※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」ロ「信仰」(その2)(278-280頁)
(66)「教養の世界」は、「信仰の世界」と《「透見の世界」(「自我の否定の働き」として「地上」にとどまる)》という相反した世界、つまり「天上」と「地上」とを含む!
★「教養の世界」((BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)は、「信仰の世界」と「透見の世界」(「自我の否定の働き」として「地上」にとどまる)という相反した世界、つまり「天上」と「地上」とを含むから、この点に関しても、また「相互転換」即ち「自己疎外」があり、したがって「自己疎外精神」であるということが、どこまでも「教養」の基本的性格だ。(278頁)
《参考》ヘーゲル『精神現象学』では、(ア)「教養」Bildung は「自己疎外的精神」として、《「人倫」という「真なる精神」》と、《「道徳性」という「自らを確信した精神」》との中間的もしくは過渡的段階としての位置を与えられている。「教養」は「精神の自己疎外態」である。(イ)「教養」はヘーゲルにおいて否定的な評価を受けており「衰弱したエリート趣味」、「技巧的な知的浮薄」ともされる。(ウ)ヘーゲル『精神現象学』の歴史哲学によれば「ギリシャ的ポリス」および「ローマ的法治国家」と、「カントやゲーテによって代表される近代ドイツ」との中間にあるのが「教養」であり、「教養」は「18世紀フランスの『哲学者たち』と革命の時期」にあたる。(エ)ヘーゲルの思考の特徴である「3段階発展図式」において、「教養」は「第2段階」すなわち「対自」・「反省」・「本質」・「外化」・「分裂」・「市民社会」などに対応するものだ。つまり「教養」は「否定性」の契機であり、「否定」の機能を果たしつつ、積極的な意義を含む。(『ヘーゲル事典』弘文堂2014年)
(66)-2 まず「信仰の世界」について取り上げる:「信仰」も、「宗教」である!
★「教養の世界」に含まれる《「信仰の世界」と「透見の世界」という相反した世界》のうち、まず「信仰の世界」について取り上げよう。(278頁)
☆ヘーゲルは、ここでの「信仰」はまだ「宗教」ではないと言う。というのは「宗教」が「絶対実在を自己として意識する」ものであるのに対し、「信仰」は「絶対実在を彼岸として『表象』する」にすぎないからだ。(278頁)
☆しかしヘーゲルにとって、およそ「宗教」は「表象性」をまぬがれえないものであって、最高の「宗教」たるクリスト教でさえそうだ。(278頁)
☆だから意識発展の段階のいかんに応じて重点の置き方違うだけで、実質から言えば、ただ今の「信仰」も「宗教」であるにちがいない。(278頁)
(66)-3 最高の「宗教」である「クリスト教」の核心は「三位一体の教義」だ!①「父」なる神と、②「人の子」である賤しい大工の子と、③「聖霊」は「三位一体」だ!
★最高の「宗教」はヘーゲルにとって「クリスト教」であり、かつこれの核心は「三位一体の教義」だ。(278-279頁)
☆「三位一体の教義」において、「神」はまず①「父」として「宇宙の創造者であり摂理者」だ。①-2 しかしこれだけでは「神」自身は単に「超越者」であり「世界と全くつながりをもたない」。いいかえると「神」は「絶対」ではなく「相対的絶対」だ。(279頁)
☆かくて「絶対的絶対」たるべく、「超越神」も「受肉」して「賤しい大工の子」として「この世」に生まれ、②「人の子」となることにより、「世」は「神の世」に、「人の子」は「神の子」に、「超越神」は「内在神」となる。(279頁)
☆しかし「人の子」がただちに「神の子」ではなく、「肉を、罪を負うたもの」であるから「十字架についてその罪に死すべき」である。が「死する」ことによって、「人の子」は③「聖霊」として復活昇天して神のかたわらに座をしめることになる。(279頁)
《参考》「聖霊」:キリストが地上を去った後、信者に信仰と心の平和を与えるのは「聖霊」すなわち「信者の心に宿るキリスト」である。それでは「聖霊」も「神性」を持つのか?「聖霊」の「神性」を認めれば、キリスト教は多神教となる。この問題を解決したのが、コンスタンティノープル公会議(381)だった。「聖霊」の「神性」が認められ、「神」は、自らを同時に「父と子と聖霊なる三つの位格(ペルソナ)」の中に示す「一つの神」だと宣言された。すなわち、「父と子と聖霊」は各々完全に神であるが、三つの神があるのではなく、存在するのは一つの「実体(スブスタンティア)」、すなわち「一つの神」であると決定された。
(66)-4 「三位一体の教義」(「宗教」or「信仰」)と「教養の現実的世界」との関係:①「父の位」にあたるものは「君主」あるいは「国権」だ、②「子」にあたるものは「臣民」また「財富」だ、③「聖霊」にあたるのは、《「国権」はもとよりのこと「財富」でさえ、自分の欲求ばかりみたしていたのでは、じつは得られない》ということだ!
★ヘーゲルにとって最高の「宗教」である「クリスト教」の核心は「三位一体の教義」だが、これは「教養の現実的世界」とどういう関係にあるのか?(279頁)
☆①「父の位」にあたるものは「君主」あるいは「国権」だ。なぜなら「国権」は「普遍的」で「つねに自己同一を保つ」ものだからだ。(279頁)
☆しかし「国権」も「国権」として自分を保つためには、むしろ「財富」として自分を「個別化」して、「臣民」各自に生活上の幸福を享楽させ、彼らをいわば「子」として慈愛をもって遇することが必要だ。かくて②「子の位」にあたるものは「臣民」各自であり、また「財富」だ。(279頁)
☆ところで③(ア)「国権」はもとよりのこと「財富」でさえ、自分の欲求ばかりみたしていたのでは、じつは得られない。(イ)「財富」を獲得するにも、世のため、ひとのために、したがってまた「君主」に「奉仕」し、自分を犠牲に供し「国権」と結びつかなくてはならないし、さらに(ウ)「財富」を獲得し保つためにも、恩恵を広く世人に頒かち与えなければならない。ここに((ア)(イ)(ウ))「罪と肉とに死して『霊』にかえる」ことに相応するものがある。(279-280頁)
☆かくて①「父の位」にあたるものは「君主」あるいは「国権」、②「子の位」にあたるものは「臣民」また「財富」、③「霊の位」にあたるものはたとえば「廷臣」の「君主への献身」あるいは「財富」の「国権への還帰」だ。(280頁)
★むろん「教養の現実的世界」にも《「国権」と「財富」》との、あるいは《「即自」と「対自(対他)」》との、《「普遍」と「個別」》との「相互転換」は行われてはいる。ただしそこは「現実の世界」であるから、「転換」は必ずしも理想どおりにはおこなわれていない。(280頁)
☆しかし(※「信仰」or「宗教」は)「偶然的な現実的なもの」はこれをみんな消し捨象してしまって、ただその基礎にある「精神的な統一」だけをとりだし、しかも、これを「概念」的に把握するのでなく、「表象」によって構想すれば、「『父と子と霊との三位』のあいだの自在な三一的統一」が生ずることとなる。(280頁)
《参考1》「力」という言葉がなぜでるのか?(109頁)
☆「知覚」の段階において「個別と普遍」、「一と多」、「即自と対他」、「自と他」といった対立が、互いに他に転換して切りはなすことのできないものであることが、明らかになった。(109頁)
☆それら諸対立なかで、「一と多」という対立は、両者が切り離せないから、「一」の方もすぐ「多」になり、「多」の方もすぐ「一」になるという「相互転換」を意味した。(109頁)
☆したがって「一」というものは「多」となっておのれをあらわすべきものであり、「多」もまた「一」が外にあらわれて呈する姿にほかならないので「一」に還帰する。(109頁)
☆かくて「一と多との対立」は、「力」と「その力が外に現れた『外化あるいは発現』」の対立にほかならない。(109頁)
☆この意味で「一と多とが切りはなせない」というのは、「物」がもはや「物」でなく「力」になったことだ。(109頁)
☆「知覚」段階では「物」を知覚していたのに対して、「一」が「多」と互いに他に転換するという点から見れば、そこには「物」的でない、「制約されない普遍性」すなわち「力」がある。このような意味で、「物」とはじつは「力」なのだ。(109頁)
《参考2》ヘーゲルは「無限」について、「真無限」と「悪無限」という二つを考える。(121頁)
☆それからそれへと「無限」に続いて、どこまでいっても「対立」や「他者」が残るのが「悪無限」だ。これに対して、自分に対する「他者」が一つも残らないのが「真無限」だ。(121頁)
☆したがって、根柢に「統一」があって、その「統一」がおのれを分けて二つの「対立」を生じ、また相互転換によって一つに帰るという運動は「真無限」だ。(121頁)
☆「実在」そのものが「真無限」であることを示すのが、即ち「説明」だ。この意味でヘーゲルは、一方で「説明」は「同語反復」と悪口ばかり言っているように見えるが(Cf. 119-120頁)、実はヘーゲルは「説明」に積極的の意義を認めている。(121頁)
《参考2-2》なおヘーゲルは「説明」を通じてえた「無限性」(「真無限」)の見地、すなわち①「説明」(「無限性」という「真理」)は「思惟の主観的な運動」ではない、②「説明」はむしろ「客観そのもの、実在そのものの運動」だ、③ヘーゲルはこの「運動」を「無限性」(「真無限」)と名づける、④「実在」の「無限性」(「真無限」としての「無限の運動」)こそが「真理」だとの見地から、ヘーゲルは「シェリングにおける『対極性一致の原理』」を解釈する。(120-121頁)
《参考3》「客体」に関係する「主体」の態度、即ち「判断」には2種類ある。(265頁)
☆一つは(あ)「素直な態度」or「高貴なる意識」だ。これは「客体的に即自的なもの」を「自分の即自的なもの」に照らして「善」と判断し、「対他的なもの」を「自分の対他的なもの」に照らして「善」と「判断」する態度だ。これはいつも「対象」と「自己」との「同一性」を見いだそうとする「素直な態度」だ。ヘーゲルはこれを「高貴なる意識」と呼ぶ。《「国権」は「善」、「財富」は「善」》と「判断」する。(265頁)
☆しかしもう一つ(い)「あまのじゃく的な態度」or「下賤なる意識」がある。すなわち「国権」に対する時には、自分の「対他存在」を規準として、「国権」なんていうものは、「おのれの生活を束縛し幸福を制限する」ものだから「悪」だとし、そして「財富」に対しては自分の「即自存在」を規準として「そんな我執我欲の産物はゴメンだ」と「悪」と判断する。《「国権」は「悪」、「財富」は「悪」》と「判断」する態度だ。(265頁)
☆要するに「客体」に関係する「主体」の態度、即ち「判断」には2種類ある。一つは(あ)「素直な態度」or「高貴なる意識」で、「対象」と「自分」の間にいつも「同一性」を見いだす「態度」(「判断」)だ。もう一つは(い)「あまのじゃく的な態度」or「下賤なる意識」で「対象」と「自分」の間にいつも「不同性」ばかりを見いだしケチをつける「態度」(「判断」)だ。(265頁)
Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」
Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」ロ「信仰」(その2)(278-280頁)
(66)「教養の世界」は、「信仰の世界」と《「透見の世界」(「自我の否定の働き」として「地上」にとどまる)》という相反した世界、つまり「天上」と「地上」とを含む!
★「教養の世界」((BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)は、「信仰の世界」と「透見の世界」(「自我の否定の働き」として「地上」にとどまる)という相反した世界、つまり「天上」と「地上」とを含むから、この点に関しても、また「相互転換」即ち「自己疎外」があり、したがって「自己疎外精神」であるということが、どこまでも「教養」の基本的性格だ。(278頁)
《参考》ヘーゲル『精神現象学』では、(ア)「教養」Bildung は「自己疎外的精神」として、《「人倫」という「真なる精神」》と、《「道徳性」という「自らを確信した精神」》との中間的もしくは過渡的段階としての位置を与えられている。「教養」は「精神の自己疎外態」である。(イ)「教養」はヘーゲルにおいて否定的な評価を受けており「衰弱したエリート趣味」、「技巧的な知的浮薄」ともされる。(ウ)ヘーゲル『精神現象学』の歴史哲学によれば「ギリシャ的ポリス」および「ローマ的法治国家」と、「カントやゲーテによって代表される近代ドイツ」との中間にあるのが「教養」であり、「教養」は「18世紀フランスの『哲学者たち』と革命の時期」にあたる。(エ)ヘーゲルの思考の特徴である「3段階発展図式」において、「教養」は「第2段階」すなわち「対自」・「反省」・「本質」・「外化」・「分裂」・「市民社会」などに対応するものだ。つまり「教養」は「否定性」の契機であり、「否定」の機能を果たしつつ、積極的な意義を含む。(『ヘーゲル事典』弘文堂2014年)
(66)-2 まず「信仰の世界」について取り上げる:「信仰」も、「宗教」である!
★「教養の世界」に含まれる《「信仰の世界」と「透見の世界」という相反した世界》のうち、まず「信仰の世界」について取り上げよう。(278頁)
☆ヘーゲルは、ここでの「信仰」はまだ「宗教」ではないと言う。というのは「宗教」が「絶対実在を自己として意識する」ものであるのに対し、「信仰」は「絶対実在を彼岸として『表象』する」にすぎないからだ。(278頁)
☆しかしヘーゲルにとって、およそ「宗教」は「表象性」をまぬがれえないものであって、最高の「宗教」たるクリスト教でさえそうだ。(278頁)
☆だから意識発展の段階のいかんに応じて重点の置き方違うだけで、実質から言えば、ただ今の「信仰」も「宗教」であるにちがいない。(278頁)
(66)-3 最高の「宗教」である「クリスト教」の核心は「三位一体の教義」だ!①「父」なる神と、②「人の子」である賤しい大工の子と、③「聖霊」は「三位一体」だ!
★最高の「宗教」はヘーゲルにとって「クリスト教」であり、かつこれの核心は「三位一体の教義」だ。(278-279頁)
☆「三位一体の教義」において、「神」はまず①「父」として「宇宙の創造者であり摂理者」だ。①-2 しかしこれだけでは「神」自身は単に「超越者」であり「世界と全くつながりをもたない」。いいかえると「神」は「絶対」ではなく「相対的絶対」だ。(279頁)
☆かくて「絶対的絶対」たるべく、「超越神」も「受肉」して「賤しい大工の子」として「この世」に生まれ、②「人の子」となることにより、「世」は「神の世」に、「人の子」は「神の子」に、「超越神」は「内在神」となる。(279頁)
☆しかし「人の子」がただちに「神の子」ではなく、「肉を、罪を負うたもの」であるから「十字架についてその罪に死すべき」である。が「死する」ことによって、「人の子」は③「聖霊」として復活昇天して神のかたわらに座をしめることになる。(279頁)
《参考》「聖霊」:キリストが地上を去った後、信者に信仰と心の平和を与えるのは「聖霊」すなわち「信者の心に宿るキリスト」である。それでは「聖霊」も「神性」を持つのか?「聖霊」の「神性」を認めれば、キリスト教は多神教となる。この問題を解決したのが、コンスタンティノープル公会議(381)だった。「聖霊」の「神性」が認められ、「神」は、自らを同時に「父と子と聖霊なる三つの位格(ペルソナ)」の中に示す「一つの神」だと宣言された。すなわち、「父と子と聖霊」は各々完全に神であるが、三つの神があるのではなく、存在するのは一つの「実体(スブスタンティア)」、すなわち「一つの神」であると決定された。
(66)-4 「三位一体の教義」(「宗教」or「信仰」)と「教養の現実的世界」との関係:①「父の位」にあたるものは「君主」あるいは「国権」だ、②「子」にあたるものは「臣民」また「財富」だ、③「聖霊」にあたるのは、《「国権」はもとよりのこと「財富」でさえ、自分の欲求ばかりみたしていたのでは、じつは得られない》ということだ!
★ヘーゲルにとって最高の「宗教」である「クリスト教」の核心は「三位一体の教義」だが、これは「教養の現実的世界」とどういう関係にあるのか?(279頁)
☆①「父の位」にあたるものは「君主」あるいは「国権」だ。なぜなら「国権」は「普遍的」で「つねに自己同一を保つ」ものだからだ。(279頁)
☆しかし「国権」も「国権」として自分を保つためには、むしろ「財富」として自分を「個別化」して、「臣民」各自に生活上の幸福を享楽させ、彼らをいわば「子」として慈愛をもって遇することが必要だ。かくて②「子の位」にあたるものは「臣民」各自であり、また「財富」だ。(279頁)
☆ところで③(ア)「国権」はもとよりのこと「財富」でさえ、自分の欲求ばかりみたしていたのでは、じつは得られない。(イ)「財富」を獲得するにも、世のため、ひとのために、したがってまた「君主」に「奉仕」し、自分を犠牲に供し「国権」と結びつかなくてはならないし、さらに(ウ)「財富」を獲得し保つためにも、恩恵を広く世人に頒かち与えなければならない。ここに((ア)(イ)(ウ))「罪と肉とに死して『霊』にかえる」ことに相応するものがある。(279-280頁)
☆かくて①「父の位」にあたるものは「君主」あるいは「国権」、②「子の位」にあたるものは「臣民」また「財富」、③「霊の位」にあたるものはたとえば「廷臣」の「君主への献身」あるいは「財富」の「国権への還帰」だ。(280頁)
★むろん「教養の現実的世界」にも《「国権」と「財富」》との、あるいは《「即自」と「対自(対他)」》との、《「普遍」と「個別」》との「相互転換」は行われてはいる。ただしそこは「現実の世界」であるから、「転換」は必ずしも理想どおりにはおこなわれていない。(280頁)
☆しかし(※「信仰」or「宗教」は)「偶然的な現実的なもの」はこれをみんな消し捨象してしまって、ただその基礎にある「精神的な統一」だけをとりだし、しかも、これを「概念」的に把握するのでなく、「表象」によって構想すれば、「『父と子と霊との三位』のあいだの自在な三一的統一」が生ずることとなる。(280頁)
《参考1》「力」という言葉がなぜでるのか?(109頁)
☆「知覚」の段階において「個別と普遍」、「一と多」、「即自と対他」、「自と他」といった対立が、互いに他に転換して切りはなすことのできないものであることが、明らかになった。(109頁)
☆それら諸対立なかで、「一と多」という対立は、両者が切り離せないから、「一」の方もすぐ「多」になり、「多」の方もすぐ「一」になるという「相互転換」を意味した。(109頁)
☆したがって「一」というものは「多」となっておのれをあらわすべきものであり、「多」もまた「一」が外にあらわれて呈する姿にほかならないので「一」に還帰する。(109頁)
☆かくて「一と多との対立」は、「力」と「その力が外に現れた『外化あるいは発現』」の対立にほかならない。(109頁)
☆この意味で「一と多とが切りはなせない」というのは、「物」がもはや「物」でなく「力」になったことだ。(109頁)
☆「知覚」段階では「物」を知覚していたのに対して、「一」が「多」と互いに他に転換するという点から見れば、そこには「物」的でない、「制約されない普遍性」すなわち「力」がある。このような意味で、「物」とはじつは「力」なのだ。(109頁)
《参考2》ヘーゲルは「無限」について、「真無限」と「悪無限」という二つを考える。(121頁)
☆それからそれへと「無限」に続いて、どこまでいっても「対立」や「他者」が残るのが「悪無限」だ。これに対して、自分に対する「他者」が一つも残らないのが「真無限」だ。(121頁)
☆したがって、根柢に「統一」があって、その「統一」がおのれを分けて二つの「対立」を生じ、また相互転換によって一つに帰るという運動は「真無限」だ。(121頁)
☆「実在」そのものが「真無限」であることを示すのが、即ち「説明」だ。この意味でヘーゲルは、一方で「説明」は「同語反復」と悪口ばかり言っているように見えるが(Cf. 119-120頁)、実はヘーゲルは「説明」に積極的の意義を認めている。(121頁)
《参考2-2》なおヘーゲルは「説明」を通じてえた「無限性」(「真無限」)の見地、すなわち①「説明」(「無限性」という「真理」)は「思惟の主観的な運動」ではない、②「説明」はむしろ「客観そのもの、実在そのものの運動」だ、③ヘーゲルはこの「運動」を「無限性」(「真無限」)と名づける、④「実在」の「無限性」(「真無限」としての「無限の運動」)こそが「真理」だとの見地から、ヘーゲルは「シェリングにおける『対極性一致の原理』」を解釈する。(120-121頁)
《参考3》「客体」に関係する「主体」の態度、即ち「判断」には2種類ある。(265頁)
☆一つは(あ)「素直な態度」or「高貴なる意識」だ。これは「客体的に即自的なもの」を「自分の即自的なもの」に照らして「善」と判断し、「対他的なもの」を「自分の対他的なもの」に照らして「善」と「判断」する態度だ。これはいつも「対象」と「自己」との「同一性」を見いだそうとする「素直な態度」だ。ヘーゲルはこれを「高貴なる意識」と呼ぶ。《「国権」は「善」、「財富」は「善」》と「判断」する。(265頁)
☆しかしもう一つ(い)「あまのじゃく的な態度」or「下賤なる意識」がある。すなわち「国権」に対する時には、自分の「対他存在」を規準として、「国権」なんていうものは、「おのれの生活を束縛し幸福を制限する」ものだから「悪」だとし、そして「財富」に対しては自分の「即自存在」を規準として「そんな我執我欲の産物はゴメンだ」と「悪」と判断する。《「国権」は「悪」、「財富」は「悪」》と「判断」する態度だ。(265頁)
☆要するに「客体」に関係する「主体」の態度、即ち「判断」には2種類ある。一つは(あ)「素直な態度」or「高貴なる意識」で、「対象」と「自分」の間にいつも「同一性」を見いだす「態度」(「判断」)だ。もう一つは(い)「あまのじゃく的な態度」or「下賤なる意識」で「対象」と「自分」の間にいつも「不同性」ばかりを見いだしケチをつける「態度」(「判断」)だ。(265頁)
Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」
Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」