goo blog サービス終了のお知らせ 
不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

飯塚市庄内町 『 筑前竹槍一揆 』 紫村一重

2013-12-19 05:30:41 | 文学・文化・映画作品



『 筑前竹槍一揆発生の地 』 日吉神社

















紫村一重は筑豊・直方に生まれた戦前からの農民運動家で、
戦後は直方市の市史編纂委員や直方郷土研究会会長、
同市文化財専門委員会委員長を務めるなど、郷土史研究に打ち込んだ。
『 筑前竹槍一揆 』 は、紫村が若い時から農民運動に打ち込んで来た思いを込め、
8年の歳月をかけて昭和48年 ( 1973年 ) に完成させ、葦書房から刊行した。

この 『 筑前竹槍一揆 』 は、明治6年 ( 1873年 ) 、
福岡県嘉麻郡高倉村 ( 現・飯塚市庄内町 ) から始まり、
穂波郡から鞍手郡、遠賀郡、粕屋郡、さらに夜須郡まで広がった百姓一揆について、
埋もれた文書や古老の話など、膨大な資料をもとに史実に基づいてまとめ上げた小説である。


福岡県は、現在と違い、筑後は三瀦県、豊前は小倉県と言い、
旧福岡藩領・秋月藩領に当たる筑前地域だけが福岡県であった。
その福岡県の東端、嘉麻郡(現在の嘉穂郡の一部)高倉村日吉神社で雨乞をしていた人々が、
小倉県との境にある金国山で昼は紅白の旗を振り、
夜は火を焚いて合図をしている者があるのを知って、抗議に押し掛けた。
これは「目取り」と言って、米相場の高低を山伝いに連絡して一儲けしようという連中だった。

これをきっかけに、筑前全域を舞台に2週間近くに及んだ筑前竹槍一揆が起こるのである。
きっかけは金国山の出来事に過ぎなかったが、一揆が筑前全域へと広がったのは、
底流として民衆の間に政府への強い不満があったことが考えられる。
この前後、西日本各地に同じような大規模な一揆が起こっていた。
太陽暦もそうだが、政府は矢継ぎ早に欧米にならった近代化を推し進めた。
廃藩置県・地租改正・断髪令・徴兵令…。

神仏分離政策により、路傍の神仏を撤去し、時には合祀したり、神号を変更したりと、
それまで民衆の慣れ親しんだ世界が上からの改革で、うむを言わさず変更されていった。
民衆の多くが、これからの生活に不安を覚え、政府に不信感を抱いたとしても無理はない。
一揆は、政府の進めた文明開化政策のありとあらゆる出来事を、廃止の対象として数え上げた。

筑前竹槍一揆の発生の地となった日吉神社は、現在の飯塚市庄内町高倉にあり、
小説では、 「 日吉宮は嘉麻郡高倉村の村はずれの、見上げるような高い丘の上に、
うっそうと茂った老樹に囲まれて鎮座していた。
定例の祭日のほかは参拝する人も少なく、境内は落ち葉と苔に埋もれて、
ひっそりと眠っているようであった。 」 とある。

紫村一重は、明治41年 ( 1908年 ) 直方市に生まれた。
若くして小作争議や炭坑争議、解放運動にかかわった。
戦後も農民運動に従事し、昭和30年 ( 1955年 ) まで直方市議を務め、
その後は郷土史研究会に没頭し、昭和37年 ( 1962年 ) から
昭和53年 ( 1978年 ) まで直方市史編纂委員として直方郷土研究会や
古文書研究会にも尽力した。
平成4年 ( 1992年 ) 、本書の大幅な改訂論文の脱稿を目前に83歳で没した。



北九州市戸畑区 『 若山牧水の歌碑 』

2013-12-12 04:48:41 | 文学・文化・映画作品



JR戸畑駅北口にある 「 若山牧水の歌碑 」





       われ三たび此処に来りつ 
       家のあるじ 
       寂び定まりて 
       静かなるかも



JR戸畑駅の北口を出ると正面に 「 若山牧水の歌碑 」 がある。
生涯を旅と過ごした牧水は、戸畑の地を三度訪れており、
そのことを詠った歌碑であろう。


若山 牧水 ( わかやま ぼくすい ) 本名 : 若山 茂は、
宮崎県東臼杵郡東郷村(現・日向市)の医師 ・ 若山立蔵の長男として生まれる。
1899年(明治32年)宮崎県立延岡中学校に入学。
短歌と俳句を始める。18歳のとき、号を牧水とする。

