宮崎学『突破者 戦後史の陰を駆け抜けた50年(上)』(1996)「3 喧嘩と資本論」(1958-1965)(その1):「革命」とは、不条理をまるごとひっくり返すことだ!そいつをやってやろうではないか!
※宮崎学(ミヤザキマナブ)(1945-2022)『突破者(トッパモノ) 戦後史の陰を駆け抜けた50年(上)』(1996年、51歳)
「3 喧嘩と資本論」(1958-1965、中一-早大入学)(その1)
(1)私が中学に入ると(1958)、天ケ瀬は「この世の中には欠陥や矛盾が多々あること」等について語った!
A 喧嘩沙汰を繰り返すその一方で天ケ瀬の家庭教師は続いていた。1958年、中学に入ると天ケ瀬は「世の中に対する基本的な見方、考え方」を教えてくれるようになった。(上72頁)
A-2 「赤化教育」というほど顕わなものでなかったが、「この世の中には欠陥や矛盾が多々あること」、「それらをしっかり認識することがほんとうの勉強であること」、そして「その欠陥、矛盾をどう克服解消するかを自分なりに考え実行することが何よりも大切であること」等々を、天ケ瀬は語った。(上72頁)
A-3 だが私には「この世の中に大きな欠陥や矛盾がある」とも思えなかったし、「世の中を変える」とはどういうことなのかもさっぱりわからなかった。(上72頁)
A-4 中二の時(1959)、天ケ瀬にエイゼンシュタイン監督の『戦艦ポチョムキン』を観せられたこともあった。映画が終わって「面白かったか?」と天ケ瀬が訊くので「なんや、あれは。全然おもろなかった」と答えた。(上73頁)
(2) 中三の時(1960):「安保条約に反対するデモ」!
B 中三の時(1960)、天ケ瀬の誘いで、中学時代で最大の「事件」に遭遇することになった。「安保条約に反対するデモ」だ。私は、安保のことなどほとんど知らなかったし、デモに参加したこともなかった。(上74頁)
B-2 反安保ストには全国で560万人が参加したという。丸山公園には10万人程度がいた。私は「得体の知れない興奮と感動」で身体が震え続けた。「間違いなく何かが起こる」とも思った。(上74頁)
B-2-2 デモが始まると、その思いは確信に近いものになった。というのも細い路地からデモ隊が突如として現れ、行進する本隊に合流してくる。それがいつまでも続いた。「何かが起こり、何かが変わる」のは間違いないことに思えた。(上74-75頁)
(2)-2 「世の中を本気で変えようとしている人間がいること」、しかも「その数が予想外に多いこと」、この人間たちは「左翼」と一様に呼ばれていること等々を知った!それは感動的だった!
C 1952年サンフランシスコ講和条約締結後、日本の支配層はアメリカに従属しながら、朝鮮戦争(1950-1953)への加担を行いつつ、「逆コース」と呼ばれた統治の再編を進めた。破防法(1952)など治安立法の整備、警察機構の再中央集権化(1954新警察法)、地方自治や教育体制の再編(1952地方自治法改正)(1956教育委員公選制を定めた教育委員会法廃止・地方教育行政法制定)・・・・・・。(上75頁)
C-2 だが1958年頃から、「逆コース」に抵抗する運動が高揚してくる。憲法改正に反対する運動(1954-1956鳩山内閣への反対)、警職法反対運動(1958岸内閣・警職法改正断念)・・・・・。これらの一連の運動が日米安保条約改定反対に大合流してきた。私が「間違いなく何かが起る」と思ったのも無理はない。民衆の熱気が列島全体を包んでいた。(上75頁)
C-3 私は1960/6/15のデモにも参加した。その夜、樺美智子の死を知った。「警察はひどいことをするなあ」と咄嗟に思った。と同時に「天ケ瀬のいう世の中を変えるというのは、ひょっとしたら命懸けの仕事なのではないか」と思い始めた。(上75-76頁)
C-4 六〇年安保反対運動は1960/6/19の自然承認を機に急速に衰退し敗北に終わった。以後、長らく「挫折の時代」が続く。(上76頁)
C-4-2 私には挫折もヘチマもなかった。そもそも安保条約のことすら知らなかったのだから。「まったく新しい世界が急に開けたこと」にただただ興奮していた。(上76頁)
C-4-3 「世の中を本気で変えようとしている人間がいること」、しかも「その数が予想外に多いこと」、この人間たちは「左翼」と一様に呼ばれていること等々が私にはおぼろげながらわかった。それは感動的だった。(上76頁)
(3)山本宣治:親父は左翼の「反権力的な姿勢」と「心意気」に共鳴を覚えているようであった!
