古伝(古事記、旧事紀)のなかに青人草という表現があり
人を指す意味であることが知られている。
しかしながら草、植物の草に人をなぞらえ、人も植物という
学者の解釈には幼稚すぎて辟易する。
植物のように人も土に還るというのは夢があっていい、
自分は好きだと学者センセイが講義し活字になっている。
還るというのだから人が生え芽吹いてくるというわけで、
ちゃんちゃらおかしいぜと学生は言わないのであろうか。
古伝はもっと奥行きが深く、古代国語音韻の研究などを
もってしても、たやすくこじつけたりできるものではない
ことがよくわかる。
まるでテレビ並みに軽くわかりやすく大衆迎合の姿勢で
語られる言葉は胸くそが悪い。忍耐して読んだ。
好きずきは勝手だが学問の域で語るには幼稚すぎて古伝が
もったいないではないか。
生命の起源を求めて天体望遠鏡を駆使する科学者のほうに
軍配があがってもいたしかたない気になる。
我が師、カメ先生の講義は最新の物理学をコネタのように
挟みながら話は行きつ戻りつしながらイメージを喚起させ、
文語体の古伝の難解さを克服させてくれる。
字のままに勝手に想像していく気ままさはなく、厳密に考察を
重ね、そのことでよりリアルに近づこうとする。
専門外の知識を新たに知ることも要求されるけれども、そこを
追求するわけではないので情報としての知識レベルでいい。
古伝の記述が昔にはわからなかったが今だから何を指して
いるのか理解することができるわけだ。
それとイメージの展開とひらめき。こじつけではなく。
古伝だからリアルでなくていいというのは間違っている。
現代人が今の感覚で知るかぎりの常識をあてはめて解釈
したあげく結局、荒唐無稽な物語と結論づけるのは傲慢な
ことである。荒唐無稽なとは意味のないことと言うのと
同じで、そんなにバカにした話もないだろう。
おのれの無能と想像力の欠如を棚に上げてはいけない。
古伝とは死者の言葉である。
死をもてあそぶなかれ、という叫びが聞こえる。
もう数百年以上、いや千年と数百年かな、死が死から遠のき
軽んじられてきている。
死は象形である。
死をおろそかにしない。
死をもてあそばない。死は言葉ではなく一生のカタチである。
人も動物も草も木も皆、生まれて死を経る。
死という勲章。
生きている者から勲章を奪われては死を全うできない。
死を死として認め、地に刻まれ、生きている者の胸に刻み
つけなければ全うしない。
死は奪われない。生きたものの一つの到達。
その勲章に位階はない。
なにびともそれに位をつけることはできない。
死は死者のものであるから。
死をもてあそんではならない。
生きたことの、そのままの象なのだから。
そうあるべくしてすべて生まれてきた。
死は、いかなる死も、その時を迎えて尊い。
死がもたらすのは平等である。
abcの呼称に、死者は貶められない。
ある死は、死を想う人によって全うされる。
神社ではなく、神のもとへ還る道すじがあるのだから
生きる者は障壁になってはならない。
死を悼むとは、道を開けること。
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靖国神社という装置は、人の死を、人の御霊を軽んじる
ために作られたと、時の総理及び閣僚の参拝問題が明らかに
してしまった。
宮司預かりならよしとするというA級戦犯合祀の理屈も
戦犯と指されることも、御霊には迷惑な話。
敬っているのか軽んじられているのか…
生々しい欲によって汚しているだけではなかろうか。
遺されたその他大勢の人々の静謐で厳粛な祈りを
かえって奪い続けてはいないだろうか。
靖国神社は政治によって作られたのだから政教分離の建前が
適用できない。つまり現世の欲に翻弄される場所なのである。
鎮魂にふさわしい場所にはなりようがない。
これもまた戦争の傷跡である。
わたしは死を弔う日々に縁を得て、古伝に出会った。
古伝にというよりカメに救われ、そして学ぶようになった。
死の世界は、蘇りと、命の世界であった。
それまで死は恐れと悲しみの淵でしかなかったから、驚き、
知ることは喜びであった。
仏教の修行では辿りつけなかった世界だった。
いままたその原点を思い起こすことで、このところ続いた心身の
強ばりがようやくほぐれていきそうな気がしている。
夜更けに、たどりついた感覚。
死によって人は生きることを知る。
死を忘れれば、人は驕り堕落する。
生をおろそかにしてしまうともいえる。
五感を研ぎ済ませば、死も生も混沌として身の周りに、
隣に迫り、異界ではないことがよくわかるはずだ。
怖れず、尊ぶことである。