1904年(明治37年)早稲田大学文学科に入学。
同級生の北原射水(後の白秋)、中林蘇水と親交を厚くし、「早稲田の三水」と呼ばれる。
1908年(明治41年)早稲田大学英文学科卒業し、7月に処女歌集『海の声』出版。
翌1909年(明治42年)中央新聞社に入社したが、5ヶ月後に退社。

1911年(明治44年)創作社を興し、詩歌雑誌「創作」を主宰する。
歌人・太田水穂を頼って長野より上京していた後に妻となる太田喜志子と水穂宅にて知り合う。
1912年(明治45年)友人であった石川啄木の臨終に立ち合う。同年、喜志子と結婚。
1913年(大正2年)長男・旅人(たびと)誕生。その後、2女1男をもうける。

1920年(大正9年)沼津の自然を愛し、
特に千本松原の景観に魅せられて、一家をあげて沼津に移住する。
大正11年10月、御代田駅より岩村田へ向かい、
佐久ホテルに逗留し、数々の作品を残す。
1926年(大正15年)詩歌総合雑誌「詩歌時代」を創刊。
この年、静岡県が計画した千本松原伐採に対し、
新聞に計画反対を寄稿するなど運動の先頭に立ち、計画を断念させる。
1927年(昭和2年)妻と共に朝鮮揮毫旅行に出発し、
約2ヶ月間にわたって珍島や金剛山などを巡るが、体調を崩し帰国する。
翌1928年夏頃より病臥し、自宅で死去する。享年43才であった。
沼津の千本山乗運寺に埋葬される。戒名は古松院仙誉牧水居士。

牧水の死後、詩歌雑誌「創作」は歌人であった妻・喜志子により受け継がれた。
長男・旅人も歌人となり、沼津市立若山牧水記念館の第2代館長をつとめた。


牧水は旅を愛し、旅にあって各所で歌を詠み、日本各地に歌碑がある。
大の酒好きで、一日一升程度の酒を呑んでいたといい、
死の大きな要因となったのは肝硬変である。
ちなみに、夏の暑い盛りに死亡したのにもかかわらず、
死後しばらく経っても死体から腐臭がしなかったため、
「生きたままアルコール漬けになったのでは」と、
医師を驚嘆させた、との逸話がある。
自然を愛し、特に終焉の地となった沼津では千本松原や富士山を愛し、
千本松原保存運動を起こしたり富士の歌を多く残すなど、
自然主義文学としての短歌を推進した。


また、情熱的な恋をしたことでも知られており、
喜志子と知り合う前の園田小枝子との熱愛は有名なエピソードである。
出身地・宮崎県では牧水の功績を称え、
1996年(平成8年)より毎年、短歌文学の分野で傑出した業績を挙げた者に対し
「 若山牧水賞 」 を授与している。



福岡県直方市 『 火を投げし如くに雲や朴の花 』 野見山朱鳥

2013-12-10 04:59:41 | 文学・文化・映画作品



多賀公園にある 「 野見山朱鳥の歌碑 」











直方駅の近くに、こんもりとした丘の上に多賀神社があり、
その裏手にある多賀公園の中腹に 「 野見山朱鳥の歌碑 」 がある。

野見山朱鳥は直方市に生まれ、直方を拠点に活躍した俳人である。
戦時下、結核療養中に俳句に親しみ、高浜虚子に認められて戦後の俳壇に一気に躍り出た。
朱鳥は 「 ホトトギス 」 同人として活躍したが、師である虚子の 「 花鳥諷詠 」 に満足せず、
次第に写生とは生命を写すことという 「 生命諷詠 」 を主張するようになった。
晩年は独自の活動を行って、日本の俳句史にひとつの足跡を残した。


 火を投げし如くに雲や朴の花

これは昭和21年 ( 1946年 ) 12月に、六百号を迎えた 「 ホトトギス 」 の巻頭を飾った句である。
空に向かって火を投げたように雲が赤く輝いている。
その一方に無心に立つ朴の木の芳しい白い花びらがある。
朱鳥は終生、火を愛した俳人といわれ、火をうたった作品が多い。
また、いったんは画家の道を志して上京したが、病魔に阻まれて挫折した経験を持っている。
その火は絵画的で、優れた情景描写であると同時に、生命感の表出でもあるといわれている。

弧の句碑は、朱鳥が亡くなって二年後の昭和47年 ( 1972年 ) に直方市の多賀公園に建てられたもので、
句碑の裏には 「 苦悩や悲哀を経て来なければ魂は深くならない 」 という一節が刻まれている。
朱鳥は、この魂の叫びを俳句に定着させるかに一生をかけたといってもいいだろう。


