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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」(その7-2):「君主国家」は「普遍意志」であると同時に「個別意志」となった!

2024-08-13 20:57:52 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」(その7-2)(270-272頁) 
(63)-3 「高貴なる意識」が《「国権」は「善」》と「判断」する場合の②「言語による媒介」!①「行為による媒介」としての「奉公」は「外的な行為」にすぎないから、「腹の中」では「叛意」をいだいているかもしれない!
★「高貴なる意識」は無造作に《「国権」は「善」》と「判断」するわけには行かず、そうするにはそれだけの「媒介」が必要だ。その第1は①「行為による媒介」すなわち「奉公」である。だがこれだけでは十分でない。第2の「媒介」として②「言葉による媒介」が必要だ。(270頁)
Cf. 「国権」が「現実に成立」しうるのは、この「奉公」(①「行為による媒介」)があって初めて可能だ。(269頁)

★①「行為による媒介」としての「奉公」は「一旦緩急あれば兵力をくり出す」とか、「賦役や課税を負担する」ということだが、これは「外的な行為」にすぎないから、いくら「奉公」していても「腹の中」では「叛意」をいだいているかもしれない。だから「個別性」の否定がまだ十分でない。(270頁)

《参考1》ヘーゲルは『精神現象学』の中で次のように言う。「《意識がこの道程において遍歴する諸形態の系列》は、むしろ《意識自身が学に到るまでに必要な教養の詳細な委曲をつくした歴史》である・・・・」(90頁)
☆あるいはへーゲルは言う。「《意識》は《一般的精神》と《その個別性または感覚的意識》との間に媒語として《全体にまで自己を秩序づける精神的生命としての意識形態の体系》をもっている。しかして《この体系》がこの書(『精神現象学』)において考察されるところのものであり、また《世界歴史》としてその対象的定在をもつものである。」(90頁)

《参考2》「態度」(Ex. 「高貴な意識」)がただ「観念的」にでなく、もっと「現実的」に実現されるのでなくては、「実体」の「自覚」、したがってまたその「主体化」は不可能だ。(268頁)
☆かくて「判断」の立場から一歩進んで「推理」の立場に移ることが必要だ。(268頁)
☆というのは「推理」には「媒語」(中項、媒辞)があって、これによって「主語」と「述語」との結合が一層「現実的」となるからだ。(268頁)
《参考2-2》「高貴なる意識」は、「国権」について自分の「即自存在」を「判断」の規準とし、これに合致するという理由で「国権」を「善」と「判断」し、「財富」については自分の「対他存在」を規準とし、「財富」を「善」と「判断」する。「高貴なる意識」(「素直な態度」)は《「国権」は「善」、「財富」は「善」》と「判断」する!(268-269頁)
☆しかし《「国権」は「善」》と「判断」するときにも、「主体」には「自体的普遍的」側面のほかに、「対他的個別的」側面もそなわっているから、ただ無造作に「国権」を「善」とするわけには行かず、そうするにはそれだけの「媒介」が必要だ。(269頁)
☆ただし「媒介」には①「行為における媒介」と②「言葉における媒介」の2つがある。(269頁)

(63)-3-2 「高貴なる意識」が《「国権」は「善」(※「普遍的」)》と「判断」する場合、①「行為による媒介」のほかに、②「言葉による媒介」が必要だ!「言葉」は「個別者としての個別者」を「普遍化」する!
★さて「個別者」を、「『個別者』として『普遍的』」たらしめるものは、ヘーゲルによると「言葉」だ。だから「高貴なる意識」が《「国権」は「善」(※「普遍的」)》と「判断」する場合、①「行為による媒介」のほかに、②「言葉による媒介」が必要だ。(270頁)
☆「言葉」とは「心に思うところ」を「打ちあける」ものだ。「打ちあける」のは「他人」に向かって「世間」に向かってのことだ。「言葉」で「打ちあける」と、「自分の思い」も「自分のもの」にとどまらなくなる。(270頁)
☆かくて「言葉」は「個別者としての個別者」を「普遍化」する。(※「普遍化」された「個別者」!)(270頁)
☆ヘーゲル『精神現象学』のいろんな箇所で「言葉」は重要な役目をつとめている。さきの「感覚」の場合もそうだったが、後の「良心的自己」の場合(後述)も同様だ。(270頁)