D 安保騒動の直後(1960、中三)、親父とデモの時の話をしていると、「左翼ちゅうのはエグイぞ」と突然親父が言い始めた。親父と左翼の人間がかかわりがある、などとつゆ思っていなかったから、これにはびっくりした。(上76-77頁)
D-2 親父が言った。「昔、この京都に山本宣治(1889-1929)(※1928年第1回普通選挙で共産党指導下の労農党から当選、日本最初の《労働者農民の味方の議員》)ちゅう左翼がおった。京都のもんは山宣と気やすう呼んで人気もあった。戦前は国会でたった一人か二人しかおらん左翼の代議士をやっておったんやが、お上にとことん楯突いたんで(※治安維持法に反対する等)、お上の手先に殺されてしもうた。(※1929暗殺される。)その山宣と若い頃に知りおうて、けっこうな付き合いをさしてもろたことがあるのや。」(上77頁)
D-3 親父は鳶で、大正時代、一〇代の時、山宣と知り合った。当時、山宣は労働農民党の京都地方責任者で、被差別部落で産児制限運動をしていた。そこに親父の鳶仲間がけっこういて、その仲間の紹介で知り合ったものらしい。(上77頁)
D-4 親父が「戦前の左翼と治安当局の激烈な闘い」を語った。「あいつらは偉いで。わしらやったら、警察に一日パクられただけでひゃ―というのに、あいつらはとことんまでいきよる。それにや、おのれには一銭にもならんことに命張りよる。わしらにはなかなか真似できんこっちゃ。」(上78頁)
D-4-2 親父は左翼の「反権力的な姿勢」とそれを貫く「心意気」に共鳴を覚えているようであった。
D-5 親父の話を聞きながら「左翼というのは、ひどく格好のいいもんだな」と私は思った。(上78頁)
(4)革命とは、不条理をまるごとひっくり返し、世の中を根こそぎひっくり返すことだ!よしっ、それなら、ひとつ、そいつをやってやろうではないか!
E 私(中三)は左翼に関する勉強を始めた。天ケ瀬だったか中学の日教組系の教師に、私でもわかる左翼文献はないかと尋ね、まずマルクス『共産党宣言』とレーニン『何をなすべきか』を読んだ。(上78頁)
E-2 「共産主義者は、自らの目的は、既存の全社会組織を暴力的に転覆することによってのみ達成できることを、公然と宣言する。・・・・プロレタリアは、この革命によって鉄鎖のほかにうしなうものはなにものもない。得るものは全世界である。・・・・」私は『共産党宣言』のこの結びのメッセージ、解放を自らの手で闘い取れというメッセージにはえらく感動した。(上79頁)
E-3 寺村組の若衆や寺村建産の鳶、職人の多くは社会の底辺の出身である。悲惨な生活ぶりに加えて、被差別部落民は就職や結婚を含め厳しい差別にさらされていた。(上79-80頁)
E-3-2 そもそも京都は古い町だけに階級・階層秩序が厳然と存在する。天皇家と縁戚関係にある公家衆、本願寺など坊主衆、茶道・華道の家元衆、西陣の織元の室町衆が上層階層を形成する。(上80頁)
E-3-3 一方で室町衆に雇われる西陣の織子などは天井裏で雑魚寝だ。寺村の関係者は最底辺の衆の集合体のような感があった。貧富の差に差別も加わり、人間は平等といいながら、その実は不条理、理不尽極まりなかった。それがまたヤクザの温床にもなっていた。(上81頁)
F 私(中三)は、マルクスやレーニンの本と出会うことによって、身のまわりの不条理を解決する道筋が唯一あって、それが革命なんだと知った。そして革命とは、不条理をまるごとひっくり返し、世の中を根こそぎひっくり返すことだ。よしっ、それなら、ひとつ、そいつをやってやろうではないかと私は思った。(上82頁)
G その後の中学生活は喧嘩とマルクス主義の二頭立てになった。中学の最終学年はバットとマルクスで過ぎた。(上82頁)
《感想》だが「革命」は、例えばロシア革命は結局、独裁制or専制主義、密告制、秘密警察による支配という陰惨な体制になった。さらに中国革命も今や(AIも利用しつつ)同様だ。「革命」は新たな不条理、理不尽を生むだけだ。歴史は意図を裏切る。
「3 喧嘩と資本論」(1958-1965、中一-早大入学)(その1)
(1)私が中学に入ると(1958)、天ケ瀬は「この世の中には欠陥や矛盾が多々あること」等について語った!
