< 2015・2・18 掲載記事 >
まさか、菅原文太が、長男を溺愛していたなんて!
彼が亡くなって、さまざまなエピソードが、死後、スポーツ新聞を中心に書かれていた。
そのなかに、かつて、父の文太の後を追うようにして俳優をしていた長男の薫とのことが、気になった。
彼は、「菅原加織」という芸名で、映画に何本か出演。
それを見た。正直「学芸会」程度の演技力。いかに「親の七光り」といえども、この先、何年も持たないなあ、と想っていた。
加えて、当時、父の文太は、ガッツ石松などに誘われ、その名も「げんこつおやじの会」に参加。厳しく父として、自分の子供に接する・・・・・・ヒトであろうと思っていた。
それまで、インタビューどころか、会ったことも無かった。「仁義なき戦い」からくるイメージと重なり、父として、例えば、「この世界、お前が考えているような甘い芸能界じゃないんだぞ!」 「この先の、身の振り方を、しっかり考えろ!」 とでも言うような苦言を、普段から呈している。そう、思い込んでいた。
ある日、有楽町駅近くの、映画館が入っている高層ビルの通路で、その菅原文太を見つけた。
東映の知り合いか。中年男性と連れ立ち、歩いていた。早足で追いかけ、追いつき、声を掛けた。
?という表情を浮かべ、振り向いてくれた。
ーーー菅原さん、失礼ですが、息子さんのことで、お伺いしたいのですが。演技、ちょっと・・・・ですよねえ? 父として、どう見てますか? 本当のところ。
「う~ん、まあねえ・・・・どうしたらいいかねえ・・・・・」
あいまいな、苦笑いを浮かべ、そう言って去って行った。
ああ、迷っているんだなあ、ヘタな演技を、まの当たりにして。そう、受け止めた。
ところが!
薫が、その直撃後の、2001年10月3日。31歳の時に、小田急線・下北沢駅近くの踏み切りで、亡くなっていたことも初めて知ったが、父・文太が、実は薫を溺愛。
その死の際には立ち直れないくらい、落ちこんでいたことや、薫の演技力に不安を感じ、旧知の映画担当記者に「どうだい? 薫の評判は?」と、しばしば尋ねていたと記載あり、ぶっ飛んだ!
ということが本当ならば、あの時の質問は、父として、心の気掛かりな痛いところを突かれたということだろう。
それにしても、あの「菅原文太」がなあ・・・・・・と、今もって信じられないが。薫の墓は、第一報の記事で書いた、大宰府天満宮 祖霊殿に、父より先にまつられている。
その菅原文太が、俳優を事実上辞めて、自然農法、農薬を一切使わない農業を山梨県や、岐阜県の山中で農地を借りて始めた頃から、日本の農業のおかしさや危機をたびたび訴えてきた。
無農薬農法を手掛けているのは、日本全体のわずか、0・16%でしかない。農協との対立。
「農協とはぶつかっているよ。遠慮しないで文句言っているよ」
そう、文太は言っている。
先の記事で書いた、まっすぐ、きゅうり、長さ18センチという「規定」の、購買者のことを無視した、バカバカしさ。
農薬の恐怖。土の改良のこと。台風や風水害に見舞われても、無農薬の米の強さ。
などなど、生きて、生き続けて、国民に啓発し続けて欲しかった。
今度の、農民、農業を支配し、悪影響を与え続けてきた農協の改革。実質的には、まったく「改革」されないことを、農民・菅原文太は、どうみたか?
是非、意見、提言を聞かせて欲しかった!
そして、故郷の宮城県沖からも押し寄せた、三陸沖・超津波大地震。
原発と米軍基地を無くさず、さらに続け、且つ、かつての軍国少年・菅原文太ですら危惧する軍国化の波押したてる、政府の動きに対して、危機感を抱いて、反対の意思を長らく表明してきた。
だから、ソレを実現可能にしてくれるのではないだろうか?と、一縷(いちる)の望みを託して、政治屋と接触し、応援演説にもかって出た。
亀井静香、小澤一郎、小泉純一郎、細川護煕(もりひろ)、松本龍、そして、翁長雄志(おなが・たけし)。
次々と、裏切られ、口先三寸で騙されてきた。
「脱原発」などという、なんの意味も持たない元・首相老人コンビのあみ出した作りコトバにだまされた。
みんな、汚い詐欺師の政治屋。
故郷・宮城を復興させる任を命じられたのに、被災地で差別暴言を吐いて、大臣を辞めざるを得なかった松本龍にも、だまされた。
とどめは、実は、落選した売県奴の片腕だった翁長雄志。普天間基地問題に対して、危惧した通り、やっぱり本気で取り組むような「ポーズ」だけは見せながら、遅々として何一つ性急にやらずに、このまま捨て置き、県民を裏切る手法をとることを見抜けなかった文太。
翁長のかぶっているカツラをはがして、ホンネを聞くべきだった。その上で、危機と、自分の熱い想いを訴えるべきだった。
人が良い、のだ。菅原文太という男の、根っこは。
ある時、ポツリとうなだれるように、文太は、こうもらしていた。
「全然、進んでないんだよなあ・・・・・・。どうなっているのかねえ・・・・」
とりわけ、象徴的だったのが、左の写真が撮られた日に、起こった事件だ。
三陸沖・超津波大地震から、110日あまり。
2011年7月3日。文太は、復興担当大臣になった九州出身で、差別団体の幹部をしていた松本龍(写真の青いシャツの男)とともに、被災地入りした。
故郷・宮城の有名人の文太を担ぎ出し、勇躍、現地を視察したあと、松本は岩手県庁で知事に、こう言い放った。
「俺は九州の人間だから、何市が、どこの県にあるのか、分からん」
「本当なら、仮設(住宅)を建てる(岩手)県の仕事だ」
「知恵を出さないやつらは、助けない」
続く、文太の出身県でも、横柄で、見下す言動は変わらなかった。
被災した港を集約して立ち直させる、県独自の案を聞かされて
「県でコンセンサス(意見の一致や、総意)を得ろよ!そうしないと、我々は、何もしねえぞ!」
文太が、この時、どんな想いでいたのかは、分からない。少なくとも、いさめるべきであった。
差別運動に身を投じた人間が、被災民を見下し、差別した。
結局、大臣を辞任せざるを得なくなり、次の選挙では地元支援者に見切られ、落選。
今は、タダのヒト。
そんな男が、家族葬に参列しており、かぎつけた週刊誌記者の問いかけを無視して、逃げた。
どのような水面下で、深いつながりがあったのか、知りたく、連絡をとってみたが、無しのつぶて。
農業、軍事化、そして原発。
熱い想いを、人生中途で断たざるを得なかった、菅原文太。
死後の、番組の扱いは、高倉健こと、故・小田剛一に較べ、あまりに小さい。
追悼番組と銘打ったラジオ番組は、通常通り、誰も聞いていない早朝。
「仁義なき戦い」の写真集は、さほど売れず。すぐ店頭から消えた。
「県警対組織暴力」など、快作・傑作もあるのに、放映すらされず。
せめて、文太が道半ばにして、ついえた、熱い意思を、引き継ぐ者達が出てきて欲しい。
でないと、この国は、ホントに、危ない方向へ暴走し始めているのだから。
妻・文子の一文を書き添えて、この記事を締める。
「日本が再び戦争をしないという願いが、立ち枯れ、荒野に戻ってしまわないよう、共に声をあげること」
他界して、はや2か月半が過ぎようとしている。
時の流れは、あまりにも、速い。
俳優として以上に、人間として惜しいひとを亡くしてしまった・・・・・・・