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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」(その10):「教養の世界」・「地上の国」はすべてが反対に転換し「空の空」だ!

2024-08-16 14:03:47 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」(その10)(275-276頁)      
(64)「現実の国」(「教養の世界」)は「風」・「水」・「火」・「地」の4元素からなり、「風」は「国権」、「水」は「財富」、「火」は「精神」(「ガイスト」・「エスプリ」)だ! 
★(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)a「現実の国」(「教養の世界」)は「地」・「水」・「火」・「風」の4元素からなる。(275頁)
☆すでに見たように「教養の世界」における「君主国家」において、🈩「国権」が「財富」、「財富」が「国権」、そして🈔「高貴」が「下賤」、「下賤」が「高貴」、また🈪「善」が「悪」、「悪」が「善」なので、かくてすべてがメチャクチャになる。このメチャクチャを言葉で表現したものが、「頌辞」に対する「分裂の辞」だ。「ただ『分裂』があるだけで『統一』は少しもない」のだから、確かに気狂いじみているけれども、「およそすべての『対立』は互いに他に『転換』すべきもの」だから、「分裂の辞」は同時に、「エスプリ」に、「ガイスト」に富んだものなのだ。(275頁)
☆元素「火」がこの「精神」(「ガイスト」)にあたる。(275頁)
Cf.「現実の国」では、「自己同一」を保つ「国権」が元素「風」であり、「自己とちがったもの」になる「財富」が元素「水」である。(260頁)

《参考1》((C)「理性」)(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」のところでa「教養と現実の国」とあるが、「現実の国」を構成するものは「国権」と「財富」だ。(143頁)
☆ヘーゲルは「意識」を「普遍的」と「個別的」とにわける。「普遍的」意識は「国権」に服従する。「個別的」意識は「財富」に執着する。(144頁)
☆「普遍的」意識を実現するのは「高貴なる意識」であり、「個別的」意識を実現するのは「下賤なる意識」だ。(144頁)

《参考2》(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)!a「現実の国」は、「風」のごとく「自己同一」を保つ「国権」と、「水」のごとく「自己とちがったもの」になる「財富」との2つの要素からなる!「火」にあたる「精神」Geistによって、「国権」と「財富」は相互に他に転換する!a「現実の国」は「地上の国」(要素「地」)であり、「天上」or「彼岸」として「信仰の世界」がある!(260頁) 
☆(BB)「精神」B「教養」のⅠ「自己疎外的精神の世界」はどういう構造をしているか、「自然界」したがって「実体」(※「反省」以前の全体)が「地」・「水」・「火」・「風」の4元素からなっている点から、ヘーゲルは説明する。(260頁)
☆さて「自己疎外的精神の世界」はa「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」の2つに分かれる。(260頁)
☆「自己疎外的精神の世界」a「現実の国」は、「風」のごとくいつも「自己同一」を保つ「国権」と、「水」のごとくいつも「自己とちがったもの」になる「財富」との2つをもって要素としており、これら2つの相反したもの(「国権」と「財富」)が、「火」にあたる「精神」Geistによって活気づけられ、相互に他に転換する。(260頁)
☆だから「国権」と「財富」とは、いずれも「あれどなきがごときもの」だ。a「現実の国」は「地上の国」(要素「地」)であり「空の空」だ。(260頁)
☆しかしこのことは「地上」(「地」・「水」・「火」・「風」の4元素)と別に「天上」のあることを暗示している。そこに「此岸」(「地」)に対する「彼岸」(「天」)として「信仰の世界」((BB)「精神」B「教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」b「信仰と純粋透見」)がある。(260頁)
☆そこでa「現実」の世界のほかにさらにb「信仰」の世界があり、したがってa「現実の国」において「国権」(「風」)と「財富」(「水」)とが互いに他に転換し疎外するばかりでなく、「此岸」(a「現実の国」)と「彼岸」(b「信仰」)も互いに疎外するが、この対立、すなわち「此岸」(「地」)と「彼岸」(「天」)との対立を克服しようとするのがb「純粋透見」だ。(260頁)

《参考3》ヘーゲルは、「実体」(※「反省」以前の全体)が「自然的直接的」であるという理由で、「自然界」の「地」・「水」・「火」・「風」の4元素になぞらえて「実体」の構造を説明する。(259頁)
☆「風」は、「いかなるところへも浸透」し、「どこでも自己同一性を保っている」ので、「風」の特徴は「普遍性」に、「即自存在」にある。(259頁)
☆これに対して「水」は「いかようにも形成」され、いつも「自分自身とちがった他のものになる」ので、「水」の特徴は「個別性」に、「対他存在」にある。(259頁)
☆「風」と「水」との2つが「相反する」元素であって、「相互に他に転換する」ところに「自然界」は成立する。(259頁)
☆しかし「相反したものを互いに他に転換する」には、「それぞれを活気づけるもの」が必要だが、これが「火」という元素だ。「水」を熱せれば「風」となり、風を冷やせば「水」となるというわけだ。(259頁)
☆そうして「風」・「水」・「火」の3つを結合し、それらの相互に作用する出来事の「場面」の役割を担当するのが「地」だ。(259頁)
☆かくて「自然界」したがって「実体」(※「反省」以前の全体)は「地」・「水」・「火」・「風」の四元素によってなっている。が「自然界」がなににおいて成立しているかというと、けっきょくは「地」においてというほかない。この「地」において、「風」と「水」とが「火」に媒介されて、互いに他に転換し去る。その点からすれば、いずれもあれども無きがごときものだ。「地上」のものはすべて「空の空」だ。ここに「地」に対する「天」のあることが暗示されている。(259-260頁)

