DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」(その6):「自己疎外」ゆえに「ガイスト」or「エスプリ」or「教養」が養われる!

2024-08-10 13:18:24 | 日記
(62)対立③「高貴なる意識」(「素直な態度」)と「下賤なる意識」(「あまのじゃく的な態度」)との対立にも「疎外」がある! 
★「教養の世界」(つまり(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」a「教養と現実の国」)には、①「国権」と「財富」との対立、②「善」と「悪」との対立、③「高貴なる意識」(「素直な態度」)と「下賤なる意識」(「あまのじゃく的な態度」)と3つの対立がある。(265頁)
★このうち③「高貴なる意識」と「下賤なる意識」との対立は、「貴族」と「町人」の対立だ。これは「教養の世界」(※「ローマ帝国」?・「中世」・「近世」・「啓蒙」・「フランス革命」・「ドイツロマン主義」の時代)のもので、「古代社会」にはなかった。(265-266頁)
☆初めの2つの対立(①「国権」と「財富」との対立、②「善」と「悪」との対立)と同じく、第3の対立すなわち③「高貴なる意識」(「素直な態度」)と「下賤なる意識」(「あまのじゃく的な態度」)との対立にも「疎外」があり、「高貴」が「下賤」、「下賤」が「高貴」となる。なぜか?(266頁)

★「国権」に対し「主体」が自分の「即自存在」を規準としてそれをよし(「善」)とし、「財富」に対して自分の「対他存在」を規準としてやはりよし(「善」)とするのが「高貴な意識」だ。これと逆のことをやるのが「下賤な意識」だ。つまり「国権」に対し「主体」が自分の「対他存在」を規準としてそれを「悪」とし、「財富」に対して自分の「即自存在」を規準としてやはり「悪」とするのが「下賤な意識」だ。(266頁)

《参考1》(あ)「素直な態度」or「高貴なる意識」:《「国権」は「善」、「財富」は「善」》と「判断」する!(い)「あまのじゃく的な態度」or「下賤なる意識」:《「国権」は「悪」、「財富」は「悪」》と「判断」する!
☆「客体」に関係する「主体」の態度、即ち「判断」には2種類ある。(265頁)
☆一つは(あ)「素直な態度」or「高貴なる意識」だ。これは「客体的に即自的なもの」を「自分の即自的なもの」に照らして「善」と判断し、「対他的なもの」を「自分の対他的なもの」に照らして「善」と「判断」する態度だ。これはいつも「対象」と「自己」との「同一性」を見いだそうとする「素直な態度」だ。ヘーゲルはこれを「高貴なる意識」と呼ぶ。《「国権」は「善」、「財富」は「善」》と「判断」する。(265頁)
☆しかしもう一つ(い)「あまのじゃく的な態度」or「下賤なる意識」がある。すなわち「国権」に対する時には、自分の「対他存在」を規準として、「国権」なんていうものは、「おのれの生活を束縛し幸福を制限する」ものだから「悪」だとし、そして「財富」に対しては自分の「即自存在」を規準として「そんな我執我欲の産物はゴメンだ」と「悪」と判断する。《「国権」は「悪」、「財富」は「悪」》と「判断」する態度だ。(265頁)
☆要するに「客体」に関係する「主体」の態度、即ち「判断」には2種類ある。一つは(あ)「素直な態度」or「高貴なる意識」で、「対象」と「自分」の間にいつも「同一性」を見いだす「態度」(「判断」)だ。もう一つは(い)「あまのじゃく的な態度」or「下賤なる意識」で「対象」と「自分」の間にいつも「不同性」ばかりを見いだしケチをつける「態度」(「判断」)だ。(265頁)

★しかし「主体」自身が「即自」と「対他」との両側面をもっており、したがって「主体」は反対の規準を取ることもできる。(266頁)
☆「高貴な意識」(「素直な態度」)だけが「誠実」であるとは限らず、「下賤な意識」(「あまのじゃく的な態度」)もやはり同様(※「誠実」)だ。(266頁)
☆かくて「下賤な意識」も「高貴な意識」に、「高貴な意識」も「下賤な意識」に転換する。(266頁)
☆これはちょうど「『奴の意識』がかえって『主の意識』である」、また「『事そのもの』についての『誠実』が同時に『欺瞞』である」のと同様だ。(266頁)

