想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

YouTube大西つねき氏 「都知事選総括」を視聴して

2020-07-07 15:50:28 | Weblog
(下野草・シモツケソウが咲いた)

れいわ新選組の大西つねき氏が都知事選を
YouTubeで総括されていたのを見た。
いろいろあるだろう感情的なことは抜きにして
数字の話、今回の得票が持つ意味について。
結論は、れいわの候補者ひとりひとりが山本
頼みではなく自力で訴える力、言葉を持たねば
支持が広がらない、だから自分も含めて、
候補者それぞれがこれから努力しようという
檄であった。いつもの和やかな話しかたで、
そういうことを言われた。



それはそうだろう、と思う。
だが、貧困層へ的を絞っての街宣演説は
中間層の共感を得られず、裾野が今ひとつ
広がらなかったという見方は、果たして
そうだろうか。 アンケートの
「70%が自分は貧困ではないという答えは
そう思わされているからなんですよ」という
コメントを受け、そうかもしれない、確かにと
最後に付け加えられていたが。
であれば、その思い込みを解くためには
どうすればいいか、どう話せばいいか、と
大西さんは言われた。

本当の気持ちは同じなのだろうが
それにしても、やはり選挙で負けるという事、
そしてあの得票率を目の前にすると‥‥
落ち込まないで、次の備えに切り替えて
方向性を打ち出そうとしているのは
頼もしいが、少しだけ違和感が残った。

それはやはり感情の問題なのだった。
理不尽なことに直面したときに誰でも
多少は傷つくから。
しかし感情は初心を忘れさせもする。



山本太郎を支持する理由は一つ。
政治に最も必要で大事なことから的を
外していないからだ。
的を得ている政治家はそんなにはいない。
政治は多忙でもある。
いくつもの法案の中で、何を優先させるか、
政治の眼が確かでなければ的を絞るのは
難しい。利権と結びつくのを当然と思って
いる政治家は自分の都合で的を決める。
山本太郎には今のところ私利私欲という
余計な荷物としがらみがない。

今回の都知事選はコロナ対策を前面に
訴えていたが、それは彼がずっと前から
やってきた貧困対策の延長にあるものだ。
コロナだから急に言っているわけではない。
街中を歩いて人々に声をかけ、話を聞いて
きたから机上のデータや理論で物を言う
のではない。実感をともなった話を、
感情的だという人もいた。そんなことを
いうのは恥ずかしいことなんだが。

本当のことをそのまま言わない日本人の
変な美徳みたいな習慣からすれば、
山本太郎の話し方、演説はキワモノという
悪口になるのだろうが、中身を聞いてくれ
と思う。そして、その中身があなたの胸に
響かないならば、少しも共感しないならば
あなたがどうかしているのだと、私は思う。



仕事場は東京だが、住民票はない私は
もっぱら友人知人に声かけをした。
もう前からだから、ほとんどが即オーケー
もちろんだよ、太郎推しでやってる、という
返事が返ってきた。ああ、とほっとする。

政治家山本太郎を信頼し、期待するのは
世の中を良くしたい、悪がまかり通る今の
現実を変えたいという気持ちがその人に
あるからで、人として当然の選択なのだ。
自分の都合がかかっているからではなく、
良い社会を、と考えるのが人の道である。

住む場所がなく路上にうずくまる人を
見捨てない社会、ご飯を食べられない子ども
個人の小さな店や障がい者や弱い人に
明日への道を開く、そういう道を模索し
考える人に政治を託そうと考えるのは、
その人自身がそう生きたいからだ。

平気で嘘をつく人々が当たり前の顔をして
破壊してきたこの二十年、地崩れする
ように、善悪の分別という社会の基盤が
壊れ続けている。今や、真実は隠されるのが
あたりまえという最悪の状況だ。
中国、北朝鮮と嗤っている場合ではない。

大西さんのいう困難はよくわかる。
しかし、根本理念を支えているのは
山本太郎の優しさであり、清さであり、
そこに集結した前の参院選の候補者
たちも同じ共通点を持っていた。
党紀とかいうもので縛らずゆるやかに
結びつき活動するという方針も、従前の
政党とは異なっている。
それぞれの専門性と経験と個性を活かし
た布陣でのスタートに目を見張った。

都知事選で、れいわの候補者が応援演説
に呼ばれなかった、呼ばれるくらいに
ならないといけないと大西さんは話したが
「大西さん街宣に来ないかな」という
ツイートを見かけたことがあったので、
呼ばれずとも行けばよかったのにと思う。
山本太郎のゲリラ街宣とは別に、自前で
チラシ配り、れいわののぼりを立てて
駅頭演説をしていた渡辺てる子さんの
ような前候補者もいたし、それぞれの
場所で頑張っていた。
それはいいことだと思った。



古い日本の悪しき因習と慣習を破るには
従前の党のあり方ではできない。
野党統一候補の条件に妥協せずに自党
単独での立候補は困難であったにせよ、
妥協して当選しても志を遂げることは
なお困難なのだから正しい選択だった。
この正しさは、そう簡単にできることでは
ない。(宇都宮さんが不本意だろうが、
政策で妥協してみえたのは残念だった)

その不器用にも映る正しい男を熱く支持
する人たちを信者と呼ぶのは間違いだ。
信者とは教祖の色に染まるものだ。
山本太郎はそれを望んではいない。
力を貸してくれ、いっしょに闘ってくれという
だけである。

一緒に闘うとは、どうすればいいのか。
それは山本太郎が打ち出した政策を
よく知ること、よく考えることから始まる。
頼みにしているからよろしくということ
ではなく、自ら知り考え、理解し、共感
してこそ闘う力となるだろう。

一塊の熱を周囲に波及させていくには
知の力は必要である。あの人は信じられる、
いい人、ということではなく政策の話だ。
それはこの国に生きている人に無関係な
ことは一つもなく、まわりまわって自分に
めぐってくる問題だ。
そのしくみを知ることが政治の膿を出す
改革につながる。


(石ころに紛れるセキレイちゃん)

SNSは熱狂だけではない。理路整然と
170字を繰り返して伝える人もいる。
「#検察庁法改正案に反対します」の抗議に
加え、元最高検検事の清水勇夫氏が書いた
意見書は新聞に掲載され大いに話題になった。
虚飾なく、説得力ある名文であった。
ロッキード事件捜査に粘り強くあたった
検事の真骨頂である。
その後、文春砲も効いて黒川氏は辞任に
追い込まれ、また法案も流れたが、
清水先生には、時期を逸せず正しい行動を
とることができる信念の大切さを改めて
教えられ、励まされた。

正しいことを心の底から表す人の言葉に、
声に、人は勇気を得ることができる。
山本太郎を一生懸命支援する人に共通
するのは感動という言葉だ。 そして、
自分が受け取った感動を誰かに伝える
とき、同じ熱量で伝えられるかどうか
自分の本心が問われる。
もらった勇気を誰かにあげるための
本心。

大西さんは数字の話をしながら、冷静に
とか言いながら、冷静ではなかったけれど
やはりいつものように心の話からズレては
いなかったのかもしれない。
大西つねき氏が国会で山本太郎とともに
立つ日が遠くないことを願っている。













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