奈良時代以降わが国の官僚による
神道と仏教の政治利用はすさまじい。
天皇と宗教者はそれを止められず
むしろ、おのれの地位を維持すべく
私腹を肥やす者たちと手を結んだか、
圧力に負けたのか、いずれにしても
官僚のあくどさは今に引き継がれて
いる。
私心あるところに神は己現せず。
神職憲法の第十六条は後世の過ちを
予見していて興味深い。
「(前略)釈氏の自意を以て修い、
神祇をして成仏たらしめんと以て
浄土に送りまつる等の法においては
永えにきめてとどめ、僧をして
おこなうことを得せしむことなかれ」
僧侶が神域で祈祷をし神を降ろそう
としたりすることを禁じたものだ。
奈良時代末期は、早良親王の怨霊
退治に陰陽師と僧侶が活躍した。
桓武天皇周辺のみならず、災難は
都一帯に広がって治らなかった。
祈祷も効めなく方策が尽きた。
あげくの果て咎人と断罪した筈の
早良親王に祟道天皇と称号を奉り
さらにその怨霊を鎮めるための
神社を造った。これは神道の鎮魂
の方法でない。
これらは御霊信仰のはしりであり、
飛鳥時代にはなかった考えである。
神道では怪奇をもって説くことを
厳しく戒め、邪道とされたからだ。
密教僧空海が重用されるようになる
下地が、この騒動の頃にできた。
疚しさが募って恐れ、猜疑心が生じ
苛まれ、そこにつけ込む宗教者が
いて、すがりつく。この悪循環は
自らを禊ぐことを伝える神官が
いれば、断つことができたのでは
なかろうか。
または慈悲を諭す僧がいれば…。
(疚しくないけどスリスリ)
この事件はそもそもが新興仏教勢力と
仏教伝来時よりの伝統を踏まえた南都
仏教との勢力争いが背景にあった。
宮廷政治に高僧が関与しすぎたことが
要因を作り、そして対抗勢力はそれを
改めさせるのではなく新興の仏教勢力
を用いた。どっちもどっちである。
争いの根にあるのは官僚の権力闘争で
あった。ましてや道を説き人を導く
立場で政治の外にあるべき宗教者自身が、
道を外してしまえば、混乱は避けられない。
仏教は伝来以来、僧は国の保護を
受けていた。それが次第に財力を蓄え、
官僚と同等の影響力を持つに至った。
本来は無欲、無闘、無我に生きるのが
僧(和合衆)の道で仏の教えであった
はずなのだが。お釈迦さまからみれば
堕落である。
釈氏憲法第一条に
「(前略)欲、怒を生じ、己我を発し
和徳を失い闘争を為すは廃倫の盗びと
なり(後略)」とある。
仏道から外れた僧は盗人同然と。
また釈氏憲法の第十一条に
「効験の有無は僧たる者の徳に有らむ」
とある。徳なくば、神はおろか、仏も
降臨しないと諭している。これは僧
に限らず神官でも道士でも同じだ。
祈祷したにもかかわらず天災も疫病も
治まらず、国も民も疲弊した。
平安時代に続いた混乱は武士の台頭を
招き朝廷はその権力を完全に失っていく。
法を修して私すれば邪道となる、の
結果である。
怨霊に負けたのではなく自滅である。
古代憲法の前文に
「高慢にして以て新たに異則を立て
政を為さばその世はおだやかならず、
社稷(朝廷、国家)は必ずひさし
からざらむ」とある。
失ってから悔いても遅いのだ。
古道の戒めは破られ続ける。
明治政府は新たな国家建設の核として
神道復興を画策した。この影響が
現在にまで及んでいるといえる。
公務員化した神官は祈るよりも帳簿
つけが仕事になったのである。
死を悼むのはヒトだけではない。
象は仲間と身内の死を悲しみ墓を
作るという。
死者は墓へ埋葬し弔う。古今東西、
古代から人はそうしてきた。
墓石があってもなくても、死者の霊を
敬い慰め、弔う気持ちを表した。
それが人の自然な素直な姿である。
(未だカナシミを知らず…太っちょ)
昭和の太平洋戦争で戦死とされる兵士の
多くが餓死である。
大岡昇平の「野火」より現実は悲惨で
あったろう。
銃後の人々もまた無差別の空襲で焼け
出され、傷つき、命を落とした。
死んだ人を弔うのはその人が生きていた
時を知る人の役目である。
悲しみ悔やみ悼む心が死者を慰め、
送ることができる。
これらのごくあたりまえのことを
腐敗した政治家と官僚がねじ曲げたまま
未だに誠実に死者を送ることをしていない。
古代を想うのは、人々が今よりもまだ
誠実であったことを感じることができる
からだ。
そこへいっきに戻ることはもうできない
と思うけれども、まっとうで率直な言葉に
励まされ、まだ立っていられるのである。
神道と仏教の政治利用はすさまじい。
天皇と宗教者はそれを止められず
むしろ、おのれの地位を維持すべく
私腹を肥やす者たちと手を結んだか、
圧力に負けたのか、いずれにしても
官僚のあくどさは今に引き継がれて
いる。
私心あるところに神は己現せず。
神職憲法の第十六条は後世の過ちを
予見していて興味深い。
「(前略)釈氏の自意を以て修い、
神祇をして成仏たらしめんと以て
浄土に送りまつる等の法においては
永えにきめてとどめ、僧をして
おこなうことを得せしむことなかれ」
僧侶が神域で祈祷をし神を降ろそう
としたりすることを禁じたものだ。
奈良時代末期は、早良親王の怨霊
退治に陰陽師と僧侶が活躍した。
桓武天皇周辺のみならず、災難は
都一帯に広がって治らなかった。
祈祷も効めなく方策が尽きた。
あげくの果て咎人と断罪した筈の
早良親王に祟道天皇と称号を奉り
さらにその怨霊を鎮めるための
神社を造った。これは神道の鎮魂
の方法でない。
これらは御霊信仰のはしりであり、
飛鳥時代にはなかった考えである。
神道では怪奇をもって説くことを
厳しく戒め、邪道とされたからだ。
密教僧空海が重用されるようになる
下地が、この騒動の頃にできた。
疚しさが募って恐れ、猜疑心が生じ
苛まれ、そこにつけ込む宗教者が
いて、すがりつく。この悪循環は
自らを禊ぐことを伝える神官が
いれば、断つことができたのでは
なかろうか。
または慈悲を諭す僧がいれば…。
(疚しくないけどスリスリ)
この事件はそもそもが新興仏教勢力と
仏教伝来時よりの伝統を踏まえた南都
仏教との勢力争いが背景にあった。
宮廷政治に高僧が関与しすぎたことが
要因を作り、そして対抗勢力はそれを
改めさせるのではなく新興の仏教勢力
を用いた。どっちもどっちである。
争いの根にあるのは官僚の権力闘争で
あった。ましてや道を説き人を導く
立場で政治の外にあるべき宗教者自身が、
道を外してしまえば、混乱は避けられない。
仏教は伝来以来、僧は国の保護を
受けていた。それが次第に財力を蓄え、
官僚と同等の影響力を持つに至った。
本来は無欲、無闘、無我に生きるのが
僧(和合衆)の道で仏の教えであった
はずなのだが。お釈迦さまからみれば
堕落である。
釈氏憲法第一条に
「(前略)欲、怒を生じ、己我を発し
和徳を失い闘争を為すは廃倫の盗びと
なり(後略)」とある。
仏道から外れた僧は盗人同然と。
また釈氏憲法の第十一条に
「効験の有無は僧たる者の徳に有らむ」
とある。徳なくば、神はおろか、仏も
降臨しないと諭している。これは僧
に限らず神官でも道士でも同じだ。
祈祷したにもかかわらず天災も疫病も
治まらず、国も民も疲弊した。
平安時代に続いた混乱は武士の台頭を
招き朝廷はその権力を完全に失っていく。
法を修して私すれば邪道となる、の
結果である。
怨霊に負けたのではなく自滅である。
古代憲法の前文に
「高慢にして以て新たに異則を立て
政を為さばその世はおだやかならず、
社稷(朝廷、国家)は必ずひさし
からざらむ」とある。
失ってから悔いても遅いのだ。
古道の戒めは破られ続ける。
明治政府は新たな国家建設の核として
神道復興を画策した。この影響が
現在にまで及んでいるといえる。
公務員化した神官は祈るよりも帳簿
つけが仕事になったのである。
死を悼むのはヒトだけではない。
象は仲間と身内の死を悲しみ墓を
作るという。
死者は墓へ埋葬し弔う。古今東西、
古代から人はそうしてきた。
墓石があってもなくても、死者の霊を
敬い慰め、弔う気持ちを表した。
それが人の自然な素直な姿である。
(未だカナシミを知らず…太っちょ)
昭和の太平洋戦争で戦死とされる兵士の
多くが餓死である。
大岡昇平の「野火」より現実は悲惨で
あったろう。
銃後の人々もまた無差別の空襲で焼け
出され、傷つき、命を落とした。
死んだ人を弔うのはその人が生きていた
時を知る人の役目である。
悲しみ悔やみ悼む心が死者を慰め、
送ることができる。
これらのごくあたりまえのことを
腐敗した政治家と官僚がねじ曲げたまま
未だに誠実に死者を送ることをしていない。
古代を想うのは、人々が今よりもまだ
誠実であったことを感じることができる
からだ。
そこへいっきに戻ることはもうできない
と思うけれども、まっとうで率直な言葉に
励まされ、まだ立っていられるのである。