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「あつみ山(ヤマ)や吹浦(フクウラ)かけて夕すゞみ」芭蕉(『奥の細道』)(28):この辺りには「だいだらぼっち」伝説があり、「あつみ山」を擬人化しても違和感はなかったろう!

2018-10-02 18:39:54 | 日記
「あつみ山(ヤマ)や吹浦(フクウラ)かけて夕すゞみ」
Atumi-yama Mountain like ranging over Hukuura, the breezy coast, enjoys the cool breeze in the evening. 

《感想1》芭蕉一行は鶴岡に泊まり、その後、川舟で酒田へ。この句は、酒田の門人たちへの挨拶吟。「暑いので風に吹かれて夕涼みする」という意味を、あつみ温泉近くの「あつみ山」(温海岳736m)と「吹浦」(酒田の北の海岸にある地名)に懸けて詠んだ。
《感想2》「あつみ山が吹浦に至るくらいに雄大に風に吹かれて夕涼みしている」と、「あつみ山」を擬人化する。「だいだらぼっち」という巨人が現れ、湖の水を抜き横手盆地を作ったとの伝説がこの地方にあり、「あつみ山」を人に見立てても違和感はなかったろう。
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パウル・ツェラン「讃歌」1963年:人間は、「無のばら」であり、同時に「居ない者のばら」だ、つまり《神》が居ないのに花咲くばらだ!だが魂の明るみをもつ栄光のばらだ!

2018-10-02 10:43:30 | 日記
 Psalm 讃歌
      Paul Celan パウル・ツェラン(1920-1970)

Niemand knetet uns wieder aus Erde und Lehm,  居ない者が私たちを再び土と粘土から捏ね上げる。
niemand bespricht unseren Staub.  居ない者が塵である私たちに呪文をとなえ命を吹き込む。
Niemand. 居ない者。

Gelobt seist du, Niemand. 讃えられてあれ、あなた、居ない者よ。
Dir zulieb wollen あなたのために
wir blühn. 私たちは花咲きたい、
Dir あなたに
entgegen. 向かって。

Ein Nichts 無、
waren wir, sind wir, werden 過去の私たち、現在の私たち、未来の私たちが
wir bleiben, blühend: 無であり続ける、花咲きながら:
die Nichts-, die 無のばら、
Niemandsrose.  居ない者のばら。

Mit そこにあるのは                                                    
dem Griffel seelenhell, 魂で明るい花柱
dem Staubfaden himmelswüst, 空の荒涼の花糸
der Krone rot 赤い花冠
vom Purpurwort, das wir sangen そして素材は(vom)緋の言葉であり、それは私たちが
über, o über 茨の上で、おー、茨の上で
dem Dorn. 歌った言葉だ。

《感想1》居ない者(非在の者)とは誰か?「創世記」2:7に「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた」とある。誰も私たちを再び土と粘土から捏ね上げることがない。誰も塵である私たちに呪文をとなえ命を吹き込むことがない。誰もそうしない。神は今、居ない。

《感想2》 私たちが花咲く時に、私たちに目的を与える者(私たちが目的とする者=神)は居ないし、また私たちが花を見せるために向かう相手(神)は居ない。讃えられるべき居ない者!つまり神は今、居ない。
《感想2-2》私たちは無であり、花を咲かせるが、目的はなく、見せる相手(神)もいない!
《感想2-3》「無のばら」(私たちは無なのに花咲くばらだ)!「居ない者のばら」(《目的を与えてくれまた見せる相手である神》が居ないのに花咲くばらだ)!

《感想3》私たちは、過去、現在、未来、無であり続けるが、しかし花を咲かしている。無が咲かすばら、つまり「無のばら」(die Nichtsrose)。私たちはばらだが、「無のばら」。
《感想3-2》しかも、ばらは目的を与えてくれる神なしに(自らが目的を見出し)花を咲かす。また花を見せる相手である神なしに花を咲かす。「居ない者のばら」。《目的を与えてくれまた見せる相手である神》が居ないのに花咲くばら。

《感想4》「無のばら」(die Nichtsrose)、そして「居ない者のばら」(die Niemandsrose)つまり《目的を与えてくれまた見せる相手である》神が居ないのに花咲くばらは、ではなぜ咲くのか?
《感想4-2》花(花冠)の中心にある花柱、そこに魂があり明るい。花は魂で明るい。無のばら(die Nichtsrose)なのに、魂の明るみを持つ。目的を与えてくれ、また見せる相手である神が居ないのに(die Niemandsrose)、君は花咲き、そして君は魂によって明るく輝く。虚無なのに、また《絶対的理念・目的・庇護者》(神)もいないのに、君は魂によって明るく輝く。(詩人はそうありたいと思っている。)
《感想4-2》ばらは「虚無のばら」(die Nichtsrose)なので、葯の付く花糸は、空(宇宙の)の荒涼を示す。
《感想4-3》ばらの花冠(花全体)は赤い。なぜ赤いか?花冠(花全体)が「緋の言葉」でできているからだ。「緋の言葉」とは、私たちの《避けがたい茨の運命》の上に展開する言葉だ。君の魂は明るいが、君の運命は茨である。だがその茨の上に栄光の「緋の言葉」が展開する。君は無で、無意味であるにもかかわらず、《明るい魂》を持つ。そして《茨の運命》が避けがたいのに、その上に、君の言葉を展開させる。
《感想4-4》君が、君の生をとらえようとしたら、それは《言葉を展開させる》という仕方でしかできない。
《感想4-5》「マタイによる福音書」27:27-29に次のようにある。「総督の兵士たちは・・・・・・イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套(ガイトウ)を着せ、茨(イバラ)で冠を編んで頭に載せ・・・・・・その前にひざまずき、『ユダヤ人の王、万歳』と言って、侮辱した。」

《感想5》詩人は、「無のばら」(die Nichtsrose)である人間、「居ない者のばら」(die Niemandsrose)つまり《目的を与えてくれまた見せる相手である》神が居ないのに花咲くばらである人間の栄光を讃える!讃歌(Psalm)だ!

《感想6》パウル・ツェランは、ルーマニア(現ウクライナ)生まれドイツ系ユダヤ人。1941年ナチス・ドイツの侵攻によりゲットーへ移住させられ、1942年両親が収容所内で死去。1942-44年ツェランは各地の労働収容所に送られる。1944年、赤軍により解放。学業を再開、英文学など学ぶ。1945年ブカレストに移住。共産主義独裁の空気を嫌い、1948年パリに亡命。1952年(32歳)詩集『罌粟(ケシ)と記憶』を出版。ナチスによるユダヤ人虐殺をモチーフにした「死のフーガ」を収める。1960年、ゲオルク・ビューヒナー賞受賞。1970年パリで死去。セーヌ川で遺体が発見され自殺と考えられている。
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