野見山朱鳥、本名 : 野見山正男。
大正6年 ( 1917年 ) 直方市に生まれる。
鞍手中学 ( 現・鞍手高校 ) を卒業後、3年間闘病生活を送る。
その後、上京して就職し、その傍らで画家を目指したが、病気が再発する。
昭和17年 ( 1942年 ) から療養生活に入る。
昭和24年 ( 1949年 ) に 「 ホトトギス 」 同人になり、翌年 『 曼珠沙華 』 を発表。
昭和27年 ( 1952年 ) 俳誌 「 菜殻火 ( ながらび ) 」 を主宰した。
昭和45年 ( 1970年 ) 52歳で没する。

主な作品に句集、 『 天 馬 』 『 荊冠 ( けいかん ) 』 『 運 命 』 、
俳論集、 『 純粋俳句 』 『 俳句への招待 』 などがある。
没後、 『 野見山朱鳥全句集 』 が刊行された。



福岡県鞍手町 「追われゆく坑夫たち」 上野英信

2013-11-29 04:44:31 | 文学・文化・映画作品



鞍手町歴史民俗博物館








鞍手町で開かれている 「 炭坑 ( やま ) の仕事 」 展





24日の日曜日、みやこ町の寺田川古墳を皮切りに、
田川市ー直方市ー中間市ー鞍手町ー小竹町ー飯塚市ー嘉麻市ー川崎町をめぐった。
その行程の中で立ち寄った鞍手町の 「 鞍手歴史民俗博物館 」 で、
「 炭坑 ( やま ) の仕事 」 展が開かれていた。

鞍手。そして炭鉱といえば・・・
昭和39年 ( 1964年 ) に 「 筑豊文庫 」 を鞍手町に創設し、
坑夫の記録と資料を集成した上野英信 ( うえのえいしん ) であろう。

上野英信は昭和22年 ( 1947年 ) 、京都大学を中退して炭鉱の坑夫となり、
その後一貫して炭鉱労働者の生活と労働を負い続けたルポルタージュ作家である。
中間市で谷川 雁、森崎和江らと 「 サークル村 」 運動の中核を担い、
その後、鞍手郡鞍手町に移った。

『 追われゆく坑夫たち 』 は、昭和35年 ( 1960年)に岩波新書から刊行されたもので、
上野の代表作のひとつである。
筑豊炭田は、ほぼ一世紀近く全国の半分の石炭を産出し、日本の近代化を支えて来た。
大資本経営の炭鉱の陰で中小炭坑では非人道的労働がまかり通り、
エネルギー革命によりそれはますます苛酷になっていった。

「 苛烈きわまりない地底の 『 奴隷労働 』 は、彼らの持てる限りの財産と健康と生活を
収奪し去ったばかりではなく、彼らの人間としての微かな欲望のすべてを残酷無慙に
叩き潰してしまった 」

上野は昭和23年 ( 1948年 ) から28年 ( 1953年 ) まで、
各地の炭鉱を転々としながら、最低辺で呻吟 ( しんぎん ) する坑夫たちの叫びを記録し続けた。
「 追われゆく坑夫 」 は、自らの体験をもとに書かれたもので、
あまりに厳しいリアルな現実が各方面に衝撃を与えた。

その後も上野は、晩年まで文学運動や記録活動を続け、
昭和59年(1984年)から61年(1986年)にかけて
『 写真万葉録・筑豊 』 ( 昭和62年、日本写真協会賞受賞 ) を刊行した。


主な著書、 「 せんぶりせんじが笑った! 」 「 地の底の笑い話 」
「 どきゅめんと・筑豊 」 「 天皇陛下萬歳ー爆弾三勇士序説 」 「 出ニッポン記 」 などがある。

昭和62年(1987年)64歳で没した。




福岡県直方市 ・ 林 芙美子 『 放浪記 』 文学碑

2013-11-27 04:55:20 | 文学・文化・映画作品



「 私は古里を持たない 旅が古里であった 」 林 芙美子 文学碑 








芙美子が大正時代に住んでいた須崎界隈












『 放浪記 』 といえば、森 光子を思い浮かべる方も多いだろうが、
「 放浪記 」 の原作は林 芙美子である。

林芙美子は、少女時代極貧の放浪生活をバネとし、
題材にもして文学修業を重ね、人気作家となった。
小説の主人公はすべて女性で、
それもひたむきな人生の中にいる庶民の女の哀歓を平易な記述で描き続けた作家である。

「 放浪記 」 は昭和3年 ( 1928年 ) 、
当時の文芸雑誌 「 女人藝術 」 に連載されたデビュー作で、
昭和5年 ( 1930年 ) に単行本にされ、60万部という大ヒットとなった。
筑豊・直方を中心に行商人の父母と放浪生活を送った少女時代の思い出に始まり、
広島県尾道の高等女学校を卒業して上京、カフェの女給や事務員、
夜店の物売りなどで苦しい生活をしながら詩や童話を書いていた20歳から22、3までの
日記をまとめたものである。

芙美子は大正4年 ( 1915年 ) から5年 ( 12歳の頃 ) にかけて直方に居て、
「 直方の町は明けても暮れても煤けて暗い空であった。
砂で濾した鐵分の多い水で舌がよれるやうな町であった 」 と書いている。

当時、直方は炭鉱が繁栄期を迎え始め、各地からさまざまな人が流入して来ていた。
芙美子と両親は直方市周辺の炭鉱街を行商して回った。

「 放浪記 」 からは、直方とこれらの人々に対する並々ならぬ愛着が感じられ、
これがその後の彼女の小説の骨格を作って行ったと考えられる。
その後、炭鉱が次々に閉山し、直方の町も大きく変ぼうしたが、
芙美子が住んでいた直方市須崎町界隈は、入り組んだ狭い路地に銭湯や駄菓子屋が残り、
当時の面影をしのばせている。



福岡県吉富町 ・ 『 若き坑夫の像 』 橋本英吉

2013-11-16 04:56:56 | 文学・文化・映画作品



山国川の向こうに吉富町幸子 ( こうじ ) 集落がある








山国橋







田川の石炭資料館にある 「 橋本英吉の文学碑 」







田川の石炭資料館にある 「 炭鉱夫之像 」








山国川と山国橋







炭鉱夫之像と伊田第1竪坑櫓・大煙突




橋本英吉、本名 ( 白石亀吉 )は、明治31年(1898年)福岡県築上郡東吉富村幸子、
( 現・築上郡吉富町 ) に生まれた。
6歳の時に父と死別し、白石家 ( 叔母 ) の養子になる。
高等小学校卒業後、職を転々とし、大正15年 ( 1926年 ) に横光利一の紹介で
「 文芸時代 」 に処女作 『 炭脈の晝 ( ひる ) 』 が載り、注目される。
昭和3年 ( 1928年 ) に発表した 『 棺と赤旗 』 はプロレタリア文学に橋本英吉ありと
印象付ける代表作となった。

昭和20年 ( 1945年 ) から妻の故郷の静岡県に住み、
気象観測所で働く科学者夫妻の苦闘を描いた 『 富士山頂 』 は、戦後の代表作である。


長編小説 『 若き坑夫の像 』 は、死ぬ2年前の昭和51年 ( 1976年 ) に
新日本出版社から刊行された。
故郷の吉富町と筑豊を舞台に坑夫の前半生を描いた自伝小説である。

「 東山民平は福岡築上郡吉富村幸子 ( こうじ ) に、1898年1月10日に生まれた。・・・
幸子は人口300人足らずの農村で、・・・百メートルほど離れたところを、
西から東に山国川が流入する周防灘があり、
対岸は大分県中津町 ( 現・中津市 ) である 」 の書き出しで始まる。
これは、若き日の作者を彷彿させる作品である。

主人公、民平は小学校卒業後、働きながら講義録で独学を続ける。
谷川菊江と知り合い婚約する。
坑木泥棒の嫌疑で留置場で厳しい取り調べを受けたあと出所して菊江を訪ねると病床にあり、
やがて彼女の臨終を迎える。

主な著書に、 『 嫁支度 』 『 市街戦 』 『 炭坑 』 『 欅の芽立( 文學界賞 ) 』
『 筑豊炭田 』 、 歴史小説 『 忠義 』 などがある。




北九州市小倉北区 「 杉田久女・句碑 」

2013-11-14 05:58:55 | 文学・文化・映画作品



小倉北区堺町公園内にある 「 花衣ぬぐや纏はるひもいろいろ 」 の句碑













小倉の飲み屋街がある堺町の一角に杉田久女の句碑が建っている。
久女はこの界隈で暮らし生活をしていた。
そのとき詠まれた句が多くあり、その中でも代表的な二句を紹介したい。


「 足袋つぐやノラともならず教師妻 」


季題は<足袋>で冬。久女の夫は美術学校(現、東京芸術大学)出の画家。
実業家でもなければ政治家でもない。
いわば未知数の芸術家をあえて夫と定めた久女には、
それなりに新生活に期するところが大きかっただろう。
しかし、その夫は彼女の思惑に反して、教師としての生活のみに明け暮れ、
自分の芸術活動は全く忘却し去ってしまう。
一方、教師としての生活は楽ではない。
この頃出入りして俳句の手ほどきをしていた橋本多佳子の家の暮らしぶりを目のあたりにして、
その大きなギャップを思わざるを得なかったであろう。



