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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」(その7):「行為的媒介」(例「奉公」)により「高貴なる意識」は「現実化」する!

2024-08-12 17:01:34 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」(その7)(268-270頁)      
(63)「教養の世界」の「実体」の「地」・「水」・「火」・「風」の4元素のうち、「エスプリ」に富んだ「態度」あるいは「精神的判断」は「火」にあたる! 
★「教養の世界」((BB)「精神」BⅠ「自己疎外的精神の世界」a「教養と現実の国」)に入った時、「人間を知らず知らずのうちに動かしている」という理由で、その「実体」について述べた。(268頁)
☆「実体」は「直接的自然的」なものだという理由で、ヘーゲルは「実体」の構造を「自然界」の「地」・「水」・「火」・「風」の4元素になぞらえて考えた。(268頁)
☆この比喩によれば「国権」は「風」、「財富」は「水」だ。(268頁)
★そして先に述べた「エスプリ」に富んだ「態度」あるいは「精神的判断」は「火」にあたる。なぜなら「火」とは、「水」と「風」という互いにちがったものを活気づけて結合づけたり、また分離したりして自然界を生き生きしたものにするからだ。(268頁)

《参考》ヘーゲルは、「実体」(※「反省」以前の全体)が「自然的直接的」であるという理由で、「自然界」の「地」・「水」・「火」・「風」の4元素になぞらえて「実体」の構造を説明する。(259頁)
☆「風」は、「いかなるところへも浸透」し、「どこでも自己同一性を保っている」ので、「風」の特徴は「普遍性」に、「即自存在」にある。(259頁)
☆これに対して「水」は「いかようにも形成」され、いつも「自分自身とちがった他のものになる」ので、「水」の特徴は「個別性」に、「対他存在」にある。(259頁)
☆「風」と「水」との2つが「相反する」元素であって、「相互に他に転換する」ところに「自然界」は成立する。(259頁)
☆しかし「相反したものを互いに他に転換する」には、「それぞれを活気づけるもの」が必要だが、これが「火」という元素だ。「水」を熱せれば「風」となり、風を冷やせば「水」となるというわけだ。(259頁)
☆そうして「風」・「水」・「火」の3つを結合し、それらの相互に作用する出来事の「場面」の役割を担当するのが「地」だ。(259頁)
☆かくて「自然界」したがって「実体」(※「反省」以前の全体)は「地」・「水」・「火」・「風」の四元素によってなっている。が「自然界」がなににおいて成立しているかというと、けっきょくは「地」においてというほかない。この「地」において、「風」と「水」とが「火」に媒介されて、互いに他に転換し去る。その点からすれば、いずれもあれども無きがごときものだ。「地上」のものはすべて「空の空」だ。ここに「地」に対する「天」のあることが暗示されている。(259-260頁)

(63)-2 「態度」(「高貴な意識」・「下賤な意識」)が「観念的」にでなく、「現実的」に実現されるのでなくては、「実体」の「自覚」、したがってまたその「主体化」は不可能だ!かくて「判断」の立場から「推理」の立場に移ることが必要だ!「推理」には「媒語」があって、これによって「主語」と「述語」との結合が一層「現実的」となる!
★さて「国権」につても「財富」ついても「同一」を見いだすのが「高貴な意識」(「素直な態度」)だ。(《「国権」は「善」、「財富」は「善」》と「判断」する。その反対に《「国権」は「悪」、「財富」は「悪」》と「判断」するのが「下賤な意識」(「あまのじゃく的な態度」)だ。(268頁)

