 19世紀初頭の「神聖ローマ帝国」の領邦体制と専制支配によって物質的にも精神的にも迫害されたドイツの人々を救済するのは、文豪の直接的な仕事ではなかったとしても、その傷の痛みを共有できたはずである。祖国を守るために戦いに立ち上がった純粋な若者たちを激励する文章を書き表すことはできたはずである。呪うべきは、遅れた帝国の後進性と前近代性であって、その民ではなかったはずである。怒りは、フランス流のロココ趣味にかぶれた公国の君主や伯爵たちに向けられるべきであった。領民の生活や福祉など全く無視して、国力に相応しくない豪奢な生活を送る彼らの腐敗し堕落しきった生活態度こそ批判されるべきであった。愛国と憂国の情があれば、誰しもそれに怒りを禁じ得なかったはずである。侵略軍の前に血を流して死んでいく若者の姿を想像しえたはずである10)。
 なぜそうならなかったのか。それはゲーテが魅了されたのがフランスの民主主義であったからである。そのために、あの三色旗を掲げて帝都に入城したナポレオンの軍隊を侵略軍とは思わなかったからに違いない。しかもそれだけではない。マンが指摘しているようにゲーテの「反民主主義的な姿勢」にも原因があったと思われる。彼は、自らが神々の寵児、創造主に選ばれた子、世界の主人であると自負する生得の自信家であり、野党の立場に立つことなど不運でしかないと感じる与党的人格者であった。そして、自身が「生まれつき適した人間」であり、自然の恩寵によって選ばれた高貴な人間であり、自分以上の我意の強い人間には一度も会ったことがないと断言した独善家でもあった。民主主義を手にした個人的帝国主義と独裁主義は、まさにデーモンそのものであった11)。その立場に立てば、「この人物」が縛る鎖は偉大であり、心地よいに違いない。


 2ゲーテとマン
 マンがゲーテ祭において聴衆に向けて述べた言葉は、敗戦に打ちひしがれたドイツとドイツ人への愛と憂の情に溢れていたであろうか。それとも、ゲーテがナポレオン戦争時に友人に宛てて送った手紙の言葉と同じであったか。第二次世界大戦後、マンに対して仲間からドイツへの帰国要請が相次いだ。国を追われた傷が深かったことは察するに余りあるが、祖国はすでに変わり始めている。だから帰国して欲しい。しかし、このような訴えに対して、マンは直ちには帰国しないと答えた。1933年にドイツ(ナチ)が自分から全てを奪った。家を、財産を、蔵書の全てを。そして、国から国への放浪はとても辛く、ホテル暮らしは侘びしかったことを語った。しかも、今は自分はアメリカ市民であり、これほど自分に好意を示してくれた国を去る気持ちはない。しかも、自分の子どもや孫もアメリカの教育を受けている。カリフォルニアの家で豊かに暮らすことを通じてでもドイツ民族に尽くすことはできる。そのような思いを伝えた。このように述べるマンの気持ちは分からないではない。しかし、「およそ1933年から1945年の間に、ドイツで印刷された書物には……血と汚辱の匂いがこびりついている」との発言に対して「国内亡命組」が嫉妬と怒りの声を挙げたのも理解できる。ナチの迫害の危機を逃れ、見知らぬ土地で亡命生活という不安な毎日を送っていたとはいえ、政治犯収容所に収容される現実の恐怖に比べると、その不安はどの程度のものであったというのか。侘びしい生活を送っていたとはいえ、ナチのテロから遠く離れたところにいた者から、弾圧の恐怖に怯え、奴隷の言葉で執筆することを余儀なくされた書物に「血と汚辱の匂いがこびりついている」と言われる筋合いはないではないか。率直に怒りの声が出されたのも無理はない。それでも仲間はマンに帰国を要請した12)。
