DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

ご挨拶:18歳から50年後の土砂降り!

2018-10-05 21:39:16 | 日記
「皆様にはお久しぶりでございます。50年ぶりの方もいらっしゃいます。誠に幾星霜です。言葉で言えばそれだけですんでしまいます。不思議です。(でも言葉ですから当然です。)」
「さて私は、ここのところ、ほぼ土砂降り状態で気分がさえません。かつて見えた『導きの星』も姿を消しました。精神不安定です。かろうじて、本日ここまでたどり着きました。」
「嫁殿は気分が難しく、意志疎通もなかなか大変です。何を考えているかしばしば理解できません。」
「以上、不景気な話ばかりです。」
PS:「なお私には、複雑でプライベイトな事柄があり、これについては、『私は最善を尽くし生きて来たが、結果としてこうなった』としか言えません。」
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リルケ「時が身を傾けて私に触れる」(1899):諸感覚(的経験)のレベルにおける「完成」したイデア的意味が《絵画》によって指示される!《絵画》は《言葉》である!

2018-10-05 21:02:36 | 日記
 Da neigt sich die Stunde und rührt mich an (1899) 「時が身を傾けて私に触れる」
                   Rainer Maria Rilke (1875-1926) ライナー・マリア・リルケ

Da neigt sich die Stunde und rührt mich an 時が身を傾けて私に触れる
mit klarem, metallenem Schlag: 澄んだ金属的な打撃を以て。
mir zittern die Sinne. Ich fühle: ich kann... 私において諸感覚が振動する。私は感じる:私にはできるのだと・・・
und ich fasse den plastischen Tag. そして私は造形の昼をつかむ。

《感想1》ある修道士が、自らが絵を描く体験がいかなるものかを語る。
《感想1-2》いつもは時が通り過ぎていくのに、今、時が身を傾けて私に触れる。時が到来し、私に特別な存在がもたらされる。澄んだ金属的な打撃だ。すなわち私の諸感覚が起動し振動する。私はできると私は感じる。かくて私は造形(絵を描くこと)の現実化能力(昼)をつかむ。その時が到来するまでは私は造形を現実化できると思えなかった(夜)。

Nichts war noch vollendet, eh ich es erschaut, なにものも未だ完成していなかった、私が観るまでは。
ein jedes Werden stand still. いかなる生成も停止していた。
Meine Blicke sind reif, und wie eine Braut 私の眼差しが熟し、そして花嫁のように
kommt jedem das Ding, das er will. 私の眼差しの一つ一つに、それらが望むものが来る。

《感想2》諸経験の生起の連続が、《経験の重なり》であるイデア的《意味》として把握され、つまりイデア的存在として完成する。そのイデア的意味が《言葉》によって指示される。
《感想2-2》それとちょうど同じように、諸感覚(的経験)の生起の連続が、《諸感覚(的経験)の重なり》であるイデア的《意味》として把握され、イデア的存在として完成する。この完成は私が観ることによって生じた。諸感覚(的経験)のレベルにおけるイデア的意味が、《絵画》によって指示される。
《感想2-3》一般にイデア的意味を指示するものが《言葉》である。このうち諸感覚(的経験)のレベル(感覚レベル)でのイデア的意味を指示するものが《絵画》である。《絵画》は《言葉》である。
《感想2-4》 かくて「花嫁」つまり「私の眼差し・・・・が望むもの」とは、諸感覚(的経験)のレベルにおけるイデア的意味、すなわち《絵画》である。

Nichts ist mir zu klein, und ich lieb es trotzdem なにものも私にとって小さすぎることはなく、しかも私はそれを愛し
und mal es auf Goldgrund und groß そしてそれを金地の上に大きく描き、
und halte es hoch, und ich weiß nicht wem そしてそれを高々と捧げ、そして私は知らない、誰に関して 
löst es die Seele los... それが魂を解き放つかを・・・

《感想3》「それ」とは《眼差しが花嫁のように望んだもの》つまり《絵画》である。「それ」は諸感覚(的経験)のレベルにおけるイデア的意味だから、完全であり「完成して」おり、「小さすぎることはない」。私は「それ」を愛し、大きく描き「高々と捧げ」る。
《感想3-2》そして私が描いた《絵画》が、誰の魂を解き放つか私は知らない。それはどうでもよいのだ。なぜなら「時が身を傾けて私に触れる」ということが生起し、私は「完成」した《絵画》を描けたのだから。
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いろはかるた「背に腹はかえられぬ」:多大な犠牲を払っても最重要な目標を追求する!