「 朝顔や濁りそめたる市の空 」


久女の代表作。既に二女の母だった三十八歳(1927)の作である。
「市(いち)」は、彼女が暮らしていた小倉の街だ。
このころの久女は、女学校に図画と国語を教えに行ったり、
手芸やフランス刺繍の講習会の講師を勤めるなど、充実した日々を送っていた。
そうした生活が反映されて、まことに格調高く凛とした一句となった。
今朝も庭に咲いた可憐な朝顔の花。
空を見上げると小倉の街は、はやくも家々の竃(かまど)からの煙で、うっすらと濁りはじめている。
朝顔の静けさと市の活気との対照が、極めてスケール大きく対比されており、
生活者としての喜びが素直に伝わってくる。

朝顔は夏に咲く花だけれど、伝統的には秋の花とされてきた。
ついでに言えば 「 ひるがお科 」 の花である。
久女は虚子門であり当然季題には厳しく、秋が立ってから詠んだはずで、
「 濁り初めたる市の空 」 には、すずやかな風の気配もあっただろう。
当時の小倉の空は、濁り初めても、かくのごとくに美しかったと思われる。



杉田久女は、高級官吏である赤堀廉蔵と妻・さよの三女として鹿児島県鹿児島市で生まれる。
父の転勤に伴い沖縄県那覇市、台湾嘉義県・台北市と移住する。

1908年(明治41年)東京女子高等師範学校附属高等女学校
(現・お茶の水女子大学附属中学校・高等学校)を卒業。この間に一家が上京する。
1909年(明治42年)旧制小倉中学(現・福岡県立小倉高等学校)の美術教師で、
画家の杉田宇内と結婚し、夫の任地である福岡県小倉市(現・北九州市)に移る。

1911年(明治44年)長女・昌子(後に俳人・石昌子となる)誕生。
1916年(大正5年)兄で俳人の赤堀月蟾が久女の家に寄宿する。
この時に兄より俳句の手ほどきを受ける。それまで久女は小説家を志していた。
『ホトトギス』に投句を始め、1917年(大正6年)ホトトギス1月号に初めて出句。
この年5月に飯島みさ子邸での句会で初めて高浜虚子に出会う。

1922年(大正11年)夫婦揃って洗礼を受けクリスチャンとなる。
1931年(昭和6年)帝国風景院賞金賞を受賞。
1932年(昭和7年)女性だけの俳誌『花衣』を創刊し主宰となる。しかし、5号で廃刊となった。
1934年(昭和9年)中村汀女・竹下しづの女などとともにホトトギス同人となる。

1936年(昭和11年)虚子よりホトトギス同人を除名される。
除名の理由は現在も明らかになっていない。
しかし除名後も虚子を私淑しホトトギスへの投句を続けた。
太平洋戦争後の食料難により栄養障害をおこす。
1946年(昭和21年)1月21日、栄養障害に起因した腎臓病の悪化により
福岡県筑紫郡太宰府町(現・太宰府市)の福岡県立筑紫保養院で死去、享年57。

愛知県西加茂郡小原村(現・豊田市松名町)にある杉田家墓地に葬られた。
戒名は無憂院釈久欣妙恒大姉。1957年(昭和32年)長野県松本市の赤堀家墓地に分骨される。
ここに記された「久女の墓」の墓碑銘は長女・昌子の依頼で虚子が筆を取った。



竹下しづの女 『 緑陰や矢を獲ては鳴る白き的 』 句碑

2013-11-11 00:03:41 | 文学・文化・映画作品



行橋市中川にある彼女の生家に近い長狭川沿いに建つ句碑







「 緑陰や矢を獲ては鳴る白き的 」










その句碑は、勝山から行橋を流れる長狭川沿いにある。

竹下しづの女 ( たけした しづのじょ、1887年3月19日-1951年8月3日 ) は、
日本の俳人。本名は静廼 ( シズノ ) 。

福岡県京都郡稗田村中川 ( 現・行橋市 ) 出身。
福岡女子師範学校 ( 後の福岡教育大学 ) 卒業後、6年間の教員生活を経て結婚。2男3女を儲ける。
育児の傍ら本格的に句作を始め、 「 天の川 」 を主宰する吉岡禅寺洞を知り、指導を受ける。

大正9年に高浜虚子が主催する「ホトトギス」の巻頭を飾り、彗星のように俳壇に登場し、
中央の俳壇でも認められるようになった。
しづの女の句は、母の心と子供の成長の様子、そして貧困の苦悩など、
生活そのままを大胆に表現している。
杉田久女とは同世代だが、久女とは生き方も句も対照的であった。

「 天に牽牛地に女居て糧を負う 」

昭和20年 ( 1945年 ) しづの女は、農地確保のため博多から帰郷し、
田小屋を建てて五反の田を作り、米を博多の子女へ一人で運んでいた。

今夜は七夕である。天の牽牛星は織女星と会うが、
私とは関係のない世界のことで、ここ地上には私という女が居て
夜道に食糧の荷を負って運んでいる。

この慣れぬ重労働で少なからず健康を害したようであった。


しづの女の句は、理知的な手法で、女性の自我や自立を詠った作品が多い。
代表句として 「 短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉 ( すてつちまおか ) 」 が知られる。
昭和12年 ( 1937年 ) には、長男・竜骨 ( 吉信 ) を中心に
「 高等学校俳句連盟 ( のちの学生俳句連盟 ) 」 の結成にあたり、
機関誌 「 成層圏 」 を創刊し、昭和15年 ( 1940年 ) に句集 「 颯 」 を刊行した。
その後参加した中村草田男とともに指導にあたり、香西照雄、金子兜太ら後進を育てた。
また没年まで九大俳句会を指導している。



福岡県みやこ町豊津 ・  鶴田知也の 『 椎の木の家 』  と文学碑

2013-10-13 05:32:02 | 文学・文化・映画作品



『 椎の木の家 』 のモデルとなった 「 鶴田の実家 」








八景山の中腹にある 「 鶴田知也文学碑 」









「 椎の木の家 」 のモデルとなった鶴田知也の実家







八景山にある鶴田知也の文学碑





鶴田知也は、明治35(1902)年2月19日、福岡県小倉市大阪町(現在の小倉北区)に
高橋虎太郎、アサの三男として生まれる。
明治42 ( 1909 ) 年、鶴田和彦・ミヨの養子となり鶴田姓になった。
養父の転勤のたび小倉市、直方市、田川市、大分市の各小学校を転校。
夏・冬休みには豊津に帰省する。

 大正4 ( 1915 ) 年3月、豊津尋常小学校を卒業、
同年4月、豊津中学校 ( 現・育徳館高等学校 ) に入学する。

 北海道山越郡八雲村 ( 現八雲町 ) 出身の真野万穣の紹介で八雲を訪ね、
徳川牧場技術指導員らと親交を結び、
農夫、職工、馬車引きなどしながら同地に半年間滞在。
北海道農業、特に酪農業に興味を抱き、ロシア文学を読み漁る。

 昭和2(1927)年、葉山嘉樹に誘われ上京。 「 文芸戦線 」 に加わり、
プロレタリア作家としてデビュー、
アイヌの悲劇を叙事詩風に構成した 「 コシャマイン記 」 により、各選考委員の絶賛を得て、
昭和11(1936)年、第3回芥川賞を受賞した。

 戦後は、社会主義文学クラブや日本農民文学会に参加。
戦時下の疎開先であった秋田を舞台とする未来志向の陽性な農民文学を描いた。

 昭和30(1955)年には、児童文学 「 ハッタラはわが故郷 」 で小学館第4回児童文化賞を受賞。
しかし、次第に文学の世界から遠ざかり、農業共同化の推進や農村文化運動など、
晩年は、もっぱら農業問題の専門家、指導者として過ごした。

 実弟の福田新生は日展審査員の画家、
高橋信夫は音楽家とそれぞれ兄弟は芸術的才能に恵まれていた。


豊津関連郷土作品の代表作

★『椎の木の家』・・・・豊津の実家を描きこんだ作品。
★『わが悪霊』・・・・まばゆい芸術的才能をもった先輩が豊津に帰郷し、
旧制中学生たちを魅了する物語。
★『僕達と志摩氏』・・・豊津中学校の同窓生である僕達3人と豊津に帰郷して
 隠遁生活を送るクリスチャンの志摩氏との交流を描いた作品。




福岡県みやこ町豊津  『 「 竜ヶ鼻 」 と 「 原 」 』 葉山嘉樹文学碑

2013-10-07 00:03:26 | 文学・文化・映画作品




















葉山嘉樹は、明治27(1894)年豊津村(現みやこ町)で生まれる。
大正2(1913)年3月、福岡県立豊津中学校(現育徳館高等学校)を卒業、
早稲田大学高等予科に進学するが、学費未納により除籍。
その後、名古屋に行き新聞記者をしながら、名古屋労働者協会に加入、各種労働争議を指導した。
 大正12(1923)年名古屋共産党事件で検挙、投獄され、
その獄中で自己の労働運動体験を作品化し、「海に生くる人々」などを書き上げた。

