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死ぬことは、おのおのの現存在が各自で引きうける!ほかの人びとの死を現存在の全体性の分析のため代理させることはできない! ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第2編」「第1章」「第47節」

2019-11-12 13:54:47 | 日記
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第2編 現存在と時間性」「第1章 現存在の可能的な全体存在と、死へ臨む存在」「第47節 ほかの人びとの死についての経験の可能性と、全たき現存在の把捉の可能性」

(2)「ほかの人びとの現存在が終末に至ったときに、これを現存在の全体性の分析のための代替的な主題としてえらぶという便法」は無効である!
C 「現が死において全たさに到達することは、とりもなおさず、現の存在を喪失することである。」(237頁)
C-2「ほかの人びとの現存在が終末に至ったときに、これを現存在の全体性の分析のための代替的な主題としてえらぶという便法」は有効だろうか?(238頁)
C-3 だが「われわれは、末期の人が『こうむる』存在喪失そのものに接することはできない。」「われわれは、ほかの人びとの死ぬことを真正な意味で経験することはできない。」(239頁)
C-4 「だれも相手からその人の死を引きとることができない。」(240頁)
C-5 「死ぬことは、おのおのの現存在がいずれは各自で引きうけなくてはならないことなのである。」(240頁)
C-6 「死ぬという意味で『終わる』ことが現存在の全体性を構成している。」(240頁)
C-7 「この『終わり』とそれによって構成される現存在の全体存在とにおいては、本質上いかなる代理も成り立たない。」(240頁)
《感想2》死ぬのは、その人であって、私でない。私は「その人の死」を絶対に経験できない。私は「私の死」を経験できるだけだ。

D 「客体的存在や生命」は「現存在とことなる存在様式をそなえた存在者」である。(241頁)
《感想2-2》フッサールは『デカルト的省察』のなかで、植物・動物もモナド、つまり現存在として(ただし不完全なモナドとして)認める。フッサールは「生命」を「現存在とことなる存在様式をそなえた存在者」(ハイデガー)でなく、現存在(人間モナド)と類似のモナド、《現存在と本質的に同一の存在様式をそなえた存在者》と考えていた。
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