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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」(その9):「国権」と「財富」、「高貴」と「下賤」、「善」と「悪」が相互転換する!

2024-08-15 12:57:19 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」(その9)(274-275頁)      
(63)-5 🈔「高貴」が「下賤」に転換してしまう!
★さて「教養の世界」((BB)「精神」BⅠ「自己疎外的精神の世界」a「教養と現実の国」)における「君主国家」の成立とともに、🈩「国権」が現実的には「財富」に転換してしまう、つまり「国権」が「財富」であることが明らかとなった。(274頁)

★さらに「君主国家」において同様に、🈔「高貴」が「下賤」に転換してしまう、つまり「高貴」が「下賤」となる。(274頁)
☆なぜなら「貴族」(「廷臣」)たちが「国事」にはげみ、「君主」に「頌辞」を呈するのはむろん「高貴なる意識」(《「国権」は「善」、「財富」は「善」》と「判断」する)のしからしめるところではある。(274頁)
☆そうかといって「内面」の「個別性」・「対自(対他)存在」、わかりやすくいえば「私利私欲を求める心」がなくなっているわけでなく、したがって《「国権」と「自分」との間に「同一性」を見いだしている》(※すなわち《「国権」は「善」》と「判断」する)のでなく、むしろ《「国権」と「自分」との間に「不同性」を見いだしている》(※すなわち《「国権」は「悪」》と「判断」する)のであり、かくて「国権」を転換させて「財富」を肯定している。(274頁)
☆さればといって「公に仕えることに誇りを感じていないわけでもない」(※すなわち《「国権」は「善」》)ので、「財富」と「自分」との間にも「同一性」でなく「不同性」を見いだしている。(※すなわち《「財富」は「悪」》。)
Cf. 《「国権」は「悪」、「財富」は「悪」》と「判断」する態度は「下賤なる意識」であり、🈔「高貴」が「下賤」に転換してしまう、つまり「高貴」が「下賤」であることとなる。(274頁)

《参考1》さて最初にあげられる「判断」は(ア)《「国権」は「善」、「財富」は「悪」》だ。(264-265頁)
☆「国権」が絶えず「自己同一を保っているもの」(「善」)であるのに対し、「財富」は「『水』のごとくつねに『おのれ自身と異なるもの』になり、いかなるものによってもどのようにも使われ享受されうるものであり、我執我欲の対象」(「悪」)だ。(264頁)
《参考1-2》ところがドッコイ、「判断」は(ア)《「国権」は「善」、「財富」は「悪」》だけだとは、そう簡単にはいかない。すなわち(イ)《「国権」は「悪」、「財富」は「善」》との「判断」もある。なぜなら「主体」自身が《「即自存在」と「対他存在」》、《「普遍性」と「個別性」》という相反した両面を具えているからだ。(264頁)
☆最初は簡単に(ア)《「国権」は「善」、「財富」は「悪」》と「判断」されたが、なぜそう「判断」されたかというと主体の「即自存在」を基準とした時、これには「国権」が適合し「善」だが、「財富」は適合せず「悪」だからだ。これに対し「主体」には「対他存在」もまた具わっている。これを基準とすれば、(イ)《「国権」は「悪」、「財富」は「善」》となる。(264-265頁)

《参考2》☆「客体」に関係する「主体」の態度、即ち「判断」には2種類ある。(265頁)
☆一つは(あ)「素直な態度」or「高貴なる意識」だ。これは「客体的に即自的なもの」を「自分の即自的なもの」に照らして「善」と判断し、「対他的なもの」を「自分の対他的なもの」に照らして「善」と「判断」する態度だ。これはいつも「対象」と「自己」との「同一性」を見いだそうとする「素直な態度」だ。ヘーゲルはこれを「高貴なる意識」と呼ぶ。《「国権」は「善」、「財富」は「善」》と「判断」する。(265頁)
《参考2-2》しかしもう一つ(い)「あまのじゃく的な態度」or「下賤なる意識」がある。すなわち「国権」に対する時には、自分の「対他存在」を規準として、「国権」なんていうものは、「おのれの生活を束縛し幸福を制限する」ものだから「悪」だとし、そして「財富」に対しては自分の「即自存在」を規準として「そんな我執我欲の産物はゴメンだ」と「悪」と判断する。《「国権」は「悪」、「財富」は「悪」》と「判断」する態度だ。(265頁)
《参考2-3》要するに「客体」に関係する「主体」の態度、即ち「判断」には2種類ある。一つは(あ)「素直な態度」or「高貴なる意識」で、「対象」と「自分」の間にいつも「同一性」を見いだす「態度」(「判断」)だ。もう一つは(い)「あまのじゃく的な態度」or「下賤なる意識」で「対象」と「自分」の間にいつも「不同性」ばかりを見いだしケチをつける「態度」(「判断」)だ。(265頁)

(63)-6  🈪「善」が「悪」に転換してしまう!
★そうして🈪「善」の「悪」に転換することもはっきりしてきている。(274頁)
Cf. 🈔「高貴」が「下賤」に転換してしまうとは、《「国権」は「善」、「財富」は「善」》と「判断」する「高貴なる意識」が、《「国権」は「悪」、「財富」は「悪」》と「判断」する「下賤なる意識」に転換することだ。ここでは、🈪「善」が「悪」に転換している。(274頁)

《参考》「教養の世界」が①「現実意識」に映じたさいの対立は「国権」(「風」)と「財富」(「水」)の対立、すなわち「現実の世界」における「客観的な対立」だ。さらに「教養の世界」において、②「純粋意識」すなわち「主体的な内面的な思惟」もあり、これは「いつも自己同一を保つもの」(「風」)は「善」とし、「自己同一を保たず、いつも他となって変ずるもの」(「水」)は「悪」とするという意味において、「善」・「悪」の規定を行う。(262頁)