 昭和20(1945)年6月、満州開拓団の一員として中国大陸に渡り、
同年10月引き上げ列車の中で病没した。

 葉山嘉樹は、日本の代表的なプロレタリア作家である。
「淫売婦」「セメント樽の中の手紙」で衝撃的な文壇デビューを飾り、
代表作の「海に生くる人々」は、プロレタリア文学に芸術的な完成をもたらしたと
高く評価されている。
しかし、戦時体制の進行とともに、プロレタリア文学の自由な発表が出来なくなり、
生活は困窮していった。
 昭和9(1934)年、ついに東京での作家生活が維持出来ず、
長野県天竜渓谷の鉄道工事現場に赴く。
二度と東京に戻ることなく、信州や木曾の山村で生活苦と戦いながら後期の作品を書き残した。
昭和52(1977)年、八景山自然公園中腹の文学碑公園に文学碑が建立された。


主な著書

『海に生くる人々』  『誰が殺したか』
『屋根のないバラック』  『セメント樽の中の手紙』
『淫売婦』  『死屍を食う男』
『凡父子』  など

★赤色の文字の著書・・・豊津を取材した小説。豊津関連の郷土作品。





福岡県みやこ町豊津 ・ 社会主義運動の先駆者 「 堺 利彦顕彰碑 」

2013-09-15 00:05:50 | 文学・文化・映画作品






 「 母と共に花しほらしの
         若草の千ぶり摘みし
                故郷の野よ 」

                   とし彦











福岡県京都郡みやこ町 ( 旧豊津町 ) の中心街を走る県道沿いに、
社会主義運動や女性解放思想の先駆者であった堺利彦の顕彰碑がある。

堺は誰よりも故郷・豊津を愛し続けた。
その熾烈な望郷の想いは、尾崎紅葉が激賞した出世作の 『 故郷台 』 や
『 豊津中学の新学風 』 『故郷の七日』 『 土蜘蛛旅行 』
『 故郷のあこがれ 』 『 帰郷雑筆 』 などに綴られている。

望郷作品の最高作は、大正13年から 「 改造 」 に連載された 『 堺 利彦伝 』 であろう。
社会主義者となる以前の豊津での幼少期から大阪での文士生活や福岡日日新聞 ( 現・西日本新聞 ) 記者。
さらに毛利家歴史編纂時代を回想した半生記で、豊津の記述はかなりのウェートを占めている。

「 元は藩学育徳館、私の入った時は県立豊津中学校。
臺ヶ原 ( だいがはる ) という平野の一隅にある建物で・・・ 」 と、その様子が書かれている。


堺 利彦(さかい としひこ、1871年1月15日(明治3年11月25日) - 1933年(昭和8年)1月23日)は、
日本の社会主義者・思想家・歴史家・著述家・小説家。号は枯川、別名は、貝塚渋六。

没落士族の3男として豊前国仲津郡長井手永大坂村松坂
( 現在の福岡県京都郡みやこ町犀川大坂字松坂 ) に生まれる。
豊津中学校 ( 現・育徳館高校 ) を首席で卒業。
上京後、進学予備校であった共立学校 ( 現 開成中高 ) にて受験英語を学び、
第一高等中学校入学。学費滞納により一高から除籍処分を受けたのち、
大阪や福岡で新聞記者や教員として勤めながら、文学の世界で身を立てるべく小説の執筆を始める。
その後、同郷の末松謙澄に招かれて東京に設けられた毛利家編輯所で 『 防長回天史 』 の編纂に従事し、
同僚の山路愛山らと親交を深める。

その後 『 萬朝報 』 の記者として活躍し、社会改良を主張する論説や言文一致体の普及を図る一方で、
社主の黒岩涙香、同僚の内村鑑三、幸徳秋水らと理想団を結成。
この時期に社会主義思想に共鳴し、非戦論を唱える。しかし 『 萬朝報 』 は、
日露戦争に際し主戦論に路線転換したため、内村鑑三、幸徳秋水とともに退社。
平民社を開業して週刊 『 平民新聞 』 を発行、非戦論・社会主義の運動を開始する。
週刊『平民新聞』第53号(1904年11月13日)に幸徳との共訳で 『 共産党宣言 』 を翻訳して掲載した。
これは、サミュエル・ムーア訳の英語訳からの重訳であったが、
日本における最初の 『 共産党宣言 』 の翻訳であった。

