Da neigt sich die Stunde und rührt mich an (1899) 「時が身を傾けて私に触れる」
Rainer Maria Rilke (1875-1926) ライナー・マリア・リルケ
Da neigt sich die Stunde und rührt mich an 時が身を傾けて私に触れる
mit klarem, metallenem Schlag: 澄んだ金属的な打撃を以て。
mir zittern die Sinne. Ich fühle: ich kann... 私において諸感覚が振動する。私は感じる:私にはできるのだと・・・
und ich fasse den plastischen Tag. そして私は造形の昼をつかむ。
《感想1》ある修道士が、自らが絵を描く体験がいかなるものかを語る。
《感想1-2》いつもは時が通り過ぎていくのに、今、時が身を傾けて私に触れる。時が到来し、私に特別な存在がもたらされる。澄んだ金属的な打撃だ。すなわち私の諸感覚が起動し振動する。私はできると私は感じる。かくて私は造形(絵を描くこと)の現実化能力(昼)をつかむ。その時が到来するまでは私は造形を現実化できると思えなかった(夜)。
Nichts war noch vollendet, eh ich es erschaut, なにものも未だ完成していなかった、私が観るまでは。
ein jedes Werden stand still. いかなる生成も停止していた。
Meine Blicke sind reif, und wie eine Braut 私の眼差しが熟し、そして花嫁のように
kommt jedem das Ding, das er will. 私の眼差しの一つ一つに、それらが望むものが来る。
《感想2》諸経験の生起の連続が、《経験の重なり》であるイデア的《意味》として把握され、つまりイデア的存在として完成する。そのイデア的意味が《言葉》によって指示される。
《感想2-2》それとちょうど同じように、諸感覚(的経験)の生起の連続が、《諸感覚(的経験)の重なり》であるイデア的《意味》として把握され、イデア的存在として完成する。この完成は私が観ることによって生じた。諸感覚(的経験)のレベルにおけるイデア的意味が、《絵画》によって指示される。
《感想2-3》一般にイデア的意味を指示するものが《言葉》である。このうち諸感覚(的経験)のレベル(感覚レベル)でのイデア的意味を指示するものが《絵画》である。《絵画》は《言葉》である。
《感想2-4》 かくて「花嫁」つまり「私の眼差し・・・・が望むもの」とは、諸感覚(的経験)のレベルにおけるイデア的意味、すなわち《絵画》である。
Nichts ist mir zu klein, und ich lieb es trotzdem なにものも私にとって小さすぎることはなく、しかも私はそれを愛し
und mal es auf Goldgrund und groß そしてそれを金地の上に大きく描き、
und halte es hoch, und ich weiß nicht wem そしてそれを高々と捧げ、そして私は知らない、誰に関して
löst es die Seele los... それが魂を解き放つかを・・・
《感想3》「それ」とは《眼差しが花嫁のように望んだもの》つまり《絵画》である。「それ」は諸感覚(的経験)のレベルにおけるイデア的意味だから、完全であり「完成して」おり、「小さすぎることはない」。私は「それ」を愛し、大きく描き「高々と捧げ」る。
《感想3-2》そして私が描いた《絵画》が、誰の魂を解き放つか私は知らない。それはどうでもよいのだ。なぜなら「時が身を傾けて私に触れる」ということが生起し、私は「完成」した《絵画》を描けたのだから。