King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

オマー・エプスとメキ・ファィファー

2017年11月16日 13時10分20秒 | 珈琲
見直しでみているDlifeのERですが、
ロケットロマノの左手がヘリに切り落とされてしまった
シーズン9はやたらと過激なシーンが増える今後で、この
シリーズでは主役と悪役がはっきりとしていてその役割的に
悪役が結構やり返されるというシーンもあり、これがひとつ
息抜きとなり、カタルシスも生みます。

その一つがロマノの不幸なのですが、主役クラスのいい医者も
立て続けに不幸に見舞れるという救いのないところにそれを
薄めるために起きていた悪役の不幸も見ているとそういう構図
として配置されているのではないというのが見直してみた結果
です。

というのもこのロマノは結構味があるシーンが多く、口が悪く
いじわるも露骨にするものの、管理者としてできる優秀な外科医
からみると動物園のような阿鼻叫喚のERに対してはいつも辛辣な
態度で接するという立場上の態度もあり、部下の外科医のベントン
やコーディに対してもいびりこき使っていた印象しかなかったものの
見直しでは優秀な医者として尊重していて特にベントンには残留を
望んでいたにもかかわらず息子の養育権を得る裁判で勤務を犠牲に
しないと勝てなくなったため、ロマノの管理下から他所の病院で
週休五日日帰りの勤務形態をとることにしたという私的理由で
出て行ったのであり、ロマノが原因でみんな出て行ってしまう
という誤った観念も薄れました。

同じ黒人医師では、オマー・エプスとメキ・ファイファーが
ごっちゃになっていて、後にドクターハウスや蘇りレザレクション
に出ていたオマー・エプスと今のシーズン9メキ・ファイファーが
同一人物だと思っていたのですが、オマー・エプスはずっと初期の

外科インターンでベントンにしごかれて黒人は白人の三倍努力しないと
ダメだといわれて働くも電車にはねられてERに運ばれてくるという弱い
役のイメージでした。

それから比べるとドクターハウスでもレザレクションでも主役級の
演技と役を与えられ、ERでは同じ黒人短髪のメキ・ファイファーと
かぶったのでしょう。

メキの方はチェンと付き合ったりガーラントと殴り合ったりと
生意気で浮気性と問題児的な役割でマルッチやバーネットと同列の
問題児キャラだったからです。

シーズン8ではそのメキはオープニングに名前も出ないでしばらく
スペシャルゲスト枠だったので8ではテスト出演だったのでしょう。

ERの卒業生が他のドラマで主役級をやっているとなんとなく
うれしく親心のようなものまで持ってしまうのはなぜでしょう。

それだけこの長いシリーズの与えた影響の強さがあります。

そして、先日真っ暗なミューズパークを走りながらふと感じたこと
とこのドラマのことが重なりました。

先日の衆議院選で大勝利を果たした自民党が質問時間を従来とは
別の本来の議席数に応じた質問時間を戻すとしてニュースになり、
その与党の質問に疑問を呈する例として自民党の谷川弥一衆院議員が
カジノ法の審議の時に般若心経を唱えたとまたニュースになり
ました。

この映像が流れた時に般若心経の次にはさらに時間があまり、漱石論を
ぶったという報道でした。

漱石論ではいろいろと今までコメントしてきましたが、このランニング
中には漱石の作品は総じて人生つらいよ生きずらいよという嘆きのバラード
であり、世間には吾輩は猫であるであるとか坊ちゃんなどユーモアと
まっすぐな青春物語の書き手のようなイメージであるけれど実に全体は
暗く自分の生きづらさをただぶちまけただけの作家だったと言わざるを
得ないなあと思いました。

それをなぜ国会で漱石論だったのかどんなことを言ったのか逆に気にかかる
というランニング中の思考でした。

私はこの議員の質問を時間を余ったので般若心経を唱え更に漱石論をぶったと
ラジオで最初聞き、その後テレビでその時の画像を見、さらにネットで上がっている
質問の模様を聞きなおしましたが、時間が余ったから般若心経を唱えたのではなく、
大事なことが五つあり、その一つが宗教で自分の宗派である禅宗の教えを披露すべく
般若心経を唱えたのですが、全文ではなく一節であり、法案にはよい面もあるが悪い
面もありしっかりやってもらいたいという流れであり、時間が余ったからお経を唱えたというのはあまりに乱暴なまとめだと感じました。

そもそも漱石論のところは絞られていてどういう話かというのは
結局わかりませんでした。

夜のラジオで坊ちゃんの朗読があり、朗読で聞くと今までの小学校の
教科書で読んで以来感じてきた物語とまるで違うことを特に印象に刻み
この物語の持つ意味も温泉三部作などと呼ばれる作品群の持つ意味も
夜暗い中で語られる物語の暗さと恨み節の感じが強く胸を打つものが
あり、あらためてそういうことだったのかと感じたのです。

漱石没後何年としていろいろな漱石論を聞いてきましたが、最近では
その健康までが話題になり、漱石の病気が現代の医学では治せたもの
だったとか彼の残したはがきからその人となりを語るものなど聞いてみて
そんなことよりもっと本来の彼の残した悲痛な心の叫びをもっと汲み取り
人がなぜ漱石を愛し、読み継がれたのかをはっきりという必要があると
感じるのでした。

それも今月のブレンド『木枯し』のなせる技といわざるを得ません。

先月の『秋麗』からさらにより深く、濃く広がりのあるブレンドと
してつくられた木枯しはそんな物事を一つまた深く読み解くことも
良しとする心地にするものなのです。

世の中つらいよという叫びに満ちた坊ちゃんがなぜそんなに
愛され読まれ続けるのか。

そんな暗い小説が人々の心を癒すのか。

つらいよ清のように上等な人間はいないという寂しい人に
人々は共感したのでもなければ人生に絶望したのでもなく、
つらい世の中でも自分には清以上にともに歩んでくれる妻がいたり
友がいたりと人々は気が付いたのです。

決してマドンナやまっすぐな主人公の性格や卵を投げつけた
大立ち回りやターナーの絵のような島にマドンナを立たせる
という芸術論や目新しものや田舎の人と都会から来た男の
対立でもないのです。

つらいよ、苦しいよという叫びにそうだねと一旦はうなずき
しかし、自身の身の回りを見たらいやそうでもないねこうだよと
言える発見があるという作品の外にあるものを見いだせたから
人々は安心して漱石の愚痴と叫びに耳を傾けたのです。

これは他の温泉小説でも同じです。情に掉させば流されるなんて
名言な書き出しを喜んだのでなく、そんなの当り前さと感じる
自身を見つめられるから読まれているのです。

そう今月のブレンドの深い味は物事の深淵に導く力をもって
いるのでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする