墨汁日記

墨汁Aイッテキ!公式ブログ

真夜中

2005-11-27 21:46:02 | 駄目
「真夜中の弥次さん喜多さん」を観てしまった。
 己を排除するのは愛する者ではない。愛を確信できない自分であるというお話だ。


徒然草 第百四十二段

2005-11-27 19:25:49 | 徒然草
 心なしと見ゆる者も、よき一言はいふものなり。ある荒夷の恐しげなるが、かたへにあひて、「御子はおはすや」と問ひしに、「一人も持ち侍らず」と答へしかば、「さては、もののあはれは知り給はじ。情なき御心にぞものし給ふらんと、いと恐し。子故にこそ、万のあはれは思ひ知らるれ」と言ひたりし、さもありぬべき事なり。恩愛の道ならでは、かかる者の心に、慈悲ありなんや。孝養の心なき者も、子持ちてこそ、親の志は思ひ知るなれ。
 世を捨てたる人の、万にするすみなるが、なべて、ほだし多かる人の、万に諂ひ、望み深きを見て、無下に思ひくたすは、僻事なり。その人の心に成りて思へば、まことに、かなしからん親のため、妻子のためには、恥をも忘れ、盗みもしつべき事なり。されば、盗人を縛め、僻事をのみ罰せんよりは、世の人の餓ゑず、寒からぬやうに、世をば行はまほしきなり。人、恒の産なき時は、恒の心なし。人、窮まりて盗みす。世治らずして、凍餒の苦しみあらば、科の者絶ゆべからず。人を苦しめ、法を犯さしめて、それを罪なはん事、不便のわざなり。
 さて、いかがして人を恵むべきとならば、上の奢り、費す所を止め、民を撫で、農を勧めば、下に利あらん事、疑ひあるべからず。衣食尋常なる上に僻事せん人をぞ、真の盗人とは言ふべき。

<口語訳>
 心ないと見える者も、よき一言は言うものだ。ある荒夷の恐しげなのが、かたわらに向かって、「御子はおはすか」と問いたのに、「一人も持ちません」と答えたならば、「さては、ものの哀れは知られませんな。情ない御心ですぞ(子を)おもちなさらんとは、とても恐しい。子、故にこそ、全ての哀れは思い知られる」と言ったりした、さもあるべき事だ。恩愛の道ならでは、こんな者の心にも、慈悲あるんだ。孝行の心ない者も、子持ってこそ、親の心は思い知るのだ。
 世を捨てた人の、全てに独り身なのが、おしなべて、絆多い人の、すべてにへつらい、望み深いのを見て、無下に思いけなすのは、間違った事だ。その人の心になって思えば、まことに、かなしいかな親のため、妻子のためには、恥をも忘れ、盗みもしちまう事だ。されば、盗人をいましめ、間違った事をのみ罰するよりは、世の人が餓えず、寒くないように、世を治めてほしいのだ。人、つねの利益ない時は、つねの心ない。人、窮まって盗みする。世治らないで、凍えや餓えの苦しみあれば、前科者たえることない。人を苦しめ、法を犯させて、それを罪する事、ふびんのわざだ。
 さて、いかがして人を恵むべきとなれば、上の奢り、費すことを止め、民を撫で、農を勧めれば、下に利ある事、疑いようもない。衣食尋常なる上に間違った事する人をこそ、真の盗人だと言うべき。

<意訳>
 心がないかのように見える者でも良い事は言うものだ。
 ある恐ろしげな東の荒武者が、かたわらの人に向かって、こんな事を言っていた。
「あなたには子供はおありですかな?」
「いや、一人もいないのです」
「それはおそろしくさびしい事です。子をもってこそ哀れも理解できるというもので、子供がいるからこそ、全ての哀れを思い知らされるというものです」
 当然だ。愛を知ったが故に、こんな者の心にも、慈悲の心が生まれる。親孝行の心がない者でも、子を持ちゃ親の心が思い知らされる。
 世捨て人である法師が独り身なのは当たり前だけど、世間に絆が多い人達をけっして笑ったりしてはいけない。
 子を持つ父の心になって考えるなら、悲しいけれど老いた両親のため、妻や子のため。なんにでもへつらい、がっつき、恥をも忘れる。子が餓えないためなら盗みさえはたらく覚悟だ。だから、世の施政者の方々はどうかこんな人達を苦しめないでやってほしい。世間の人は生活が安定した上でないと、心を静かに安定できない。人は困って盗みをはたらく。世の中が荒れて、我が子が凍えて餓えるなら、罪を犯す父親は絶えないだろう。人が苦しみ法を犯さざるえない状態においておきながら、罪人を罰するだけの国は、どこかおかしい。
 なら、いかにして世を治めるか。
 施政者が贅沢をあらため、民をささえ、農業に力を入れる以外に方法はないだろう。衣食住が足りていながらも、悪事をはたらく者が本当の罪人である。

