古賀百工翁は、うち続く旱魃や水害に見舞われ、
貧しさにあえぐ農民たちが安定した生活をするには治水しかないとの思いから、
自分の一生を治水事業に捧げた。
その事業一つが堀川の改良工事と新堀川の増設工事であった。
取入口水門が現在の切抜水門に変更されたのは享保7年(1722年)で、
内径は5尺(1.5m)であったが水量も豊富となり新田も増加した。
百工翁は堀川の恩恵に浴しない長渕・余名持・下座郡中村方面の難渋を見るにつけ、
この方面へ灌漑する用水路の新設を計画した。
宝暦9年(1759年)切抜水門を10尺(3.0m)に拡張し、
次の年には筑後川の井堰の嵩上げ、
古毛柴田橋から田中突分までの堀川の川幅拡張工事、
同年から明和元年(1764年)までの5ケ年の歳月を費やして、
タライに水をはったり、曲がり尺を用いたり、高提灯で高低を測ったり、
当時の簡単な測量技術で恵蘇宿水神社境内の「月見の石」と
下座郡城力の庄屋の庭にある銀杏の頂上が同じ高さであることを見極め、
確固たる自信をもって長渕・余名持・下座郡へ流す新しい堀川(堀川南線)を作った。
この新堀川の完成によって灌漑面積は370町歩となった。