《参考2》「奴」が「権力のおそろしさのため主を尊敬している」といっても、「尊敬するかしないか」はやはり「奴」の自由だ。したがって「主」は「独立的のもので、なにものにも依存していない」ようであっても、じつは「主」は「『奴』に依存」して、「『主』たることを『奴』に承認してもらっている」。「主人として承認するや否や」は、けっきょくは「奴の自由意志」によっている。この点からいうと、「奴よりむしろ主の方が奴隷的である」、つまり「主」は「奴の奴隷的であるよりさらに奴隷的である」といえる。(140頁)
☆このことを理論的にいうと、「主人」は「精神的無限性ないし普遍性」を実現し、「奴」は「欲望」にとらわれて「個別性」にとどまっている。ところがじつは「主人」も支配される方の「奴」の「個別性」に依存している。(141頁)
☆要するに「奴が主に依存する」と同様に、「主もかえって奴に依存している」。いいかえると「主は奴になり、奴は主になる」。(141頁)

《参考3》ところで、(C)(AA)「理性」C「社会」の最初の段階の「精神的動物の国」における「事」(「仕事」)が、「知覚」に対する「物」にあたるのと同じように、「事」(「仕事」)における「誠実」は、「知覚」(Wahr-nehmung)が「真理を掴むもの」(Wahr-Nehmundes)であることに相応する。しかしまた「知覚」が同時に「錯覚」であったのと同様に「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」(「誠実なる意識」)は、同時に「欺瞞」である。(208頁)
《参考3-2》「事」(「仕事」)の遂行にあたっての「誠実」(「誠実なる意識」)は、同時に「欺瞞」である。すなわち「仕事」(「事」)という言葉で「誠実」で「客観的・普遍的・公共的」な成果だけが意味されているかと思うと、実はそうではなく例えば「単なる自己満足としての主観的活動」であってもいいし、「他人にキッカケを与えるだけのもの」でもいいし、また自分の「優越欲」を満足させたり、自分の「寛大さ」を他人に「見せびらかす」という「主観的動機」を含んだものでもあるのだから、「ゴマカシ」のあることは明らかだ。(211頁)

(62)-2 「教養の世界」は徹底的に「自己疎外的」だ!①《「国権」が「財富」に、「財富」が「国権」に》、②《「善」が「悪」に、「悪」が「善」に》、③《「高貴」が「下賤」に、「下賤」が「高貴」に》転換し、「疎外」する世界!
★かくて当面の世界、即ち「教養の世界」は徹底的に「自己疎外的」だ。(「自己疎外的精神の世界」!)
☆「教養の世界」は、①《「国権」が「財富」に、「財富」が「国権」に》、②《「善」が「悪」に、「悪」が「善」に》、③《「高貴」が「下賤」に、「下賤」が「高貴」に》転換し、「疎外」する世界だ。(266頁)
☆そうして「対立するものを統一づけるもの」が、はっきりと出てきておればよいが、それはまだ出ていないで、ただいたずらに「一方が他方に転換する」だけだ。だからこの「教養の世界」の人間は「自己疎外の苦悩」をなめざるをえない。(266頁)