<感想>
 前段から引き続き、京都の人間が馬鹿にする関東の人間の、ちょっといい人の話の二本立てである。
 俺は関東人なので、兼行の背骨なバックボーンにある、京の人間の関東人に向ける侮蔑の感情は理解できないが、それはどうでもいい。兼行は京都生まれで、昔の人だろうとも、俺には兼行なんである。それで良い。

原作 兼行法師


徒然草 第百四十一段

2005-11-27 15:16:41 | 徒然草
 悲田院尭蓮上人は、俗姓は三浦の某とかや、双なき武者なり。故郷の人の来りて、物語すとて、「吾妻人こそ、言ひつる事は頼まるれ、都の人は、ことうけのみよくて、実なし」と言ひしを、聖、「それはさこそおぼすらめども、己れは都に久しく住みて、馴れて見侍るに、人の心劣れりとは思ひ侍らず。なべて、心柔かに、情ある故に、人の言ふほどの事、けやけく否び難くて、万え言い放たず、心弱くことうけしつ。偽りせんとは思わねど、乏しく、叶はぬ人のみあれば、自ら、本意通らぬ事多かるべし。吾妻人は、我が方なれど、げには、心の色なく、情おくれ、偏にすぐよかなるものなれば、始めより否と言ひて止みぬ。賑はひ、豊かなれば、人には頼まるるぞかし」とことわられ侍りしこそ、この聖、声うち歪み、荒々しくて、聖教の細やかなる理いと辨へずもやと思ひしに、この一言の後、心にくく成りて、多かる中に寺をも住持せらるるは、かく柔ぎたる所ありて、その益もあるにこそと覚え侍りし。

<口語訳>
 悲田院尭蓮上人は、俗姓は三浦の某とかやら、双ない武者だったらしい。故郷の人が来られて、物語して、「吾妻人こそ、言う事は頼まれる、都の人は、事受けのみよくて、まことない」と言ったのを、聖、「それはそうこそ思われても、己れは都に久しく住んで、なれてみますに、人の心おとるとは思いません。おし並べて、心やわらかに、情あるゆえに、人の言うような事、たやすく断り難くて、すべて言い放ち得ない、心弱く事受けする。偽りしようとは思わないが、乏しく、叶わない人のみあれば、自然と、本意通らない事多くなるようです。吾妻人は、我が方だけど、じつは、心の色なく、情おくれ、たんに健やかなものなので、はじめより否と言って止める。栄えて、豊かならば、人には頼られるのです」と道理語られましたのこそ、この聖、声うち歪み、荒々しくて、聖教の細やかな教理少しもわきまえてないかもと思ってたのに、この一言の後、心にくくなって、(法師)多い中に寺をも住持なせられるのは、こんなやわらいだ所あって、その益もあるのでこそと覚えました。

<意訳>
 悲田院の尭蓮上人は、俗姓は三浦のなんとかやら、並ぶ者ない武者だったらしい。
 ある日、尭蓮上人の元へ、故郷の相模の国から知り合いが来て、いろいろと語りあった。
「東の人は、言う事が信頼できる。京の人は、受け答えのみよくて、真実がない」
 とその故郷の知り合いが言うので、尭蓮上人は、こう答えた。
「それはそうですが、都に久しく住み慣れますと、べつに京の人の心が東の人に比べて劣るとは思えません。京の人は、おし並べて、心優しく情ある人が多く、人の頼みを簡単に断れなくて、あんまりハッキリと言わず、なんとなく頼みを引き受けてしまいます。別にだまそうとかそういうわけではないのに、貧しくて、自分の日々の生活がやっとの人が多いので、自然と、約束が守れないような事にもなるようです。東の人は、我が故郷の人だけど、じつは、心の色なくて、情におくれ、たんにぶっきらぼうなので、はじめから嫌だと言ってキッパリ断れます。また東の人は、家も栄え豊かなので、無理な頼みは断ったとしても、まだ人に頼られるのです」
 と道理を語られましたので、今まで尭蓮上人のことなんか、関東なまりが荒々しい仏の教えもわきまえていない東夷としか思っていなかったけれど、この一言に心ひかれた。
 これだけ法師が多いなか、わざわざ寺をまかせられ住職をやっているのも、こんな柔らかい心や、人柄もあるからなのだろう。

