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宮崎学『突破者 戦後史の陰を駆け抜けた50年(上)』(1996)「2  少年鉄砲玉」(1955-1960):ファミリーに属する者にはそれぞれの役割があり、それぞれの仕事で得た金は全員にばらまく!

2023-07-02 15:49:28 | 日記
※宮崎学(ミヤザキマナブ)(1945-2022)『突破者(トッパモノ) 戦後史の陰を駆け抜けた50年(上)』(1996年、51歳)
「2  少年鉄砲玉」(1955-1960、小四-中三)
(1)1955年、私(小四)に家庭教師がついた:陸軍幼年学校を経て戦後京大法学部に入学、それと同時に日本共産党に入党した天ケ瀬!天ケ瀬はわずか10年ほどの間に「皇国」と「革命」の道に頓挫した!
A 私が小四になった1955年、私に家庭教師がついた。近所の天ケ瀬家の次男(と三男)だ。天ケ瀬家は伏見の名家で、当主は元海軍中佐で、男子3人はいずれも陸軍幼年学校に入学した。(上44頁)
A-2  私が大きな影響を受けた天ケ瀬(次男)は、陸軍幼年学校を経て戦後京大法学部に入学。それと同時に日本共産党に入党、京大の学生運動の指導的存在だった。天ケ瀬は暴力革命を志向した山村工作隊の指導者であり、この当時は困った立場に置かれていた。(上44頁)
A-3  1955年、日本共産党は山村工作隊など極左冒険主義自己批判した。かくて天ケ瀬は精神的にかなり消耗していたようで、外出することもなく自宅に引きこもっていた。天ケ瀬はわずか10年ほどの間に「皇国」と「革命」の道に頓挫し生き暮れていたのではなかったかと思う。(上44-45頁)
A-4  私はその天ケ瀬家に、毎日のように通うことになった。(上45頁)

(2)天ケ瀬はエリート中のエリートで、戦中は軍国日本を背負うつもりで軍人を志し、戦後はこれからの日本の進む道は共産主義しかないと判断して共産党に入党した!
B  この頃(小四、1955)、私は身体が急に大きくなり始めたこともあって、ヤンチャ者になりかかっていた。これまた差別されるためにろくに学校に行かない在日朝鮮人の同級生を子分のようにして悪さばかりしていた。(上45頁)
B-2  おふくろに厳しく言われ嫌々受けた天ケ瀬(家庭教師)の教えは、意外なことに面白いものだった。ある日、中学校の校庭で天ケ瀬が「大車輪」をしてみせたのを見て、私は仰天しいっぺんに天ケ瀬を尊敬するようになった。(上46-47頁)
B-2-2  天ケ瀬は、電波の話のときは(山村工作隊の)モールス通信機で電波を発信して説明してくれた。(上47頁)
B-2-3 「歴史は普通の人がつくってきたものなんや」と天ケ瀬は言った。私は「こんなおっちゃん、おばちゃんがどうして歴史をつくれるねん、信じられんわ」などといい返した。(上47-48頁)
C 天ケ瀬はエリート中のエリートだった。戦中は軍国日本を背負うつもりで軍人を志し、戦後はこれからの日本の進む道は共産主義しかないと判断して共産党に入党したに違いない。天ケ瀬には時代を自らが背負っていくという強烈な自覚があったのだろう。(上48頁)
C-2  なお私は中学に入って(1958)からも天ケ瀬に家庭教師をしてもらうが、その段階で天ケ瀬から初めてマルクス主義の手ほどきを受けることになる。(上48頁)
(2)-2 「弱い者いじめをするな」!
D  小五の時(1956)、転校生をいじめる上級生を、「弱い者いじめをするな」と引っ張り出して殴った。相手は赤たんだらけになった。
D-2  その後、おふくろは喧嘩の理由を知って、「そうか、ふーん」と言っただけで私を叱ることはなかった。(上49-50頁)