2018-10-05 18:12:40 | 日記
「背に腹はかえられぬ」
You cannot substitute your less important back for your most important abdomen.

《感想1》重要なものは「腹」だ。窮するからといって目標を下げ「背」に代えるわけにいかない。多大な犠牲を払っても最重要な目標を追求する。
《感想2》別の解釈もある。他人(「背」)が被害を受けても仕方ない。重要な自分(「腹」)を守ることが最優先だ。
《感想3》要するに自分の目的のためなら、①いかなる犠牲を払おうと、あるいは②他人がひどい目にあおうと、自分は最重要な目標を追求するということ。
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映画『クレイジー・リッチ』(2018年):「恋は盲目」で、恋している時の判断はあてにならない?

2018-10-05 10:44:06 | 日記
(1)
NY大学の経済学教授の女性レイチェル・チュウ(中国系アメリカ人)とシンガポールの不動産王御曹司ニック・ヤンの恋物語。
(2)
二人はNYで出会う。レイチェルは、ニックが大金持ちと知らない。ニックはレイチェルを結婚相手として家族に紹介するためシンガポールに連れて行く。
(3)
ニックはシンガポール社交界の女性たちから熱い注目を集める人気の独身男だった。ニックとその財産を手に入れる予定のレイチェルは、社交界の女性たちから憎まれる。
(4)
2人の交際をよく思っていないニックの母や家族親戚一同。なぜなら①レイチェルは経済学教授の職を続け、②ニックは不動産王ヤン家を継がなくなるだろう。③そもそもレイチェルは大金持ちの出身でなく家柄が釣り合わない。④レイチェルの母親は私生児としてレイチェルを産み中国からアメリカに逃げた。
(5)
これら多くの苦境をレイチェルは乗り越え、そしてニックは不動産王ヤン家を継がず、NYで二人は結婚し住むこととなる。

《感想1》ハッピーエンドと呼ぶべきか迷う。普通ならニックは不動産王ヤン家を継ぐだろう。そもそも、レイチェル自身が「ニックはヤン家を継ぐべきだ」と一度、判断した。
《感想2》ところが二人の結婚に反対していたニックの母親が、気持ちを変えた。この点が、非現実的だ。
《感想2-2》普通なら、ニックの母親は、レイチェルに結婚を諦めさせ、レイチェルに対し慰謝料1000万ドル(10億円)位払い、ニックからレイチェルを別れさせたろう。二人ともすでに若くない。(10代でない。)状況が、分かるはずだ。
《感想2-3》しかも上述したようにレイチェル自身が、「ニックはヤン家を継ぐべきだ」と判断しているのだから、ニックの母親が気持ちを変え、二人の結婚を認めなくても、事態は解決したはずだ。
《感想3》ニックはどう生きて行くのか?ニックが将来の仕事として何を追求するのかが、映画で描かれていない。ニックはヤン家を継ぐべきだった。
《感想3-2》そしてレイチェルが、経済学教授の職を辞し、新しい人生の目標を決定してもよかった。レイチェルには、シンガポールの不動産王ヤン家の家政・社交を取り仕切り、そしてさらに不動産の仕事に関しニックの共同経営者となる道もあった。
《感想4》恋は醒める。恋は不安定で危険だ。①「女心と秋の空」、「男心と秋の空」と言う。「風の中の羽根のようにいつも変わる女心」だ。また②「あばたもえくぼ」、「恋は盲目」で、恋している時の判断はあてにならない。
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