<感想>
 前にも書いたが、この「日記」で使われている「徒然草」の原文はコピペなんかでない。一字一句、この右手の中指と左手の中指でタイピングしている労作なのだ。大変なんだけど自分で実際に書き写してみないことには内容が良くわかんないから仕方ない。
 最初は本をテキストにしていた。本を横においてそれを見ながら原文を書き写していた、しかし、本を見ながら文章を書き写すのは非常にしんどい、写し間違いも多くなる。
 それで、最近は、ネットから拾ってきた「徒然草」のテキストをエディターにコピーして、それを見ながらタイピングするようにした。
 これだと、モニターを見ながらまったく同じ文字を打込んでいけばいいだけなので、大変にラクだ。写し間違いがなければ改行されるところも同じにそろうはずなので、一行づつ写し間違いのチェックもできる。
 本を見ながら、書き写していた時は、本→キーボード→モニターと視線がめまぐるしく移動して、よく目を回していた。しかし、最近では目線の移動はキーボードとモニターの間だけ。大変な進歩であると言うか、キーボードを見ないで打込める様になれよと言うか。
 ネットからひろってくる「徒然草」のテキストは、吾妻利秋さん訳の「徒然草」の原文を愛用させていただいてる。
 こんなところからなんですが、いつも勝手にお世話になっております。ありがとうございます。
 さて、出来上がった結果だけ見ると、サラサラとタイピングしている様にも見えなくもないが、じつはやっぱり意外に苦労している。この段の最初にある「悲田院」にしても、「悲しい田んぼ院」と入力した後に、いらないひらがなを削除して「悲田院」とやっと入力しているのだ。このように古文をコンピュータに入力するのは非常に手間。まぁ、最近は色んなテクを覚えたから少しはラクになったけどね。
 ちなみに「悲田院」は、身寄りのない病人や老人、孤児などを収容した寺であったそうだ。かって、仏教に力があった頃は、寺がボランティア施設として機能していた。そんなお寺の住職だった尭蓮上人は、優しくて思慮深い人であったのだろう。

原作 兼好法師


うまそう

2005-11-27 11:36:34 | 駄目
tikann


 冬のスズメは丸まると太っていて、なんかうまそうだ。
 とは思う、しかし、むかし居酒屋で「スズメの丸焼き」を実際に食った事があるが、食いにくいうえ、食うところもあんまりなくて、そんなにうまいものじゃない。
 むしろ、まんま毛をむしったスズメが串にささって出てくるので、グロテスクとも、可愛そうとも思ってしまい、見た目で食欲が減退してしまう。注文した以上、残さず食ったけどね。

 今日は良く晴れた。
 矢川緑地に散歩に行くと、沢山のカモが「かもねかもねそうかもね」と朝飯あとのおくつろぎタイムの時間だった。
 カモは、クチバシを羽根の間に差し込んで丸くなっている。目だけを閉じたり開いたり、首をかしげたりして水たまりにたたずんでいる。なんだか可愛い。
 この時期の鳥は、越冬の為か、冬毛のせいか、みんな丸々と肥えている。
 カモを眺めながら、ついうまそうと思う。スズメはともかくカモは確実にうまいかも。いや、うまいはずだ。むしろ激ウマのはずである。そう思いながら、カモがくつろいでいるのを歩道に座り込んでずっと見ていた。
 しかし、矢川緑地のカモは人間に対して警戒心が薄すぎる。こんなにもカモに対して食欲を抱き、邪心をもって眺めている人間がすぐ側にいるのに、平気でのんびりくつろいでいる。街にうろつく狼どもの邪心も知らず、はしゃいでいる赤ずきんちゃんと一緒だ。
 
 矢川緑地の鴨は、ほとんどがカルガモなのだが、どういうわけか一羽だけ青首のマガモがまじっている。どこからはぐれて紛れ込んだのだろう。