想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

たくましく

2010-09-03 09:39:52 | Weblog
たくましく、ひたむきな、~と歌声が聴こえてくるなうJ-WAVE。
なんという歌か知らないが、胸を打つほどではないが、歌詞と
このコブチャの、汚れたデカイからだでこちらをジッと睨む目が
このタイミングでシンクロしている。

知人が亡くなった報を聞いた昨日、夜から朝へ時が過ぎたが。
たくましく生きなかった人、昨日の夕暮れの光、そして今朝の
まばゆい朝陽はもう見えないのか‥。

生きることは、光を見いだすことであると思う。
闇に迷っているとき、光がないのではなく光を忘れていた。
光など、思ったこともなかった。
薄暗く、漆黒でもなく、ただじめじめとしたところを歩く心地を
今も忘れてはいない。

わたしは、生きる力をカメに教えていただいて、それ以上の
さまざまなことを合わせて知ってきたのだが、もっとも重要なのは
生きよ、と示され、その理由がわかったことである。
それを知るとき、光は降ってくる。
からだじゅうをとりまく、光の束がある朝突然みえてくる。
オカルティズムではなく、ほんとうに目が悪かったんじゃないかと
思うくらい、見えていなかった陽光がそこにあるのである。

人の五管をマイナス思考の五感が鈍らせてしまう。
光が見えたからと言って霊能でもなんでもない、感じて正常だ。
人は光を感じていてあたりまえだから、ことさらに意識しない、それが
健康である。そうやって光を受けて一日、一日、生きていられる。
それを意識できることが単に息をしているではなく活きることにつながる。
感じて感謝することができる。

死はひとつの境である。
この境を越えるのは生きているときに思うほど簡単ではない。
いや、生きているときにはわからないのであるからしかたがない。
旧事本紀の第三巻陰陽本紀、第四巻黄泉本紀、第四三巻経教本紀
は死を教える巻である。いにしえの人はそれを知って、伝えている。

まだこの世につながっている時なら人はそれを学び、越えて先へ旅立つことができる。
学び方は人それぞれ、学ぶ段階もそれぞれ、けれども知らなければ行くことが
できない。金持ちもビンボー人も学者も役人も蕎麦屋の出前持ちもコギャルも
人みな等しい定めである。
学んできたことの中でこれが最も重要なことのような気がする。
なにせ、かつてわたしは長いあいだ、死にたがる子であったから。

だから「ご冥福を祈ります」という言葉だけで片付けられないのが、本心での
死者を悼む気持ちである。


コメント
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