(3)親父はつねづね「男らしくしろ」と繰り返し言っていた!
E  中学は1958年、京都の私立中学校に入った。一年生の時、悪ふざけから上級生5人と、一年生4-5人が乱闘のようになった。教師の聴取に私は「全部自分がやった」と答え、私だけが退学処分になった。(上52-53頁)
E-2  親父は「友だちをかばうたんか、それはええことや」と言った。(上54頁)
E-2-2  親父はつねづね「男らしくしろ」と繰り返し言っていた。「男らしい」とは、「弱者・年少者・友だちは身体を張ってかばえ」、「強者の不当な言いがかりには絶対にひかず徹底的に闘え」、「弁解はするな」だった。(上54頁)
F  こういう退学騒動があって、私は近所の市立深草中学に転校した。ここでもよく喧嘩をやった。ただし私の場合「伏見を仕切っている寺村の息子」という看板つきだった。(上54-55頁)
F-2  この当時は「マッチョな時代」で、男らしさと身体能力を競って毎日のように喧嘩が繰り返された。(上56頁)
F-3  ただ喧嘩の場で私の立場は複雑だった。「寺村のぼんが逃げた、謝った」では組の若衆に格好の悪い思いをさせる。また無理な喧嘩をして大怪我をしたりすると「ぼんが頭割られて黙っとれるか!」と組と組員の面子にかかわる問題となり、組と組の抗争になったことも何度かあった。(上57頁)
F-4  「ヤクザの喧嘩には、たかが子供の喧嘩にも大人が出張って面子の立てあいをするという独特の道理的な一面と、子供の喧嘩さえ利用して縄張り争いを演じるという現実政治的な一面がある。」そしてその二面が混とんと混じり合っている。(上64-65頁)

(4)親父の会社(寺村組)で解体の仕事のアルバイトをする!
G 十四、五のガキの頃(中2・中3)は、働くということがとてつもなく大人っぽいことに思え、妙な憧れのようなものを抱く。それにエネルギーに溢れ、自分の身体をもて余し気味であったから、日曜日や夏休みは親父の会社(寺村組)で解体の仕事のアルバイトをすることにした。寺村組の家計のやり繰りに苦労しているおふくろを思って小遣いくらいは自分で稼ごうという気持ちも少しはあった。(上65頁)
G-2  当時の解体は、ショベルカーで闇雲にぶち壊すものではなく、建物を立てるのと全く逆の工程で丁寧に壊していく。技量と精魂を傾け、それを誇りにする職人気質がまだ残っていた。(上65頁)

(5)寺村ファミリーの論理:私は「少年鉄砲玉」の役割を果たした!
H 中二(1959、14歳)のとき、寺村組の若衆の私に対する見方を変えるちょっとした出来事があった。大阪の高級料亭で開かれた解体工事の談合の席でのことだ。私は「少年鉄砲玉」の役割を果たした。談合は、冒頭からひとしきり悶着があり、その後、ヤクザらしい業者が全員降りた。(親父との間で事前に話がついていた。)親父の脅しやすかしで堅気の業者も降りた。四国からきた業者が一人残った。(上67-69頁)
H-2  親父が小声で私に「一発、どついてこい」といった。私は「おっさん!いつまでごじゃごじゃぬかしとんじゃ、こら!」と頬をひとつ張り飛ばした。子供に叩かれ、四国の業者は意気阻喪状態になった。(他の業者たちは大半が笑い顔で眺めていた。)結局、親父の会社が談合を制した。後日、「ぼん、ようやってくれましたな」と寺村の若衆に大いに喜ばれた。私は、ファミリーの一員として初めて認知されたような気がした。(上69-70頁)
L 寺村ファミリーの論理は単純だった。「ファミリーに属する者にはそれぞれの役割があり、それぞれの仕事で得た金は全員にばらまく。」これがすべてだった。徹底した身内の論理、身贔屓の論理、内側に閉ざされた論理だ。身内内部の密度やボルテージはきわめて濃厚で高い。「負担をみんなで担い分ける」という貧者の論理がまだ残っていた。(上70-71頁)
L-2  中学時代(1958-1960)の私は、そんな「ファミリー」と「学校」の間を行ったり来たりしていた。(上71頁)

《感想1》「弱い者いじめをするな」という倫理は、今日の「自己責任」の倫理と異なる。
《感想1-2》「自己責任」は優勝劣敗、弱肉強食、社会ダーウィニズムの肯定である。「弱い者」は劣等者・無能者であり「自己責任」であるから、倫理的に助ける必要がない。
《感想2》だが「自己責任」でなく「弱い者」となることもある。生まれついた劣等・貧困・非差別等の「家柄や身分」は「自己責任」でない。(Cf. 親ガチャ!)
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