 マンはもうドイツに戻らないと思われた。しかし、マンはやって来た。ゲーテについての講演であれば、ドイツ以外では意味がないので、とりあえず戻ってきたと、講演の冒頭で述べたそうである。そして、「皆さん」と呼びかけたのに続けて、「このカリフォルニアからの客に対して、こうしてドイツを代表することをお許し下さい。そして、ゲーテのファウストが最後にして最高の、と呼んだ瞬間、人類が、そしてドイツ人が〈自由な土地に自由な民とともに立つ〉瞬間を、はばかることなく、今ここに実現しようではありませんか」と訴えたという。この「自由な民」が立つ「自由な土地」とは、ゲーテの遍歴の最終目的地であり、またナチに追われたマンを受け入れたアメリカである。マンは今やその一市民である。迫害され追放されたマンを受け入れたアメリカが、迫害し追放したドイツを撃破し、勝利した。そして、ニュルンベルクにおいてナチの戦争犯罪人を裁いた。それに興奮し高揚したマンは、アメリカの一市民の立場から、ゲーテに象徴されるヨーロッパ的ドイツとフランス由来のコスモポリタニズムをアメリカの自由と民主の精神に重ね合わせ、それによって戦後ドイツの精神を復興できると確信したのかもしれない。デーモンのような19世紀ドイツの精神の一方をアメリカ的民主主義に、そして他方をナチ的独裁主義に位置づけることによって、民主主義の未来において独裁主義の過去を克服できると信じたのかもしれない。しかし、それによってナチの独裁の歴史は処刑台に送られたが、ドイツの民主主義はフランス由来のコスモポリタニズムを経由したアメリカン・デモクラシーに搦め取られてしまったのではないか。その結果、何がドイツに残ったのか。いわば精神的な空虚や虚脱感のような状態が続くことになったのではないか。講演会場にいた聴衆は、ドイツの代表を自称するカリフォルニアからの客に対して拍手喝采を送ったことであろう。しかし、マンがアメリカの一市民として言い残した民主主義には、「ドイツ」の一人称が欠落していたように思われる。


 四 『ローゼンブルクの記録』による過去の清算?
 1戦後処理における非ナチ化政策
 第二次世界大戦後、占領国である連合国が制定した国際軍事裁判所規程が被占領国ドイツに適用された。ニュルンベルクで行われた国際軍事裁判は、戦後直後の1945年11月20日に始まり、翌年10月1に結審した。この裁判によってナチ党の幹部が裁かれたことは周知のところである。アメリカ占領地区では、その継続裁判として安楽死作戦を遂行した医師や法律家、外交官や企業家など個別の職業分野に分類して裁判が行われ、ナチの不法に直接的または間接的に関与した専門家たちが裁かれた。州では公務員、大学教授、教師など一般の国民を対象に、そのナチへの関与と責任の程度が審査されたことも知られているが、ドイツが自国の法に基づいて自国の罪人を裁くことは、占領状態が解かれるまで許されなかった。これにより戦勝国によって戦後処理の基礎が築かれた。しかしながら、審査対象や事項が党や親衛隊の所属など公文書や記録などによって証明可能な分野に限定され、しかも一定の期限を区切って行われたため、性急な審査になり、その結果、審査を上手く切り抜けた者もいたようである。早く終わらせてほしい、そうしなければ日常を取り戻せない、安心した社会生活を送れないといった社会的心理が非ナチ化の徹底を阻む障害になったおそれもある。
 アドルノが提起した過去の清算は、ナチスの12年の過去を正面から受け止め、それを自己の思想と行動の批判的指針とする思想的営為であったはずである。一人一人のドイツ人がアウシュヴィッツとホロコーストにいかに関わったのか、いかに関わらなかったのか。またいかに関わるべきであったのか、いかに関わるべきでなかったのか。アウシュヴィッツの後になすべきは、過去を自己の行動の思想的指針とするための等身大の思想的総括でなければならなかった。それは戦勝国が進める戦後処理の最中にあっても一人称で答えねばならない問いであった。占領と統治、支配と管理の行政的土台の構築とは異なる次元において、個々人が自問自答すべき問題であった。そして、そのために何よりも重要なのは、ナチの本流に交わることのないはずの良きドイツ、ヨーロッパへと広がるはずのドイツに、悪しきナチ的ドイツの台頭に抵抗しえなかった脆弱性があったことを認識することであった。良きドイツが悪しきドイツを生み出した原因は、フランス由来のコスモポリタニズムやアメリカン・デモクラシーの欠如にあったのではないこと、問題の所在はドイツにあり、その答えもドイツにあることを自覚することであった。


 2連邦司法省『ローゼンブルクの記録』
 トーマス・マンがゲーテ生誕200年祭において「ゲーテと民主主義」を論じた1949年以降、過去の清算は、ドイツ人自身の手によって社会の様々な分野において進められた。司法による過去の清算を中心的に担ったのは、新たに再編されたドイツ連邦司法省であった。法の側からの不法の断罪、正義の側からの邪悪の指弾が裁判を通じて行われ、過去の不法の実態と責任の所在が法的に解明にされた。1960年代半ば、フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判を推進したのは、自らもナチに迫害され、亡命生活を余儀なくされたヘッセン州検事長のフリッツ・バウアーであった。司法による過去の清算がナチの残党と闘う正義の検事長の姿と重ね合わされて記憶されたことは自然のことであった13)13)。ただし、そこに至るまでには、過去の清算を阻む逆流との激しい闘いがあった。1950年代初頭、連邦司法省にはなおも戦前のナチ司法の担い手たちが残留していた。
 連邦司法省は、戦後司法省の歴史に関する調査研究を外部の研究者に委託して、その結果をマンフレート・ゲルテンマーカーとクリストフ・ザッファリンク編『ローゼンブルクの記録』(2016年)14)としてまとめた。これによって戦後初期のドイツ司法における「負」の精神的遺産の一端が知られるようになった。1949年から50年にかけて連邦司法省第2総局(刑法)に勤務した8人の局長と課長のうち5割4人が元ナチ党員であり、3人が元突撃隊員であり、9割近くがナチ関係者であった。1950年代末には13人の局長と課長のうち7割以上の10人が元党員であった(アカデミズム刑法学者としては、エドゥアルト・ドレーアー、ハンス=ハインリヒ・イェシェック、カール・ラクナーなど)。ヨーゼフ・シャフホイトレは元党員ではなかった。その品性と協調性の問題ゆえに、党官房が入党申請を拒否したからであった。刑法改正草案が起草された1960年代初頭には中心的官僚22人のうち5割以上の12人が元党員であった。1969年の時点では中心的官僚の22人のうち8人(3割弱)が、1973年でも18人のうち5人の元党員がいた(2割弱)。定年退官によって元党員の人数と比率は年毎に減少しているだけで、多くの元ナチの司法官僚が戦前から戦後にかけてドイツの司法機関の中枢にいたことが明らかにされている。これは関係者の間では知られたことであろうが、遅きに失したとはいえ、連邦司法省自らが明らかにしたことは意義がある。これは戦前・戦後の連続性の一端を表しているが、それが基本法の理念や連邦司法省の民主化の方針といかなる関係にあるのか。いわゆる英米仏の対独政策における「逆コース」への対応であったのか。連続性は単なる人事面だけの問題なのか、それとも司法政策にも影響を及ぼしたのか。このような理論問題の分析が求められる。
 1960年代の前半は、戦中のナチの不法のうち故殺罪や傷害致死罪などに該当する行為について、1960年5月8日に15年の公訴時効が完成し、残すところ謀殺罪やその幇助罪などに該当する行為の20年の公訴時効が迫ろうとしていた。フリッツ・バウアーがアウシュヴィッツ裁判を進めたのは、その完成直前であった。この時期、刑法改正政府草案(1962年政府草案)や秩序違反法施行法草案を起草する司法省の小委員会にドレーアーとシャフホイトレが配置された。この2つの草案の起草作業は、表向き個々別々に進められたが、秩序違反法施行法案の起草過程において、1962年政府草案から「真正身分犯の共犯」に関する規定が抜き出され、それが秩序違反法施行法案に取り入れられた。そして、その法案は1968年5月に連邦議会で可決された。『ローゼンブルクの記録』は、秩序違反法施行法に実質的な刑法改正が含まれていたことも史料に基づいて明らかにしている。この刑法一部改正によって多くのナチの謀殺罪の幇助犯の刑事手続が打ち切られた。つまり、米国ユダヤ人権団体サイモン・ウィーゼンタールなどによって告発されているナチの謀殺罪の実行犯や幇助犯の刑事手続を打ち切るために、連邦司法省に残留した元ナチの司法官僚(彼らの中には謀殺罪の幇助犯がいる)が刑法改正を行ったのである。
 アドルノが提起した過去の清算、すなわちナチスの12年の過去を正面から受け止め、過去そのものを自己の思想と行動の批判的指針にする思想的営為は、徹底されたか。その後の推移を見る限り、懐疑的にならざるを得ない。過去は清算されず、戦後の歴史は零時刻から時を刻んでいなかった。民主化されるはずの司法の精神の隙間が戦前のイデオロギーの担い手たちの居場所になったと言ってよいであろう。しかし、『ローゼンブルクの記録』によって、ようやく歴史の針が動き始めた。ナチの不法の実行犯(とはいっても、敗戦当時20代の若者で、その後はドイツ人として平凡に生きてきた現在の高齢者)を改めて追及するよりも、戦後刑事司法の人事、理論、実務の側面における連続性を解明することがさらに期待される。

8)青木順三は、「ドイツ共和国について」の解説において、「この講演でマンは、いまやすでに万人にとって一つの内的事実となっている民主主義や共和国が、ドイツの精神の伝統にとって決して異質なものではなく、戦前の帝政に比べてむしろよりふさわしいものであること、またそれはドイツ・ロマン派と同じ水準のものでありうることを証明するために全力を注いでいる。後半の部分で愛と死と夜を讃えたロマン派詩人ノヴァーリスの批評的散文の世界が、若々しいエネルギーに満ちたアメリカン・デモクラシーの詩人ホイットマンの世界に意外なほど重なり合うものであることを力説しているのはそのためである。これは危険な国粋主義的偏見に捕らわれていた当時の青年たちを説得するためにマンが必要と考えた論理でもあろうが、同時に、あるいはそれ以上に、マン自身が発見しつつたどった思考の過程でもあっただろう」と論じている(マン〔青木訳〕前掲書・注6〕226頁以下参照)。青木の指摘によると、マンはワイマールにおいて非政治主義から転向しただけで、ロマン主義の立場は維持したといえる。したがって、彼が指向した民主主義は、ロマン派的民主主義である。それは、アメリカを指向する民主主義である。
9)中埜肇『ヘーゲル ― 理性と現実』(1968年)によると、18世紀ヨーロッパの思想的主流は啓蒙主義であった。それは普遍的な理性の尊厳と価値を主張するものであるため、それによって形成された文化もまた普遍的で国際的(フランス的)な性格が強く、それに応じて国民的・民族的な傾向は弱くなるのは当然であった。「神聖ローマ帝国」のように諸邦に分裂した体制においては、人々は自分の郷土に対する愛着はあっても、「ドイツ」という統一体に対する意識は低かった。それは知識人階級の場合も同じであった。このような感情に「神聖ローマ帝国」の後進性に対する絶望が結びついて、知識人階級の政治意識も希薄になり、その思想は彼の国を指向するコスモポリタン的なものになりがちであったという。これが民主主義をロマン主義的に希求する精神的土壌になったのではないかと思われる。20世紀初頭の日本の知識人の国家意識の傾向にも共通するところがあるのではないだろうか。
10)ヘーゲルは『ドイツ憲法論』の冒頭で「ドイツはもはや国家ではない」と書いたが、彼が認識した神聖ローマ帝国の政情はどのようなものであったか。領邦の領主の堕落と退廃の模様について、中埜前掲書・注8)16頁以下によると、シラーの戯曲『たくらみと恋』は、ドイツのある領邦の君主が愛人と縁を切るため、彼女を別の貴族と結婚させ、その祝いとして高価な宝石を贈ったが、その代価は領民7千人を独立戦争を戦うアメリカへ傭兵として送り出し、その受け取った代金によって支払われたことを描いているという。カッセルの君主は、アメリカにおける独立叛乱を鎮圧するイギリスに対して、領民を1人あたり15ポンド、1万7千人を合計25万5千ポンドで売り渡し、ブラウンシュヴァイクやアンスバッハの君主は、2万9千人を合計7百万ポンドで売り渡し、君主たちは受け取った代価で贅沢三昧の生活を送ったという。アンスバッハのカール・アレクサンダー伯は、領民を売って得た金をパリの女優や愛人に貢いだあげく、金に困ると自分の国をロシアに売り渡し、その金を持ってイギリスに渡り、そこで隠居生活をしたらしい。ゲーテがこのような状況にある国の実情を知らなかったはずはない。愛国の情は起こらなくても、憂国の感情は起こらなかったのだろうか。