《参考》(あ)「素直な態度」or「高貴なる意識」:《「国権」は「善」、「財富」は「善」》と「判断」する!(い)「あまのじゃく的な態度」or「下賤なる意識」:《「国権」は「悪」、「財富」は「悪」》と「判断」する!
☆「客体」に関係する「主体」の態度、即ち「判断」には2種類ある。(265頁)
☆一つは(あ)「素直な態度」or「高貴なる意識」だ。これは「客体的に即自的なもの」を「自分の即自的なもの」に照らして「善」と判断し、「対他的なもの」を「自分の対他的なもの」に照らして「善」と「判断」する態度だ。これはいつも「対象」と「自己」との「同一性」を見いだそうとする「素直な態度」だ。ヘーゲルはこれを「高貴なる意識」と呼ぶ。《「国権」は「善」、「財富」は「善」》と「判断」する。(265頁)
☆しかしもう一つ(い)「あまのじゃく的な態度」or「下賤なる意識」がある。すなわち「国権」に対する時には、自分の「対他存在」を規準として、「国権」なんていうものは、「おのれの生活を束縛し幸福を制限する」ものだから「悪」だとし、そして「財富」に対しては自分の「即自存在」を規準として「そんな我執我欲の産物はゴメンだ」と「悪」と判断する。《「国権」は「悪」、「財富」は「悪」》と「判断」する態度だ。(265頁)
☆要するに「客体」に関係する「主体」の態度、即ち「判断」には2種類ある。一つは(あ)「素直な態度」or「高貴なる意識」で、「対象」と「自分」の間にいつも「同一性」を見いだす「態度」(「判断」)だ。もう一つは(い)「あまのじゃく的な態度」or「下賤なる意識」で「対象」と「自分」の間にいつも「不同性」ばかりを見いだしケチをつける「態度」(「判断」)だ。(265頁)

★こうした「態度」(Ex. 「高貴な意識」)がただ「観念的」にでなく、もっと「現実的」に実現されるのでなくては、「実体」の「自覚」、したがってまたその「主体化」は不可能だ。(268頁)
★かくて「判断」の立場から一歩進んで「推理」の立場に移ることが必要だ。(268頁)

☆というのは「推理」には「媒語」(中項、媒辞)があって、これによって「主語」と「述語」との結合が一層「現実的」となるからだ。(268頁)

《参考》「媒語」(中項、媒辞)は三段論法的「推論」において、小前提と大前提を結合・媒介し結論を導出する中間項または媒概念だ。ただしヘーゲルにおいては「論理的なもの」は、たんなる「主観的な思考活動」でなく、「主観・客観を貫通する理性的な構造形式」だ。したがって「推論」における「媒語」(中項、媒辞)も、「個別」と「普遍」との中間にあって両者を連結し関係させる「実在的な媒介の働き」そのものだ。(『ヘーゲル事典』弘文堂)

(63)-2-2 「推理」には「媒語」があって、これによって「主語」と「述語」との結合が一層「現実的」となる:「高貴なる意識」は無造作に《「国権」は「善」》と「判断」するわけには行かず、そうするにはそれだけの「媒介」が必要だ!
★「推理」には「媒語」があって、これによって「主語」と「述語」との結合が一層「現実的」となるという点について、当面の事柄、すなわち「高貴な意識」(「素直な態度」)と「下賤な意識」(「あまのじゃく的な態度」)に即して詳しく見よう。(268頁) 
☆「高貴なる意識」は、「国権」について自分の「即自存在」を「判断」の規準とし、これに合致するという理由で「国権」を「善」と「判断」し、「財富」については自分の「対他存在」を規準とし、「財富」を「善」と「判断」する。「高貴なる意識」(「素直な態度」)は《「国権」は「善」、「財富」は「善」》と「判断」する!(268-269頁)
☆しかし《「国権」は「善」》と「判断」するときにも、「主体」には「自体的普遍的」側面のほかに、「対他的個別的」側面もそなわっているから、ただ無造作に「国権」を「善」とするわけには行かず、そうするにはそれだけの「媒介」が必要だ。(269頁)
☆ただし「媒介」には「行為における媒介」と「言葉における媒介」の2つがある。(269頁)

