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江國香織(1964-)「清水夫妻」(2001年、37歳):「葬式」が営まれることがすでに、死者の生に敬意を示すことであり、その生に《価値があった》として「荘厳さ」を授与することだ!

2020-05-04 12:32:51 | 日記
(1)
清水夫妻は三十代後半か四十くらい。しまうまのぬいぐるみを持っていつも出かける。彼らは立派な邸に住んでいる。彼らはリッチな遺産生活者で子供もない。清水氏は無職で、夫人は彫刻家。彼らは優雅だが奇妙だ。趣味がお葬式への出席だ。お葬式の後は鰻屋へ行く。そしてお酒を飲む。
(1)-2
「私」は思う。お葬式では、すべてが解放される。「愛された人」も、「愛されなかった人」も、「成功した人」も、「途中で失敗した人」も、「みんなが知っていること」も、「秘められたままのこと」も、すべてがそこで「解放される」。
(1)-3
清水夫妻は「人の一生についての考え方」が似てたので結婚した。女は「男の筋肉に惚れる」ので清水氏はタイプでない。男は「はかない風情の女」が好みなので清水夫人では全然だめだ。
(2)
武信と「私」は学生時代に恋人同士だった→卒業後別れる→一方で、武信に女ができやがて別れ、他方で「私」に男ができやがて別れた→そのあいだも武信と「私」は仲のいい友達同士、今も友達同士→一方で今、「私」に好きな男がいる(やがて求婚されるが私は断り喧嘩別れする)、他方で今、武信に女がいる。
(3)
「私」も、全く知らない人の葬式に清水夫妻と一緒に出席するようになる。「私」も葬式への出席が趣味になる。葬式は「私を穏やかさでみたす」。「私」は葬式に「荘厳さ、生をまっとうした、というあかるい清潔さのようなもの」を感じる。

《感想1》「全く知らない人の葬式に出席する」場合、個人的な悲しみと無縁だ。かくて死の必然性を担った《人間の生の意味》が問われる。「私」は、オポチュニストの立場で、生の終わり(葬式)について「荘厳さ、生をまっとうした、というあかるい清潔さのようなもの」があると総括する。
《感想1-2》葬式の「荘厳さ」とは《生きたことに価値があった》と評価することだ。死者は、(不幸だったにせよ)精一杯生きたと、その生に「荘厳さ」が与えられる。《全くの無価値者》の死、《地獄に落ちるべき者》の死を「私」は想定しない。例えば《全く下劣・卑劣な者》の死、《犬死》、《裏切り者・悪魔》の死、《生まれてこないほうが良かった者》の死、《独裁者》の死などを、「私」は考えない。彼らは《許されない死者》だ。「私」は《死者は許される》と思っている。つまり「私」は、オポチュニストだ。
《感想1-3》「葬式」が営まれることがすでに、生きる者が《死者への敬意》を示すことそのものだ。死者を冒涜する「葬式」はない。「葬式」において、死者の生は《価値があった》とされ「荘厳さ」を授与される。
《感想1-4》行き倒れであれ戦死者であれ《弔われる》(=「葬式」が営まれる)ことがすでに、死者の生に敬意を示すことであり、その生に《価値があった》として「荘厳さ」を授与することだ。
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