(62)-3 「自己疎外」(①②③)ゆえに、「ガイスト」Geist(「エスプリ」esprit)すなわち「教養」が養われ、「絶対に対立するもの」が「一つになる」!「疎外」を表現したものという見地から、ヘーゲルはディドロの作品『ラモウの甥』を活用している!
★しかしこういう極端な「分裂」(「教養の世界」の「自己疎外」①②③)を通じて「絶対に対立するもの」が「一つになる」ところにこそ、ヘーゲル独自の「ガイスト」Geist が躍動してくる。(266頁)
☆「ガイスト」Geistは、フランス語の「エスプリ」espritに近いものだ。(266頁)
☆「エスプリ」espritとは、「ちょっと普通では関係のつかないような二つのもの」の間に「奇想天外な関係」を見つけるような能力のことだ。だから「エスプリ」に富んでいるのは、「気がきいている」ことであって、悪くすると「駄じゃれを弄する」ことにもなる。(266-267頁)
☆ヘーゲルは「エスプリ」espritの「よい点」を生かし、かくて「自己疎外」(①②③)こそが、人間に「エスプリ」espritすなわち「ガイスト」Geistを養い、「教養」を与えると言う。

★(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」における「教養の世界」において、「自己疎外」(①②③)が「エスプリ」espritすなわち「ガイスト」Geistを養い、「教養」を与えるとヘーゲルが言う時、この「『教養』の段階」でヘーゲルは、ディドロ(1713-1784)の『ラモウの甥』(1762執筆、1823刊行)を材料として使う。(267頁)
☆いったいヘーゲル『精神現象学』のいろんな段階は、ヘーゲル自身の「体験」によって、またこれと絡んで「直観的な文学作品」によってうらづけられている。(267頁)
☆ヘーゲルは「『快楽』の段階」には、ゲーテの『ファウスト』におけるグレーテヘンの物語、「『人倫』の段階」にはソフォクレスの悲劇『アンチゴネ』が材料となっていた。(267頁)

《参考4》 (C)(AA)「理性」B「理性的自己意識の自己自身による実現」(「行為」)a「快楽(ケラク)と必然性(サダメ)」:「子供」が生まれると、「家族や社会や国家」の一員としての「義務」が「運命の必然性(サダメ)」と感じられる!
☆「愛欲」に身を委ねるとき、多くの場合、「子供」が生まれる。(Ex. ファウストとグレートヘンの間、Ex. ヘーゲルとフィッシャーの間。)子供が生まれると、さまざまの絆にほだされ身動きが出来なくなる、これをヘーゲルは「必然性(サダメ)」と呼ぶ。「快楽(ケラク)」に身を委ねる者は、自分自身の「満足」だけを、自分の「個別性」を満足することを求める。自分の「個別性」が一切であるという気持ちから「快楽(ケラク)」に身を委ねる。だが「子供」が生まれ、育てたり教育したりしなければならなくなると、自分の「個別性」も、「家族や社会や国家」との強いつながりのうちにあることがわかる。「家族の一員」としての、「社会の一員」としての「義務」が「運命の必然性(サダメ)」と感じられる。かくて「快楽(ケラク)と必然性(サダメ)」という題がこの段階につけられている。(197頁)
☆ここでヘーゲルは、ここに「『個別性』も、『特殊性』を通じてさらに『普遍性』にいたる運動」、あるいは「『量』の範疇」であれば「『単一性』が『数多性』を通じて『総体性』に向かっていくという運動」の成立していることを強調する。「快楽(ケラク)」に身を委ねた者も、そういう「理法の動き」を認めざるをえず、「『単一性』(『個別性』)といっても、じつは『総体性』(『普遍性』)を根拠としてのみ成り立っている」ことをひしひしと感ぜざるをえない。この意味で「必然性(サダメ)」があるのだ。(197-198頁)

