想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

日本語のこころ、古人の声

2013-08-27 15:38:58 | 

言霊という言葉はよく知られていて、現代では広汎な意味に
使われるようになっている。
そもそものところ、出典はどこかということをわきまえているのは
歌詠みをする人か国文学に親しむ人くらいかもしれないが。
万葉歌人が言霊という言い方をしたのにはそれなりの意味、
感情、感性がともなってのことであった。
今の人がコトダマとカタカナで書いたり、kotodamaと表記
したり、あるいはやたらと魂をつける風潮の一つとして言霊が
使われるのとわけが違うのであった。



TPP交渉の結果が日本にどういう影響と結末をもたらすのか
を憂える時、私はこの「言霊の行方」について想いが重なる。
やまと言葉から言霊が忘れられ始めたのは8世紀半ば頃から
であり、平安遷都でそれは一気に加速していった。

心と徳を重んじた聖徳太子の没後、百年とかからない衰退
ぶりである。
先代旧事本紀編纂の成り立ちと過程を知れば、これらの事の
推移は驚くこともない当然の成り行きともいえる。

ちなみにネット上、ウィキペディアで聖徳太子を知ったつもり
になるのはやめたほうがいい。
記述のほとんどが誤りだからだ。
仏教の庇護者としての聖徳太子像は、奈良時代から政治に
多大な影響力をもった奈良仏教、南都六宗の都合のいい
捏造である。当時の日本では仏教は新興勢力であった。



なにもかも唐に学べと模倣し、学問も教養も唐でなければ
値打ちがない、そういう風潮のなか、先祖伝来のやまとの
言葉は漢の文字によって退けられていく。
新しいものに飛びついて古きはさっさと捨ててゆく。
値打ちとは出世か否か、金になるかならないか、物質的な
ことである。これは世情でもあり、先導したのは政治であった。
仏教、儒学、道教、これら遣唐使の土産に当時の天皇、公家
達が傾倒し、屈服した結果といえる。

飛鳥から奈良時代へかけて、いわば日本が国としての形を
整えようとした黎明期には言霊はまだ死に絶えてはいなかった。
瀕死ではあったろうがまだ人々の中に生きていた。
その証が「万葉集」にある歌の数々である。
天皇、貴族から詠み人知らず、防人、上から下まで貴賤を
問わず読み継がれ語り継がれた歌が収められた。

ところが平安時代、勅撰の古今和歌集ともなると様子が違う。
色彩豊かな万葉集にひけをとらぬよう形を整えるのに編者の
紀貫之は序文を添えてやまとの歌ごころとは何かを示し、
歌の価値にまで言及した。

下々まで歌詠みであった時代、歌に心を寄せ、気持ちを表す
術とした時代には容易にできた歌撰びが難儀な大仕事で
あったことがうかがえる。
事挙げは言葉挙げである。朝廷は唐風へ激しく傾く政情に
対して改めて歌の復興を企てることで対抗ざるをえなかった。
そうして歌は久方ぶりに表舞台に蘇ったが、歌合せなどという
形式は貴族文化に過ぎず、古来から受け継がれた言霊として
の歌のこころとはかけ離れたものであった。
素朴な「もののあわれ」を詠んだ古人の歌は歌詠みの崇敬は
集めても、技巧や形式を重んじる時代に求められる言葉では
なくなっていた。



人の世は言葉で始まる。

世は歌につれ歌は世につれという歌謡曲の紹介ではなく
人々のこころのありようが言の葉にどうしても現れる。
そして今は擬音の時代である。
言の葉ではなく事の葉なのだ、悲しいかな。
言霊の霊などどこにも見当たらない。
探す人も求める人も少ない。
たまさか、そういう人がいるとすれば、その人は逆境にあえぐ
人なのだ。フクシマの人々のように。ミナマタの人のように。

けれども、もういちど、平安時代の悪あがきではないが、
胸の奥に眠っているはずの言霊に耳を澄まし、こころの
音を聴いてから唇へ載せる、筆先を走らせる、そのような
時間を取り戻せないだろうか。

話すのも聞くのも厭になったこのごろ、古人の声に耳を傾け
怠惰と諦めに負けるわけにはいかないと己を叱咤している。









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする