King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

『三度目の殺人』と『ハクソーリッジ』

2018年10月15日 11時36分52秒 | 映画

『三度目の殺人』

『ハクソーリッジ』

どちらもテレビで放送したのを見ました。

どちらもすごい違和感を抱きました。

三度目の殺人の三度目とは何を指すのか。

それに死刑判決という結末は、これが三度目ということなのかと

いうそもそものテーマは今の司法制度とか刑事事件制度とか

そんなものを問うことなのかということで、それならば起訴されてしまうと

90%以上の確率で有罪という現状や自白だけが唯一の証拠で死刑が確定

しまう現行の制度とか先進国とは思えない司法制度など死刑制度をとり続ける

意味合いとかこれは憲法改正より先に刑法や司法改革をすべき点でしょう。

日本では検死というのが殆どされず、死んでしまうとうやむやになり、その原因さえ

解明されず司法解剖も行われないのです。そういうことで見れば真実の解明がされない

今の裁判などまさに三度目の殺人でしかないと思えばかなり衝撃的な作品です。

ただ、そう見なければもやもやするだけのいやな映画かもしれません。

『ハクソーリッジ』はずっとこの映画前にも同じような武器を持たず助ける

兵士がいて勲章ももらったという話を見た気がして初めて映画になったのじゃ

ないよなと思いました。しかし、いくら検索してもその映画はでてきません。

それと史実とはいえ自分の信仰から武器を持たないとしたのは宗教の教えというより

個人の信条であり、アメリカに多い聖書原理主義の新興宗教を信じた人が仲間を

救ったということで、それをクリスチャンと呼んだりキリスト教徒が教えを守って

かつ国のために働いたとするのは違うと思います。まず、そういう原理主義者で兵役を

拒否した人は刑務所に入れられました。教えを守るという事ではそれでよかったのかも

しれません。映画の中で同じ教区の人で兵役に就き戦場で戦った人もいます。神との契約とか

宗教が生活と密接だった古代と違い、信仰に実践した生き方をするというのは難しい

ことです。しかし、そもそもその教えが間違っていたらということになったらこの話も

いくら勇敢に仲間を助けたからと言って美談にならないのではないでしょうか。

彼が銃を手にしない、人を殺さないという信念に至ったのは幼いころの経験や実体験により

聖書の教えを実践しようとこころに決めたことであり、それを映画でも強調したから特定の

宗教の教えとか主義が問題になることはなく個人の信仰のみがクローズアップされるように

なっています。でも、それをクリスチャンと呼んでいる人がいるのは間違いですよと一言

いいたいと思ってしまうのです。当然こういう人が仲間にいれば攻撃され激しい暴力や

仲間からの弾圧にあいますが、それにも屈せずただ助けたいと懸命に働く姿はやはり感動

的に映ります。人の心とか個人の信条をおもんばかる心があればそもそも戦争など起きなかった

のではとも思います。映画戦闘シーンはすさまじく、ハクソーリッジとは沖縄の前田高地と

言う所だそうで、この映画を見るまで全く知りませんでした。米兵の話でも当時の戦闘を

最近やっと語り出したというドキュメントを見ますが、それはまさに地獄のような出来事で

その時の悪夢はいまも続いているといいます。そういう体験を米はしているのに朝鮮、ベトナム、

イラン、イラク、アフガニスタン、リビアと戦争を続けるのでしょうか。結局、戦争をしている

為政者は前線で死んでいる人たちや難民となって逃げまどっている人のことなど考えないのです。

人類史上初めての原爆攻撃を受け、非戦の誓いから戦争を放棄するという憲法を持った国として

改めて世界平和を訴えていかなければいけないのではと思います。

今では普通に海外に自衛隊が出ていき、国際軍事演習や軍事パレード的観閲式などが実施され

本当に必要なことなのか、憲法でいう武力の威嚇にあたらないのかという疑問はいつも思うのです。

映画の中で現実に攻撃されているんだからやり返さなければ愛するものを守れないとか、国が

なくなるとか出てきますが、その前に人と人が殺しあう事態にならないようにすることはできる

はずです。守るためには攻撃してもいいと安易に武力を認めるのは簡単ですが、それが地獄の

はじまりと知れば誰も武器等持たないでしょう。つまりはそうならないように相互理解と

多様性を認める社会の構築が必要で、今強まる自国第一主義や非グローバリズムなど移民排斥など

に走る前になぜ移民が生み出されているかかつて自国主義に走り移民排斥から戦争が繰り返されて

きたことを心に留めなくてはなりません。

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柿の香り

2018年10月15日 09時38分09秒 | 珈琲

夏の暑さを受け、深まる秋に実はどこの家庭の庭の木でも

大きな果実をつけています。

ところが今時庭の柿の実をとる家庭は少なく、皆熟して道路に

落ちるに任せています。

とそういう柿の木のそばを通るとつんと酸味の香りがします。

この酸味は珈琲に共通のもので、果実性の酸味は珈琲を焼いていても

します。

ただ、皆さんが珈琲の酸味が苦手でという味とは別物です。

当店の来店者のほとんどが珈琲の酸味が苦手とおっしゃいます。

それは若い時分に飲んだ喫茶店の酸っぱくなったコーヒーを指しており、

最近のスペシャルティの酸味という魅力とは似て非なるものです。

柿の実のなっているうちの前を通ると酸っぱい香りがすると感じる人と

柿が熟したと感じる人といると思います。よく食べるものは腐る手前が

一番おいしいなどといいます。

柿などは木上で熟してしまいますから、その時に腐臭に近いものを出すものも

ありますが、おおむね熟した酸味で心地の良い香りの方が強いようです。

ただ、熟した柿が道路に落ちて汚れているのはいただけません。

果物などは実を食べてもらい種を運んでもらうという戦略の物が多いので、

腐臭がしたら動物にも食べてもらえないので腐る前に実は落ちるか枯れるか

します。

いつから人々は自分の庭の木のみを喜び収穫しなくなったのでしょう。

今年も柿やらカボスやらいろいろ戴きましたが、このほかほしかったら取に来いと

いう人がいくらもいます。どこの家もあまり手入れなどしていないので虫が食い放題で

栗なども商品価値がないのです。家庭に限らず農家でも農地が草ぼうぼうという

荒れ地のところが増えています。大雪でつぶれたハウスがいまだにそのままなんて

農家もあります。いつ辞めてもいいという人が増え何かのきっかけで手を入れるのを

やめて後は荒れ放題という事になるようです。

まずは人々の関心を個人の庭の木から放置するのをやめ空き家や空き地の改良に

取り組み過疎への対策とする時期に来たように感じる柿の香でした。

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