(63)-7 「下賤なる意識」は「歴史的」には「町人」のものだ!
★さてここまでヘーゲルは「高貴な意識」あるいは「貴族」(「廷臣」)を問題にしてきたが、🈔「高貴」が「下賤」に転換してしまうのだから、「高貴な意識」はじつは「下賤な意識」にすぎない。(274-275頁)
☆かくてヘーゲルは「下賤な意識」の方に(※『精神現象学』の展開において)移って行くが、この移り行きは、
これを「歴史的」に言えば、「近代」の「君主国家」(※「絶対王政」)のうちに次第に「市民社会」が成長し、「貴族」(「廷臣」)に対して「町人」が勃興してくるのに応ずる。(275頁)
★「下賤なる意識」とは、「国権」に対するには「自分の『個別性』」を、「財富」に対するには「自分の『普遍性』」をもって規準とし、「国権」・「財富」いずれの間にも「不同」を見いだし、いずれをも「否定」し、いずれにも「反抗」する。(275頁)Cf.「下賤なる意識」(「あまのじゃく的な態度」)は《「国権」は「悪」、「財富」は「悪」》と「判断」する。(265頁)
☆これは「歴史的」には「町人」のものだ。(275頁)
☆といっても「町人」に「高貴なる意識」(《「国権」は「善」、「財富」は「善」》と「判断」する)がないわけでない。(275頁)

Cf. 「下賤なる意識」(「あまのじゃく的な態度」)は《「国権」は「悪」、「財富」は「悪」》と「判断」する。「高貴なる意識」(「素直な態度」)は《「国権」は「善」、「財富」は「善」》と「判断」する。(265頁)

(63)-8 🈩《「国権」が「財富」、「財富」が「国権」》、🈔《「高貴」が「下賤」、「下賤」が「高貴」》、🈪《「善」が「悪」、「悪」が「善」》なので、すべてがメチャクチャになる!「分裂の辞」は同時に、「エスプリ」or「ガイスト」に富んだものだ!
★「教養の世界」((BB)「精神」BⅠ「自己疎外的精神の世界」a「教養と現実の国」)における「君主国家」において、🈔「高貴」が「下賤」、「下賤」が「高貴」だとすると、🈩「国権」が「財富」、「財富」が「国権」、また🈪「善」が「悪」、「悪」が「善」なので、かくてすべてがメチャクチャになる。(275頁)
☆このメチャクチャを言葉で表現したものが、「頌辞」に対する「分裂の辞」だ。(275頁)
☆ヘーゲルは「分裂の辞」の典型的表現をディドロの『ラモウの甥』の主人公において見ている。「ただ『分裂』があるだけで『統一』は少しもない」のだから、確かに気狂いじみているけれども、「およそすべての『対立』は互いに他に『転換』すべきもの」だから、「分裂の辞」は同時に、「エスプリ」に、「ガイスト」に富んだものなのだ。(275頁)

《参考1》この「『教養』の段階」((BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」)でヘーゲルは、ディドロの『ラモウの甥』(1762執筆、1823刊行)を材料として使うが、ゲーテ(1749-1832)は『ラモウの甥』が偉大なる傑作であることを看破して、1805年に独訳したが、それをいち早く受け入れたのがヘーゲル(1770-1831)だった。(267頁)
☆この作品の主人公〈作曲家ラモーの甥〉は「権力者」をも「金持ち」をもいずれをも「憎みのろい」ながら、またいずれにも「阿諛(アユ)」を呈するのだが、つまりヘーゲルに言わせれば、①《「国権」は「財富」、「財富」は「国権」》、②《「善」は「悪」、「悪」は「善」》、③《「高貴」は「下賤」、「下賤」は「高貴」》という態度をとるのだが、この「一見錯乱した狂人めいた態度」も決して軽蔑すべきではなく、むしろ「エスプリ」esprit(「ガイスト」Geist)に富んだものであるとヘーゲルは考えて、積極的意義を認めている。(267頁)
☆つまり「人間精神」の発展上、重要な一つの段階である「疎外」を表現したものという見地から、ヘーゲルはこのディドロの作品『ラモウの甥』を活用している。(267-268頁)

《参考2》「分裂」(「教養の世界」の「自己疎外」①②③)を通じて「絶対に対立するもの」が「一つになる」ところにこそ、ヘーゲル独自の「ガイスト」Geist が躍動してくる。(266頁)
☆「ガイスト」Geistは、フランス語の「エスプリ」espritに近いものだ。(266頁)
☆「エスプリ」espritとは、「ちょっと普通では関係のつかないような二つのもの」の間に「奇想天外な関係」を見つけるような能力のことだ。だから「エスプリ」に富んでいるのは、「気がきいている」ことであって、悪くすると「駄じゃれを弄する」ことにもなる。(266-267頁)
☆ヘーゲルは「エスプリ」espritの「よい点」を生かし、かくて「自己疎外」(①②③)こそが、人間に「エスプリ」espritすなわち「ガイスト」Geistを養い、「教養」を与えると言う。(267頁)

Cf. 「教養の世界」は徹底的に「自己疎外的」だ!①《「国権」が「財富」に、「財富」が「国権」に》、②《「善」が「悪」に、「悪」が「善」に》、③《「高貴」が「下賤」に、「下賤」が「高貴」に》転換し、「疎外」する世界!(266頁)
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