《参考5》(BB)「精神」A「真実なる精神、人倫」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」において、ヘーゲルはソフォクレスの悲劇『アンティゴネ』を取り上げる。テーベの王女アンティゴネは「家族」の情愛から兄ポリュネイケスの死骸を葬ったが、叔父のクレオンはテーベの町の支配者(テーベ王)であるという「国家」の立場から、侵入者たるポリュネイケスの死骸を葬ることを禁じていたので、アンティゴネを処刑しようとした。アンティゴネの「行為」は「家族」の「情愛」からするものであり「神々のおきて」に従うものだ。これにたいしてクレオンの「行為」は「国家」統治者の見地からするものであり「人間のおきて」に従うものだ。いずれも「人倫的」行為であるのに、それらの「義務」が対立抗争する。(242頁)
☆「心情」のうちで美しい「調和」をなしていた「家族」と「国家」も、「実際上の行為」となると「対立」(「矛盾」)を露骨にあらわしてくる。(242頁)
☆ところでクレオンとアンティゴネはどちらが正しいかというと、いずれも「是」にして「非」であり、したがって「罪責」をまぬがれず、両者共に滅んでいく。アンティゴネは洞窟のうちで自殺するし、クレオンも死ぬのも同然の「運命」にある。アンティゴネが死んだために、その婚約者のクレオンの一人息子ハイモンは自刃し、息子の死を悲しんで奥さんも死んでしまう。かくしてアンティゴネもクレオンも「人知」を越える「神知」によって「運命」の深淵の中に没落してゆく。(242頁)
☆ここにAb「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」と題されるゆえんがある。(242頁)

《参考6》ディドロ(1713-1784)『ラモウの甥』(1762執筆、1823刊行):ディドロの対話体の小説。ある春の日の午後、哲学者の〈私〉(ディドロ)は,以前からの知合いである〈彼〉(作曲家ラモーの甥)、すなわち〈私たちの教育や慣習や作法が導き入れたあの退屈な単調さをぶちこわす〉奇人たちの一人から、たまたま声をかけられる。この時から5時半の晩禱の鐘がなり、〈彼〉が席を立って行くまでの数時間、2人の間で交わされた対話と、この対話をめぐる作者ディドロ自身のト書き的な説明・意見などが、この作品の内容をなす。〈ラモーの甥〉は、体制からはみ出しながら体制に寄食するシニックな偽悪者とされ、哲学者である〈私〉との対話を通して旧体制のフランス社会を痛烈に批判する。生前は発表されず1805年ゲーテのドイツ語訳によって、俄然反響を呼んだ。〈フランス文学のまっただなかに爆弾のように炸裂している〉とゲーテが評した。
☆『ラモーの甥』はディドロの死後20年も経ってから、ゲーテがドイツ語に翻訳して初めて発表された。ラモーの甥が、カフェで哲学者である「私」と会話するという設定。会話のテーマは、当時の哲学や芸術に関する話題だが、当時の有名人への批判や風刺がてんこ盛り。(ただし今読むとわかりにくい部分が多々ある。)ゲーテの「ファウスト」におけるファウストとメフィストフェレスの関係が、本書の哲学者(ディドロ)と〈ラモーの甥〉の関係にあたるとの指摘がある。Cf. 無作法者、無学者、怠け者、穀つぶし、道化野郎、とんま野郎の〈ラモーの甥〉。そんな〈ラモーの甥〉の脱線混じりの人をくった語り。

★この「『教養』の段階」((BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」)でヘーゲルは、ディドロの『ラモウの甥』(1762執筆、1823刊行)を材料として使うが、ゲーテ(1749-1832)は『ラモウの甥』が偉大なる傑作であることを看破して、1805年に独訳したが、それをいち早く受け入れたのがヘーゲル(1770-1831)だった。(267頁)
☆この作品の主人公〈作曲家ラモーの甥〉は「権力者」をも「金持ち」をもいずれをも「憎みのろい」ながら、またいずれにも「阿諛(アユ)」を呈するのだが、つまりヘーゲルに言わせれば、①《「国権」は「財富」、「財富」は「国権」》、②《「善」は「悪」、「悪」は「善」》、③《「高貴」は「下賤」、「下賤」は「高貴」》という態度をとるのだが、この「一見錯乱した狂人めいた態度」も決して軽蔑すべきではなく、むしろ「エスプリ」esprit(「ガイスト」Geist)に富んだものであるとヘーゲルは考えて、積極的意義を認めている。(267頁)
☆つまり「人間精神」の発展上、重要な一つの段階である「疎外」を表現したものという見地から、ヘーゲルはこのディドロの作品『ラモウの甥』を活用している。(267-268頁)

Cf.   ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする