想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

待つか待たぬか

2013-10-13 01:45:14 | Weblog

待てと言われて、待てないとしか思えず思い詰めた頃が
あった。特に若いじぶんは待てないヒトであったばかりに
問題をひきおこすこと度々であった。
一晩が待てないか、と自分でももてあますほど思い詰める。
それはあとで思うだけのことで、その時は一晩も一時も同じで
結論をみるまでは気が済まなかった。
三十路手前でいつか身の破滅だと自分に言い聞かせるように
なりはしたが、待てない性分が変わったわけではなかった。
失敗したり傷ついたりで疲れ、諦めも覚えてきただけだ。



待て、犬にステイというとその場でとどまって動かない。
ステイをわたしに教えてくれたのはカメである。
先生はステイとは言われなかったが、ほぼ同じようなもので
ある。待て、以外に言われなかったからだ。
ある問いをし、その答えが待てであることに苛立ち、繰り返し
尋ねるわたしに待てと言ったはずだ、と答えられた。
待つ気になっていないわたしに対して、あなたは目の前にある
ことに専念しなければならないのではないか、と諭された。

待て以外に答えがないとしぶしぶ引き下がり、目の前の仕事に
頭を切り替えた。それしかなかったからだが。
待てが数年続いた。
その間、目の前の…が続いた。
数年たって、わたしが得た答えは待つの意味であった。

事情や問題に関わらず、時と「まどき」というものが定まっている。
それがいつかなのかと人は知りたがり、尋ねる。
待ては、まだ先だから待っていよ、ではないが、知りたいという
「私」がある者にはまだ先のことだろうとしか受け取らない。
いつ私ののぞみが叶うかという問い、すなわち「何時」を知りたいと
いう言葉には成就することを強く求める気持ちが籠められている。
強ければ強いほど「いつ?」と尋ねる。なぜ、でもいかにでもなく
いつ、である。
しかし「まどき」は「私」あるところに顕われない。
顕われないというのは、たとえそこにあろうとも見えないし
了解も納得もしないという頑迷さゆえに理解しないということだ。

願い、そして願った以上はそれは預け、今に生きるという無私を
教わったのだった。
(親鸞聖人の他力本願はこの意味を持つが、現代人もあの時代の
浄土真宗の信者たちもただ頼ればいいと誤解し、都合のいい解釈をし、
親鸞を嘆かせた「歎異抄」)

犬はステイを覚える前は騒々しいし、まるでいうことをきかない。
ステイの意味を了解すると、ステイしているだけである。
ステイしながら今か今か動いていいよと言われるのを待っているなら
その犬はまだ完全にステイをマスターしていない状態である。
ステイを覚えた犬はおだやかに、安心した顔でいったん静止する。
静止しくつろいでいる。
緊張を強いるステイが必要な時とは主人が緊張状態にある時だけだ。



人が待てないとき、それは信じる何をも持たないときではなかろうか。
数年かけて学んだ待つよろこびと楽しさは、そのまま生きる意味とも
通じていた。

「先生の言われた通りにされるのはなぜですか」とたまに尋ねられ、
どうしてその質問か? と訝しく思っていたが、わたしが先生を
先生だと呼んでいる意味をその人にくどくどしく話すのも面倒なので
その方が楽だからですと答えた。

その方が必ずよい結果になるのです。
先生の門を叩く以前のように、待ちくたびれ死んでしまおうなどと
思わずに済むし、結果を待っていたことをそのうち忘れます。
目の前にあることに色々と気づき、没頭してしまい忙しいのです。
ありもしないことに先走って頭を使うよりも、一つづつ片付けている
今が楽しくてしあわせともいえます。努力はそのためにならします。
簡単にはいかないように思えることも、結局は一つ一つですから。
先生に教えていただいたら、言われたこと以外にすることはありません。
下手の考え休むに似たりですから、それで道を外したくないのです。

と、まあ、そんなことを質問した人に答えるのは無駄だと思う…。
期待されるのはそんな話ではないことが世間知らずでもわかるように
なった、遅いけれど。
同時に「信じる」という意味も世間で思われているそれと真の意味の
間に溝がありすぎることも気づいた。だから信じるやいなやなどという
話はしない。言おうものなら偏執狂扱いか自己喪失?などとバカものの
大きな声が返ってきそうだ。
信が消え失せた世にあっては慎重になってしまう。

早い話が言われた通りにできないその人との違いは「私」があるか
ないかのことで、あなたは有りでこちらは無い、指をひらひらと
「ワ・タ・ク・シ・問題」と言い両手を合わせ「ワタクシ問題ね」と
繰り返して合掌してみせたい(笑)。

人は諸々、私を入れて無駄を作り出していると、しみじみ思う。
さかしらな自分だったことが今もとても恥ずかしい。時折思い出すし、
そうならないようにいつも気をつけているから問うた人には多くを言わず、
そのほうが楽、と言ったのだった。たぶん待てない人なのだろう。

ぷ~ちゃんはさかしらじゃなくて、ほんにカシコイ子だった。
ま、天然ってことだけど。
ステイが上手にできたね。
















コメント
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