(63)-2-3「高貴なる意識」が《「国権」は「善」》と「判断」する場合の「行為的媒介」(「行為による媒介」)!「奉公」という「行為的媒介」があってこそ、「高貴なる意識」は、「現実化」する!「実体が『主体化』された」ときには、「時代が要求する新しい社会」が形成される!「乱暴狼藉のほしいままにされた暗黒時代」にあっても、「実体」に動かされて徐々に「新たなる社会秩序」として「封建制度」が形成されていく!
★「高貴なる意識」が《「国権」は「善」》と「判断」する場合の「行為的媒介」(「行為による媒介」)について述べよう。(269頁)
☆さて「高貴なる意識」が「自体的普遍的」側面(「普遍的自体性」)に基づいて《「国権」は「善」》と「判断」するときには、ただ「観念的」に「判断」するだけでなく、さらにそれを「実行」に移さなくてはならない。けだし「意識」には「個別的対他性」もあり、これが否定される必要があるからだ。(269頁)
☆この場合の「実行」は「奉公」だ。(269頁)
☆「奉公」という「行為的媒介」があってこそ、「高貴なる意識」(《「国権」は「善」》と「判断」する)は、「現実化」する。「奉公」は、一方から言えば「『実体』が『個人』を背後から動かし『実行』させている」のだが、他方から言えば「奉公」は、「『実体』を『現実化』する」。(269頁)
☆「国権」が「現実に成立」しうるのは、この「奉公」があって初めて可能だ。(269頁)

★ところで「『実体』を『現実化』する」ことは、「『もとの実体』にかえる」ことではない。「実体化される以前の実体」と「『主体化』された実体」とはちがう。(269頁)
☆「実体が『主体化』された」ときには、「時代が要求する新しい社会」が形成されている。(269頁)

★具体的に言えば「乱暴狼藉のほしいままにされた暗黒時代」にあっても、「実体」に動かされて徐々に「新たなる社会秩序」として「封建制度」が形成されていく。(269頁)
☆ここで「奉公」とは、具体的には「貴族の奉公」であり、「一旦緩急あれば家の子郎党ひきいて馳せ参ずる」とか、「道路や運河の開発、築城・委寺院の建立などに対して経費を負担」し、また「手下をして賦役に応じさせる」とかいうように「公に奉じる」ことだ。(269頁)
☆こういうことがあって初めて「高貴なる意識」も、いな「国権」そのものも「現実化」していく。(269頁)

Cf.   ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」
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「ゴジラ・シネマコンサートと伊福部昭の世界」(伊福部昭生誕110周年 ゴジラ生誕70周年 特別メモリアルコンサート)東京芸術劇場(2024/08/11):シネマ・コンサートは実にぜいたくで、感激!

2024-08-12 09:01:57 | 日記
シネマ・コンサートは、大スクリーンでの映画全編上映にあわせて、オーケストラが音楽パートを生演奏する。映画『ゴジラ』(1954)が誕生して70周年、また『ゴジラ』の劇中音楽を生み出した伊福部昭(1914-2006)の生誕110周年を記念する。公演は2部構成で、第1部では1954年公開映画『ゴジラ』のシネマ・コンサートを実施。第2部では伊福部昭の原点と言える「日本狂詩曲」と、キングギドラ・ゴジラ・モスラ・宇宙大戦争マーチを編纂した「SF怪獣ファンタジー」を演奏。主催:パシフィックフィルハーモニア東京。

《感想1》映画『ゴジラ』(1954)をあらためて見て気づいたこと。①コジラは「村の伝説」の怪獣で何度か出現している。②ゴジラは「太古の恐竜類の生き残り」で、深海でひっそりと棲息していた。③それが「水爆実験」によって放射能を浴び、地上に姿をあらわした。④ゴジラは「オクスィジェン・デストロイヤー」と呼ばれ新たな大量破壊兵器により殺される。⑤ この「大量破壊兵器」は発明者(博士)が一切の資料を処分し本人もゴジラとともに死に、戦争に悪用されないようにした。⑥ゴジラはこの殺された1匹のみでなく、深海に他にも棲息しているかもしれず、「再び出現する可能性」がある。
Cf.  世界発の水爆実験は1952年米がマーシャル諸島エニウェトク環礁で行う。 映画『ゴジラ』の公開は1954年11/3なので、第5福竜丸事件(1954/3/1マーシャル諸島ビキニ環礁での米水爆実験により被曝)の直後だ。久保山愛吉無線長1954/9/23死去。

《感想2》当時、「放射能(Ex. ストロンチウム90)を含む雨にあたると頭がはげる」などと、誰もが話していた。

《感想3》映画『ゴジラ』のシネマ・コンサートは実にぜいたくで、感激した。ゴジラのテーマ音楽が圧巻!!

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