けさ、自分の記事に関わる、検索の一覧を見かけたら
「坂井泉水の、姪」、はたまた、「養女」・・・・・なるものが、目に付いた。
まず、言い切って、おこう。「養女」? ええっ?
不遇の死を遂げた末に、いまだ、全国に2つある墓名碑の中に、骨の1片すら収められていない、どころか、散骨さえされていない髙倉健でもあるまいし、あり得ない、存在。
それも、その自称・姪や、養女自身が「発信」したとされる、経歴、や、蒲池幸子との関わりについて、自慢していことを紹介したものを、数本、読んだ。
その経歴や、自慢を、すべて、それに当たる女性そのものが、この世にいるのかどうか、調べ、照らし合わせてみた結果、
すべて、虚偽、ウソ、でっちあげ、と、一刀のもとに、斬って捨てた一文も、読んだ。
おそらく、すべて当たり、だろう。
ただ、姪にあたる女子は、この世にいます。
オバサンにあたる、幸子のように、自死、自殺。はたまた、不遇の事故死などしていなければ、現在、20歳過ぎた成年女性になっています。
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なんで、知ってる?
なんで? 誰から、聞いた?
かつて、徹底取材した際、幸子の父親に、玄関前で、立ったまま、2時間もの直撃インタビューしたとき、詳しく聞いた家族構成のハナシ。
加えて、「ZARD 御殿」と呼ばれていた、その家の近所の人達にも取材し、その人たちが見かけた人数と、家族の暮らす姿から、判明したことです。
当初は、父が、独りで住んでいた20坪ほどの、2階建ての木造モルタル造りの家に、家族全員が住んでいた。
幸子の部屋は、2階の角の、玄関斜め右上の、一番、日当たりが良いところ。
そこに、新宿駅西口のビルの中に入っていた、不動産会社に勤めていた幸子が、モデルや、歌手として、スカウトされ、都心のマンションに移り住むまで、寝起きし、通勤していた。
家は、神奈川県内にある、自動車教習所の教官をしていた、父親が、家族と相談し、ローンを組んで、建てたもの。
娘の幸子が、カー・レース場や、イベント会場などでの、お飾りモデルから、歌手に転じ、その曲が、爆発的に売れて、コンサートを開かずとも、巨額の印税収入が入った時でも、
父は、ローン計画を組み変えず、自分の給与から、天引きされて、支払い続けていた。
「それも、もう少しで、終わるんだよ」と、わたしに語っていた。
自分一人で、家族の幸せのために建ててあげたのに、娘の幸子のほうは、家族の為にと想い、当時、売りに出ていた、大きな家を、即金で購入。
それも、最寄りの私鉄の駅から、徒歩、数分の、通勤にも、便利なところ。
住んでいた、先の実家は、駅のそばの歩道橋から、好条件が重なると、富士山が見えた、自然も豊かな地。
実家は、そこから、歩いて、25~30分近くかかり、家の近くは、農道、農地、が多く、夜ともなると、一面、真っ暗闇。
電柱に街灯も少なく、取材、帰る時、苦労した。
もし、痴漢が出て、襲われて、叫んでも、誰も気付かない、夜の小道。
定期通行バスも、無かった記憶がある。
中学校、高校、そして短大、会社には、最寄りの駅まで、自転車で通学、通勤。
幸子は、中学生のとき、陸上部にいて、地域で記録も出したほどの健脚だったとはいえ、なだらかな上り坂もあるうえ、帰りが遅くなると、暗闇の道の走行は、さぞかし大変であったろうと、取材で、何度も、通いつつ、痛感した。
だからか、家族の新生活の為にと、親孝行のつもりで、即金で購入した、中古ながら、大きな家は、私鉄の駅から、歩いて数分。
当たり前のことながら、駅前のロータリーも、明るく、家路まで、街灯が、くまなくある。
さらに、バス停も目の前。
母親は喜び、即断して、引っ越していった。
さらに、幸子の弟も、引っ越していった。
1階には、車庫も2つあり、外玄関の柵を開けて、石段を登って行く先に、玄関があり、広い庭付き。
見た目は、大きな、3階建て。広い、ベランダと、物干しスペースもある。
これ幸いにと、すでに結婚して、夫とともに、賃貸アパートに住んでいた、幸子の姉と、その夫も、引っ越してきた。
その姉に、確か、すでに・・・・・女児と、男児の、赤ん坊と、幼児がいた記憶がある。少なくとも、女児、1人は取材時、いた。
当時の記事には、そのこと、書き添えた記憶あり。
今、すぐ、読み返すには、段ボール箱を探し、次々と開けなければならず。
それは、しないものの、女児の記憶が…・おぼろげながら、ある。
その子が、元気ならば、間違いなく、「姪」。
別に、養女なんぞ、とる必要もなく、不要。
そして・・・・・
その近所では、豪邸と呼んでも、おかしくないその家。
書面上、そこを、印税収入を、主にして、管理・運営をする、「個人事務所にして、住所を登記。節税が、主目的でもあった。
有限会社として、家族を登記簿上、役員にして、役員給与を支給した。
実際の業務は、素人同然の家族が、出来るわけもなく、定期的に税理士が訪問し、書面を作成し、税務署などに、提出申告してくれるという、流れ。
そのこともあり、それまで、アルバイトしていた、弟が、次第に働かなくなり、家でゴロゴロして、仕事を辞めて「役員給与」に頼る生活になってしまった。
姉の夫は、変わらず、通勤して、働いていた。
自分のチカラで、念願のマイホームを手に入れた、父親は、車で職場へと通勤し、単身帰宅。
かたくなに、「ZARD御殿」には、住もうとは、しなかった。
「行ったこと? 無いことは無いけど・・・・1回か、2回くらいかなあ・・・・・」
「一緒に、暮らすつもりは、今は、全然ないね。アチラは、あちら。こっちは、こっち。ココは、俺の家だからねえ・・・・・」
「定年退職したら・・・・・まあ、その時に、考えるかも知れないけれどねえ。今は、まったく、その気はない」
その豪邸の、ホントの主である、次女の幸子も、訪問したのは、数度きり。
泊まることも無く、都心にある自分のマンションに帰宅していった。オバサンとして、姪の顔は、観ていた。
彼女が、有名になり、莫大な収入を一気に取得し、「親孝行」のつもりで、購入し、住まわせた家のために、家族の心と、生活意識と、環境が、ガラリと一変。
ソレは、逆に、不幸と、溝と、分断、分裂を生んでしまったのではないだろうか・・・・・・
ということを、記事化した記憶が、ある。
不治の病で、幸子が、慶應大學医学部附属病院に、長期入院した時。
ほぼ毎日のように、私鉄の駅から、新宿で電車を乗り継ぎ、交差点をはさんで、病院が目の前にそびえ立つ、JR信濃町駅まで通い続けたのは、母だけであったという。
父は、まだ仕事をしていた時期であったように、想う。
まだ、先日2月1日の、合成テレビ出演や、近年まで、死人で飯を喰うようなカタチで、続けられていた「フイルム・コンサート」興業の際の、故人ならぬ、個人事務所に入る収入も、ゼロでは無いだけに、名目上は、まだ、有限会社はあると、想われる。
それこそ、本当の姪が、成人を過ぎ、有限会社に、役員の1人として、名を連ねているかもしれない。
いつ聴いても、永遠の、あきられることのない、BGMとしても、テーマ曲や、時代を語るに、ふさわしい曲として、使用され、流れ続けるであろうから・・・・・・・・・・・・