A 喧嘩沙汰を繰り返すその一方で天ケ瀬の家庭教師は続いていた。1958年、中学に入ると天ケ瀬は「世の中に対する基本的な見方、考え方」を教えてくれるようになった。(上72頁)
A-2 「赤化教育」というほど顕わなものでなかったが、「この世の中には欠陥や矛盾が多々あること」、「それらをしっかり認識することがほんとうの勉強であること」、そして「その欠陥、矛盾をどう克服解消するかを自分なりに考え実行することが何よりも大切であること」等々を、天ケ瀬は語った。(上72頁)
A-3 だが私には「この世の中に大きな欠陥や矛盾がある」とも思えなかったし、「世の中を変える」とはどういうことなのかもさっぱりわからなかった。(上72頁)
A-4 中二の時(1959)、天ケ瀬にエイゼンシュタイン監督の『戦艦ポチョムキン』を観せられたこともあった。映画が終わって「面白かったか?」と天ケ瀬が訊くので「なんや、あれは。全然おもろなかった」と答えた。(上73頁)
(2) 中三の時(1960):「安保条約に反対するデモ」!
B 中三の時(1960)、天ケ瀬の誘いで、中学時代で最大の「事件」に遭遇することになった。「安保条約に反対するデモ」だ。私は、安保のことなどほとんど知らなかったし、デモに参加したこともなかった。(上74頁)
B-2 反安保ストには全国で560万人が参加したという。丸山公園には10万人程度がいた。私は「得体の知れない興奮と感動」で身体が震え続けた。「間違いなく何かが起こる」とも思った。(上74頁)
B-2-2 デモが始まると、その思いは確信に近いものになった。というのも細い路地からデモ隊が突如として現れ、行進する本隊に合流してくる。それがいつまでも続いた。「何かが起こり、何かが変わる」のは間違いないことに思えた。(上74-75頁)
(2)-2 「世の中を本気で変えようとしている人間がいること」、しかも「その数が予想外に多いこと」、この人間たちは「左翼」と一様に呼ばれていること等々を知った!それは感動的だった!
C 1952年サンフランシスコ講和条約締結後、日本の支配層はアメリカに従属しながら、朝鮮戦争(1950-1953)への加担を行いつつ、「逆コース」と呼ばれた統治の再編を進めた。破防法(1952)など治安立法の整備、警察機構の再中央集権化(1954新警察法)、地方自治や教育体制の再編(1952地方自治法改正)(1956教育委員公選制を定めた教育委員会法廃止・地方教育行政法制定)・・・・・・。(上75頁)
C-2 だが1958年頃から、「逆コース」に抵抗する運動が高揚してくる。憲法改正に反対する運動(1954-1956鳩山内閣への反対)、警職法反対運動(1958岸内閣・警職法改正断念)・・・・・。これらの一連の運動が日米安保条約改定反対に大合流してきた。私が「間違いなく何かが起る」と思ったのも無理はない。民衆の熱気が列島全体を包んでいた。(上75頁)
C-3 私は1960/6/15のデモにも参加した。その夜、樺美智子の死を知った。「警察はひどいことをするなあ」と咄嗟に思った。と同時に「天ケ瀬のいう世の中を変えるというのは、ひょっとしたら命懸けの仕事なのではないか」と思い始めた。(上75-76頁)
C-4 六〇年安保反対運動は1960/6/19の自然承認を機に急速に衰退し敗北に終わった。以後、長らく「挫折の時代」が続く。(上76頁)
C-4-2 私には挫折もヘチマもなかった。そもそも安保条約のことすら知らなかったのだから。「まったく新しい世界が急に開けたこと」にただただ興奮していた。(上76頁)
C-4-3 「世の中を本気で変えようとしている人間がいること」、しかも「その数が予想外に多いこと」、この人間たちは「左翼」と一様に呼ばれていること等々が私にはおぼろげながらわかった。それは感動的だった。(上76頁)
(3)山本宣治:親父は左翼の「反権力的な姿勢」と「心意気」に共鳴を覚えているようであった!
D 安保騒動の直後(1960、中三)、親父とデモの時の話をしていると、「左翼ちゅうのはエグイぞ」と突然親父が言い始めた。親父と左翼の人間がかかわりがある、などとつゆ思っていなかったから、これにはびっくりした。(上76-77頁)
D-2 親父が言った。「昔、この京都に山本宣治(1889-1929)(※1928年第1回普通選挙で共産党指導下の労農党から当選、日本最初の《労働者農民の味方の議員》)ちゅう左翼がおった。京都のもんは山宣と気やすう呼んで人気もあった。戦前は国会でたった一人か二人しかおらん左翼の代議士をやっておったんやが、お上にとことん楯突いたんで(※治安維持法に反対する等)、お上の手先に殺されてしもうた。(※1929暗殺される。)その山宣と若い頃に知りおうて、けっこうな付き合いをさしてもろたことがあるのや。」(上77頁)
D-3 親父は鳶で、大正時代、一〇代の時、山宣と知り合った。当時、山宣は労働農民党の京都地方責任者で、被差別部落で産児制限運動をしていた。そこに親父の鳶仲間がけっこういて、その仲間の紹介で知り合ったものらしい。(上77頁)
D-4 親父が「戦前の左翼と治安当局の激烈な闘い」を語った。「あいつらは偉いで。わしらやったら、警察に一日パクられただけでひゃ―というのに、あいつらはとことんまでいきよる。それにや、おのれには一銭にもならんことに命張りよる。わしらにはなかなか真似できんこっちゃ。」(上78頁)
D-4-2 親父は左翼の「反権力的な姿勢」とそれを貫く「心意気」に共鳴を覚えているようであった。
D-5 親父の話を聞きながら「左翼というのは、ひどく格好のいいもんだな」と私は思った。(上78頁)
(4)革命とは、不条理をまるごとひっくり返し、世の中を根こそぎひっくり返すことだ!よしっ、それなら、ひとつ、そいつをやってやろうではないか!
E 私(中三)は左翼に関する勉強を始めた。天ケ瀬だったか中学の日教組系の教師に、私でもわかる左翼文献はないかと尋ね、まずマルクス『共産党宣言』とレーニン『何をなすべきか』を読んだ。(上78頁)
E-2 「共産主義者は、自らの目的は、既存の全社会組織を暴力的に転覆することによってのみ達成できることを、公然と宣言する。・・・・プロレタリアは、この革命によって鉄鎖のほかにうしなうものはなにものもない。得るものは全世界である。・・・・」私は『共産党宣言』のこの結びのメッセージ、解放を自らの手で闘い取れというメッセージにはえらく感動した。(上79頁)
E-3 寺村組の若衆や寺村建産の鳶、職人の多くは社会の底辺の出身である。悲惨な生活ぶりに加えて、被差別部落民は就職や結婚を含め厳しい差別にさらされていた。(上79-80頁)
E-3-2 そもそも京都は古い町だけに階級・階層秩序が厳然と存在する。天皇家と縁戚関係にある公家衆、本願寺など坊主衆、茶道・華道の家元衆、西陣の織元の室町衆が上層階層を形成する。(上80頁)
E-3-3 一方で室町衆に雇われる西陣の織子などは天井裏で雑魚寝だ。寺村の関係者は最底辺の衆の集合体のような感があった。貧富の差に差別も加わり、人間は平等といいながら、その実は不条理、理不尽極まりなかった。それがまたヤクザの温床にもなっていた。(上81頁)
F 私(中三)は、マルクスやレーニンの本と出会うことによって、身のまわりの不条理を解決する道筋が唯一あって、それが革命なんだと知った。そして革命とは、不条理をまるごとひっくり返し、世の中を根こそぎひっくり返すことだ。よしっ、それなら、ひとつ、そいつをやってやろうではないかと私は思った。(上82頁)
G その後の中学生活は喧嘩とマルクス主義の二頭立てになった。中学の最終学年はバットとマルクスで過ぎた。(上82頁)
《感想》だが「革命」は、例えばロシア革命は結局、独裁制or専制主義、密告制、秘密警察による支配という陰惨な体制になった。さらに中国革命も今や(AIも利用しつつ)同様だ。「革命」は新たな不条理、理不尽を生むだけだ。歴史は意図を裏切る。