![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/bc/99a69ad7e9e17d2e5377a11e9e9d90c7.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/a9/86e2ba79a8fc0cb39e4dc31baa5b75c3.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/6f/98344b036eb5cc5e1b5406c9453c614e.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/b9/cb764bff50e56fb88289d9e1f9fd8f37.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/e7/0a49d95c3999e10ef78e08cf6aba7dac.jpg)
赤穂城は、正保2年(1645)に常陸国笠間から入封した浅野長直が、
近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、
慶安元年(1648)より13年以上に亘る歳月を費やし、
寛文元年(1661)に完成したものです。
城郭の縄張りは近藤正純の指導のもと甲州流軍学によるもので、
一部、二之丸枡形虎口付近は山鹿素行が設計変更したと伝えられています。
本丸と二之丸は輪郭式、二之丸と三之丸の関係は梯郭式になっており、
近世城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城とされています。
城郭の規模は、10の隅櫓、12の諸門があり、曲輪の延長は2,847mに及んでいます。
塁石、防壁、諸門、本丸御殿などが整えられ、
居城としての威容が示されましたが、天守台のみ築かれて天守は構築されませんでした。
三代続いた浅野家ですが、刃傷事件により断絶し、
その後は永井家、次いで森家の居城となりました。
明治の廃藩置県後、赤穂城は払い下げられ、屋敷地は民有地となりました。
しかし城郭復興の気運が高まり、大正元年(1912)には三之丸に大石神社が建立、
大正14年(1925)には二之丸に山鹿素行銅像が建立されるなどしました。