《参考》「感覚」は「この」特別の「このもの」を認識するつもりでいる。しかし単なる「このもの」はなく、なにかある「普遍者」(※言葉によって名づけられた一般者)における「このもの」だ。このことに気づけば「意識」はおのずから「感覚」の段階から「知覚」の段階へと移行する。このように「意識」段階が変わってゆくことによって、「対象」の方でも「このもの」から「物」Ding に変わる。(82頁)

(63)-3-3 「封臣」が発する「忠言」Ratは、「外面的行為」としての「奉公」(①「行為による媒介」)である!「忠言」Ratにおいては、「腹の中」はわからない!
★「言葉」は「個別者としての個別者」を「普遍化」するが、「封臣」の「忠言」Ratは、そのような「言葉」ではない。(270頁)(※「忠言」Ratは、「国権」を「普遍化」するところの②「言葉による媒介」ではない。)
☆「封建国家」が「封臣」を集めて会議をひらき、開戦・講和などの重要な国事について議する時、「封臣の呈するいろんなアドバイス」(「忠言」Rat)は、「外面的行為」としての「奉公」(①「行為による媒介」)である。(270-271頁)
☆「忠言」Ratは、「即物的」で、結局のところやはり「外的な行為」であり、「私的」な側面、「対自(対他)」の側面、「個別性」の側面をかくしているかもしれない。いぜんとして「腹の中」はわからない。(271頁)

(63)-3-4 「腹の中」まで打ち明けて「頌辞(ショウジ)」を呈しようようとすると(②「言葉による媒介」)、「名前」が必要になり、そこに「君主」したがって「君主国家」が生じる!すなわち「国家」がそれ自身「普遍性」と「個別性」を兼ね備えた「主体」となる!ここに「封建制度」は「君主政治」に移行し、「東方の専制政治」とも、「古代の共和政治」とも違った「近代国家」が誕生する!
★「個別性」の側面が、もっと徹底的に、つまり「腹の中」まで、つまり「否定が精神的にまで行われなくてはならない」が、これはどういうものかというと「頌辞(ショウジ)」である。(271頁)

《参考》 「高貴なる意識」が《「国権」は「善」(※「普遍的」)》と「判断」する場合、①「行為による媒介」のほかに、②「言葉による媒介」が必要だ!「言葉」は「個別者としての個別者」を「普遍化」する!この場合、①「行為による媒介」が「奉公」であり、②「言葉による媒介」が「頌辞(ショウジ)」だ。(271頁)

★「腹の中」まで打ち明けて「頌辞(ショウジ)」を呈しようようとすると、どうしても「国家」に向かって「呼びかける」ことが必要だ。(271頁)
☆「呼びかける」には「名前」をつかうほかない。そこで今までは「ただ漠然と抽象的な存在であった国家」に例えばルイならルイ、ヘンリーならヘンリーという「名前」が必要になってくる。そこに「君主」したがって「君主国家」が生じる。(271-272頁)
☆いままでは「領主たち」が会議を開き、互いに相談し合って国事を執行していただけだ。むろん「議長」とか「代表者」はあっても、誰がそれになるかはその時々の必要や情勢で変わり、また変わりうるものであって、制度的に「君主」の地位が確定しているわけではなかった。(271頁)

★いいかえると今までも「実体」的には「国家という普遍者」があって、これにおのずと強制されて「奉公」し、また会議で「忠言」や勧告を呈してはいても、「国家」はまだ「『主体』として『人格的』に存在する」のではなかった。(271頁)
☆この場合、「外面的な行為」(「奉仕」・「忠言」という①「行為による媒介」)において「個別性」を否定して「普遍性」に奉仕する。(271頁)

★だが今や「言葉」(「頌辞(ショウジ)」という②「言葉による媒介」)によって「内面的」にまでも「個別性」を否定するということになると、どうしても「国家」にルイとかヘンリーとかいう「名」を与えて呼びかけなくてはならないから、「実体」(ここでは「国家」)の方もおのずと「主体化」され、「君主」において「人格性」をうる。(271-272頁)
☆「国家」はただ単に「普遍意志」というような「抽象的なもの」にはとどまらないで、例えばルイというような「個人的人格」において再現され「現実化」する。(272頁)
☆かくて「国家」もそれ自身「普遍性」と「個別性」を兼ね備えた「主体」となる。ここに「封建制度」は「君主政治」に移行し、「東方の専制政治」とも、「古代の共和政治」とも違った「近代国家」(※「絶対王政」)が誕生する。ヘーゲルはその典型を「フランス」において見ようとする。(272頁)