(64)-2 「教養の世界」は「天上」ならぬ「地上」(「地」)の「現実的世界」、つまり「浮き世」・「憂き世」にほかならない!Ⅰ「自己疎外的精神の世界」a「教養と現実の国」、すなわち「教養の世界」ではすべてが反対に転換して「空の空」だが、それは「教養の世界」が「現実の国」、つまり「天上」ならぬ「地上の国」だからだ!
★「教養の世界」(「現実の国」)において元素「地」は何か?(275頁)
Cf. 「地」は「風」・「水」・「火」の3つを結合し、それらの相互に作用する出来事の「場面」の役割を担当する。(259頁)
☆「教養の世界」では🈩《「国権」が「財富」、「財富」が「国権」》、そして🈔《「高貴」が「下賤」、「下賤」が「高貴」》、また🈪《「善」が「悪」、「悪」が「善」》ということになると、すべては「空の空」だ。これは「教養の世界」が「天上」ならぬ「地上」(「地」)の「現実的世界」、つまり「浮き世」・「憂き世」にほかならぬことを意味する。(259頁)

★(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」という段階はⅠ「自己疎外的精神の世界」、Ⅱ「啓蒙」、Ⅲ「絶対自由と恐怖」とに3分され、このうちⅠ「自己疎外的精神の世界」はa「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」との2つに細分される。(275-276頁)
☆これまで述べてきたのはa「教養と現実の国」(「教養の世界」)の段階だが、「教養の世界」ではすべてが反対に転換して「空の空」という感じを抱かざるをえないのは、「教養の世界」が「現実の国」、つまり「天上」ならぬ「地上の国」だからだ。(276頁)

★「4元素」のうちのひとつとしての「地」の特徴は、その他の3つの元素(「風」・「水」・「火」)の結合たるところにあるが、「風」にあたる「国権」・「高貴」・「善」と、「水」にあたる「財富」・「下賤」・「悪」とが、「火」にあたる「エスプリ」あるいは「精神」(「ガイスト」)の力によって、相互に転換し、生滅変化してやむことのない場面が「地」にあたる「現実の国」(「自己疎外的精神の世界」・「教養の世界」)だ。(276頁)
☆「この世」に生まれて誰しもが望むものは「権力」と「財富」だ。どちらを得るにも多大の犠牲を払うことを必要とするが、粒々辛苦して得てみれば、🈩《「権力」(「国権」)は「財富」、「財富」は「権力」(「国権」)》、そして🈔《「高貴」は「下賤」、「下賤」は「高貴」》、また🈪《「善」は「悪」、「悪」は「善」》だから、すべては「空の空」だ。(276頁)

《感想1》「この世」に生まれて誰しもが望むものは「権力」と「財富」だ。どちらを得るにも多大の犠牲を払うことを必要とする、とのヘーゲルor金子武蔵氏の指摘は同感だ。
《感想2》だが粒々辛苦して得てみれば、🈩《「権力」(「国権」)は「財富」、「財富」は「権力」(「国権」)》、そして🈔《「高貴」は「下賤」、「下賤」は「高貴」》、また🈪《「善」は「悪」、「悪」は「善」》だから、すべては「空の空」だとのヘーゲルor金子武蔵氏の指摘は、同意できない。
☆🈩《「権力」(「国権」)は「財富」、「財富」は「権力」(「国権」)》に転換するからといって、「権力」と「財富」どちらでも得ることができれば、しかも両者は転換するのだから、どちらかが手に入れば両方が手に入る。「権力」and/or「財富」が手に入って、「空」ということはない。
☆🈔《「高貴」は「下賤」、「下賤」は「高貴」》はいわゆる「世間体」の問題にすぎない。上層階層(「上級国民」)(「権力」と「財富」を十分にorそれなりに得た者)であれば、「高貴」か「下賤」かを問題にするのは、「贅沢な悩み」にすぎない。「この世」は、別に「空」でない。
☆🈪《「善」は「悪」、「悪」は「善」》といっても、「この世」には多くの①敵味方の対立・いがみ合い・妬み・悪意・敵意・差別・いじめ、②内集団・仲間との協力・共感・友情、さらに③利害・競争・弱肉強食・虚栄心等々が絡み合い、そもそも何が「善」か、何が「悪」か、なかなかわからない。しかしだからといって「この世」が「空」ということではない。

《感想3》ヘーゲルは「理屈」or「論理」の人だ。そして「この世」の「対立」に目が行く。(「定立」と「反定立」!)ヘーゲルはしかし「弁証法」的な「統一」を強調するのであって、「対立」・「相互転換」は「統一」の前段階であって、「対立」・「相互転換」をもって「この世」は「空の空」だと結論付ける必要はない。

《感想4》「『この世』に生まれて誰しもが望むものは『権力』と『財富』だ」とのヘーゲルor金子武蔵氏の指摘はそのとおりだ。だが「この世」で「権力」・「財富」が手に入ったら、そのような人は、「この世」で「権力」・「財富」に無縁な人から見れば、「幸福」なはずで、「この世」を「空の空」だと結論付けるヘーゲルor金子武蔵氏の指摘は、ずいぶん「贅沢」な見解だ。
Cf. 個人的には「私」は「それなり」の「権力」・「財富」を手に入れ「幸福」になりたかった。「それなり」の「権力」・「財富」を手に入れれば、普通「この世」が「空の空」などと思わない。(ただし「死」の「根本的不安」fundamental anxietyはまた別問題だ。)

Cf.   ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」
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