墨汁日記

墨汁Aイッテキ!公式ブログ

徒然草 第百二十九段

2005-11-15 21:01:16 | 徒然草
顔回は、志、人に労を施さじとなり。すべて、人を苦しめ、物を虐ぐる事、賤しき民の志をも奪ふべからず。また、いときなき子を賺し、威し、言ひ恥かしめて、興ずる事あり。おとなしき人は、まことならねば、事にもあらず思へど、幼き心には、身に沁みて、恐ろしく、恥かしく、あさましき思ひ、まことに切なるべし。これを悩まして興ずる事、慈悲の心にあらず。おとなしき人の、喜び、怒り、哀しび、楽しぶも、皆虚妄なれども、誰か実有の相に著せざる。
 身をやぶるよりも、心を痛ましむるは、人を害ふ事なほ甚だし。病を受くる事も、多くは心より受く。外より来る病は少し。薬を飲みて汗を求むるには、険なきことあれども、一旦恥ぢ、怖るることあれば、必ず汗を流すは、心のしわざなりといふことを知るべし。凌雲の額を書きて白頭の人と成りし例、なきにあらず。

<口語訳>
顔回は、志し、人に労を施さないとだ。すべて、人を苦しめ、物を虐げる事、賤しき民の志をも奪ってはならない。また、あどけない子をすかし、おどし、言い恥ずかしめて、興ずる事あり。大人らしい人は、まこと(の事とし)なければ、事でもない(と)思うけど、幼い心には、身にしみて、恐ろしく、恥ずかしく、情けなく思い、まことに切なるはず。これを悩まして興ずる事、慈悲の心にいない。大人らしい人の、喜び、怒り、哀しみ、楽しみも、みな虚妄なれども、誰もが実有の相に執着する。
 身をやぶるよりも、心を痛ませるのは、人をそこなう事なお甚だしい。病を受ける事も、多くは心より受ける。外より来る病は少し。薬を飲んで汗を求めるには、結果ないことあれども、いったん恥じ、怖れることあれば、必ず汗を流す(の)は、心のしわざだということを知るべき。凌雲の額を書いて白頭の人となった例、なくもない。

<意訳>
 孔子の第一の弟子であった顔回は、人に苦労をかけないことを志した。
 全ての人や動物、これらを苦しめたり、虐げたり、乞食の意志さえ侵してはいけない。
 また、幼い子供をおどしたり、すかしたりして言い恥ずかしめて面白がる人がいるが、大人なら気にもしないような何でもない事でも、幼い心には身にしみて、恐ろしく恥ずかしくて情けない、本気で悲しい。
 幼い子供をからかって楽しむ人間には慈悲の心が無い。
 喜び、怒り、悲しみ、楽しみ。こういった感情はみんな虚妄であるが、大人でさえ現実にあるものだと思い込んでしまう。子供であるならなおさらだ。
 グーで殴られるよりも「お前はパーだ」と口で言われた方がこたえる時もある。病気の多くも、外から来る病いは少なく、ほとんどは気の病いだ。「汗をかいて熱を下げる薬」を飲んでも、汗の一滴もでないこともあるが、怖れるものに近づく時に必ず汗をかくのは心の仕業だ。
 二十五丈(約80メートル)の高さまでカゴで吊るされて「凌雲の額」を書き、下りてきた時には、白髪となっていた人の例もある。

<感想>
 この段の話は、別に現代の精神科医が、優しくわかりやすく「心の仕組み」を語っているわけではない。ほぼ700年前の人間の文章である。香山リカ先生の「優しい精神分析学講座」でもなんでもない。ぜんぶまるごと兼行が自分の頭で考えた事だ。まだフロイトもユングも生まれていない時代の人間の書いた文章である。頼りとする思想は紀元前の宗教家や古代中国の賢人の言葉だけだ。
 現代人には、なにを今さら当たり前の話でも、兼行は全て自分の頭で考えて書いている。

原作 兼好法師