11)一般のドイツ人の間には、ナポレオン戦争における敗北とそれに続く占領統治時代の屈辱的体験から、(フランスから独立を目指す)自由主義と(フランスではなくドイツ固有の)民族主義が目覚め始めた。フィヒテは、当初はコスモポリタンであったが、「ドイツ国民に告ぐ」において、理性的な愛国心に基づく国民の自覚と奮起、民族主義の理念に基づく国民教育の必要を訴えた。それは外来の民主主義とは無縁な、敗北と屈辱のどん底から生まれた愛国主義、「ドイツ」という一人称の民族主義の叫びであったと思われる。なお、1985年5月8日、リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領は、演説において「(1945年)5月8日は解放の日である」、「国家社会主義の暴力支配という人間蔑視の体制からわれわれ全員が解放された」と述べている(『荒れ野の40年 ヴァイツゼッカー大統領演説』〔1896年〕10頁以下)。
 ヘーゲル研究者の中埜肇は、太平洋戦争後、従軍から再び学窓に戻った時、日本全土に満ちた精神的虚脱と物質的荒廃を目の当たりにして、ひそかにフィヒテのことを想い出し、どこかの大学教授が「日本国民に告ぐ」という愛国と憂国の声を発するのを期待したが、そのような声はどこからも聞こえてこなかったと回想した。中埜も太平洋戦争の敗戦とそれに続くアメリカ軍の占領の屈辱的体験から、民族の独立を待望した一人であった。ただし、大学教授ではないが、出獄した共産主義者の徳田球一が1945年10月10日、自由戦士歓迎人民大会において出獄声明書「人民に訴う」を発表した。この声明書では、「ファシズム及び軍国主義からの世界解放のための連合国軍の日本駐留によって日本に於ける民主主義革命の端緒が開かれたことに対してわれわれは深甚の感謝の意を表する」と述べている。ここにはマッカーサーを中心とする連合国軍を「解放軍」と規定する立場がすでに表されている(中北浩爾『日本共産党 「革命」を夢見た100年』〔中央公論社、2022年〕129頁以下)。獄中においてもプロレタリア革命運動を継続してきた立場からは、日本帝国主義の敗北は日本の労働者階級の解放を意味するが、その解放は日本人民の手によってなされるべきものであった。「解放」という規定を用いるとしても、それにはフィヒテ=中埜が敗戦から体験した敗北と屈辱と同様の感情が込められるべきであった。なお、司馬遼太郎『ひとびとの跫音』(中央公論社、1981年)では、日本人民代表が刑務所に来て共産党員に釈放を告げるまで、獄中闘争を継続する選択肢もあったという。それについては、鶴見俊輔『戦時期日本の精神史 1931~1945年』(2001年)116頁参照。
12)亡命者の発言に対する国内亡命組の怒りは、すでに1946年の初旬に露わにされている。カール・ヤスパースは、牢獄における獄吏の破廉恥行為の責任を囚人も同じく負うべきと論じた亡命者の主張を「パリサイ的な偽善の口吻」と非難した。この非難は、恐怖政治の屈従者は転じてその共犯者となったと論じたハンナ・アーレントに向けられた(カール・ヤスパース〔橋本文夫訳〕『戦争の責任を問う』〔平凡社、1998年〕130頁以下)。
13)本田稔「甦る法律家 フリッツ・バウアー」法の科学第49号(2018年)161頁以下、本田稔「法と正義の狭間に立つアウシュヴィッツ裁判」季刊・戦争責任研究第90号(2018年)93頁以下、本田稔「現代司法における戦前・戦後の断絶と連続 ― フリッツ・バウアーをめぐる近年のドイツの司法事情から学ぶ」法と民主主義No.524(2017年)31頁以下、Heiko Maas, Fritz Bauer - "Ein Held von gestern fur heute", in: Recht und Politik Vierteljahreshefte für Rechts- und Verwaltungspolitik, 51. Jahrgang 3. Quartal 2015, S. 145-148.(ハイコ・マース〔本田稔訳〕「フリッツ・バウアー『昨日の英雄。それは今日のためにいる』」立命館法学373号(2017年)487頁以下)。

【付記】本稿は、2023年3月4日に開催された神戸・ユダヤ文化研究会の研究集会において行った報告「アウシュヴィッツ裁判とその後の過去の清算」の序論に加筆・補正したものである。