(63)-3-5 フランスやイギリスにおいて「民族国家」が形成され、「君主政治」においてその「国権」が確立する!
★「君主国家」の成立とともに、「国家」はもはや「抽象的な普遍意志」にとどまるのでなく、同時に「個別意志」ともなった。ヘーゲルはこのことの典型的表現を「朕は国家である」といったルイ14世(1638生、在位1643-1661親政-1715)の場合に見ている。(272頁)
☆「君主」ができると、もと「領主」であったものもいまや「廷臣」になってしまう。(272頁)
☆「近代」に近づくにしたがい、フランスやイギリスにおいて「民族国家」が形成され、「君主政治」においてその「国権」が確立する。ヘーゲルはこの時代のことを考えている。(272頁)

Cf. 「民族国家」nation-state:歴史的には、中世の「普遍主義」に対抗するものとして出現した。「資本主義」の発達に伴い、閉鎖的な自給自足経済に基づく「中世封建社会」の内部から次第に「経済活動の自由」と「一層広範囲な市場圏」を求める動きが起り、この動きが「絶対君主」による国家統一を促し、血縁・宗教・言語・伝統などによって結ばれた「民族」の結束を強化した。このように近代「民族国家」は初め「君主主権」(「絶対王政」)のもとに形成されたが、「市民革命」(「ブルジョア革命」)はこれを否定し、代って「国民主権」の原理を確立した。ヨーロッパにおいては、17~19世紀に次々に「民族国家」が形成された。

Cf. 「絶対王政」absolute monarchism:中世までの諸侯や貴族、教会の権力が乱立し、分権的であった状態から、絶対君主が強大な権力を持って中央集権化を図り、中央官僚と常備軍によって国家統一を成し遂げた。「絶対王政」は封建制社会から資本主義社会への過渡期に現れた。西ヨーロッパにおける市民革命以前の16-17世紀、イングランドのテューダー朝、フランスのブルボン朝などが「絶対王政」だ。ブルボン朝はその典型であり、1615年から1789年まで、身分制議会である三部会が召集されなかったが、これは諸侯の権力の低下と、国王の権力があらゆる権力に優先したことを示す。17-18世紀にはエルベ川以東でも、「絶対王政」の時代が始まり啓蒙専制君主が出現した。(Ex. プロイセン国王フリードリヒ2世は「国王は国家第一の下僕」と言った。)「市民革命」が勃発すると絶対王政は崩れた。

《参考1》「教養の世界」(つまり(BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」a「教養と現実の国」)には、①「国権」と「財富」との対立、②「善」と「悪」との対立、③「高貴なる意識」(「素直な態度」)と「下賤なる意識」(「あまのじゃく的な態度」)と3つの対立がある。(265頁)
《参考1-2》このうち③「高貴なる意識」と「下賤なる意識」との対立は、「貴族」と「町人」の対立だ。これは「教養の世界」(※「ローマ帝国」?・「中世」・「近世」・「啓蒙」・「フランス革命」・「ドイツロマン主義」の時代)のもので、「古代社会」にはなかった。(265-266頁)
《参考1-3》初めの2つの対立(①「国権」と「財富」との対立、②「善」と「悪」との対立)と同じく、第3の対立すなわち③「高貴なる意識」(「素直な態度」)と「下賤なる意識」(「あまのじゃく的な態度」)との対立にも「疎外」があり、「高貴」が「下賤」、「下賤」が「高貴」となる。(266頁)

《参考2》「乱暴狼藉のほしいままにされた暗黒時代」にあっても、「実体」に動かされて徐々に「新たなる社会秩序」として「封建制度」が形成されていく。ここで「奉公」とは、具体的には「貴族の奉公」であり、「一旦緩急あれば家の子郎党ひきいて馳せ参ずる」とか、「道路や運河の開発、築城・委寺院の建立などに対して経費を負担」し、また「手下をして賦役に応じさせる」とかいうように「公に奉じる」ことだ。こういうことがあって初めて「高貴なる意識」も、いな「国権」そのものも「現実化」していく。(269頁)

Cf.   ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」
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