1905年に社会主義機関誌 『 直言 』 にエスペラントに関する記事を掲載。
その後、1906年に発足した日本エスペラント協会の評議員に就任した。

1906年に日本社会党を結成して評議員となり、日本の社会主義運動の指導者として活躍をはじめる。
1908年の赤旗事件により2年の重禁固刑を受け、その入獄中に「大逆事件(幸徳事件)」が起こるが、
獄中にいたため連座を免れて出獄。
社会主義のいわゆる「冬の時代」は、売文社を設立して雑誌『へちまの花』、
次いでその後継誌『新社会』の編集・発行をはじめとする事業をおこなって生活の糧とするとともに、
全国の社会主義者との連絡を維持した。
1920年には日本社会主義同盟が結成されるが翌年に禁止されてしまう。

1922年、日本共産党(第一次共産党)の結成に山川均、荒畑寒村らとともに参加するものの、
山川らに同調して共産党を離脱、後に労農派に与する。
その後東京無産党を結成して活動を続け、1929年に東京市会議員に当選した。

数多くの翻訳を通じて、欧米の社会主義思想、社会運動やロシア革命の動向、
ユートピア文学をはじめとする西洋文学の紹介につとめた。

1932年の6月頃発狂し、翌月には家庭内暴力を起して
青山脳病院(現・東京都立小児総合医療センター)に入院した
翌年の1月に脳溢血で死去(享年64)。

婦人運動家で社会大衆婦人同盟書記長・婦人有権者同盟会長を歴任した近藤真柄は長女。




長崎県平戸市・北九州市門司区 ・ 映画 『 あなたへ 』 のロケ地めぐり

2013-08-30 00:08:28 | 文学・文化・映画作品








先週だったか?映画 「 あなたへ 」 が地上波で放送された。
その時に出て来たロケ地を以下で紹介したいと思います。





倉島 ( 高倉健 ) が足を止めて写真に見入った 「 富永寫眞館 」







妻・洋子 ( 田中裕子 ) の少女時代の写真が飾られているウインド







倉島 ( 高倉 健 ) が富永寫眞館へと歩いた道







倉島 ( 高倉 健 ) が歩いた薄香のまちなか







多恵子( 余 貴美子 ) と奈緒子 ( 綾瀬はるか ) 親子が営む濱崎食堂







南原 ( 佐藤浩市 ) から紹介された大浦吾郎 ( 大滝秀治 ) の家にある神棚







大浦吾郎の家に掛けられていた大漁旗







妻・洋子が出した郵便局留め郵便物を取に行った 「 薄香郵便局 」








倉島 ( 高倉健 ) が洋子から出された二枚の絵葉書を風に飛ばした場所 ※ 伊王島灯台







散骨のために船を出してくれと頼んで断られた 「 釣り具店 」








散骨のため大浦吾郎の 「 そよかぜ号 」 に乗り込んだ薄香湾港







倉島 ( 高倉 健 ) が運転する車で薄香に入った薄香湾港







倉島が海岸で夜を迎えた時に遠くで赤い灯火をチカチカさせていた 「 薄香湾港西防波堤灯台 」







田宮 ( 草 剛 ) が 「 3000食を売り上げました 」 と言った露店を出した門司港







倉島が ( 高倉健 ) が南原(佐藤浩市)に「 自分は今日鳩になりました」と言った門司港西海岸










紹介したロケ地のほとんどが長崎県平戸市の薄香地区だが、
北九州市の門司港西海岸や長崎市の伊王島灯台でもロケをしている。



沖縄県名護市   「 白い煙と黒い煙 」 の碑

2013-08-04 06:44:09 | 文学・文化・映画作品












名護の街を一望する名護城 ( ナングシク ) の中腹に建つ 「 白い煙と黒い煙の碑 」 は、
大正七(1918)年当時、県立沖縄師範学校教諭兼附属小学校の主事をしていた稲垣国三郎氏が名護を訪れ、
名護城の散策中に出会った貧しい老父母と大和へ出稼ぎに出る娘の哀別の情景を主題にした物語がきっかけで、
昭和34(1959)年に建立された碑である。
この物語は、戦前戦後の教科書教材として採用され、
特に戦前の教科書は、検定教科書として取り上げられ、
沖縄(琉球)を知らない全国の人々に大きな反響を呼んだ。
この物語に当時の沖縄の生活をみることができる。

  【 稲垣国三郎作 「 白い煙と黒い煙 」 】 の一節

合図の煙 親子の別れ 汽船のデッキの上から彼の乙女が涙で曇った目で、
ふる里の山を慕い父母を恋ひてこの白煙を見つめてゐることであらう。
白い煙と黒い煙 かうして若い乙女と老いたる親とが、
山と海とでたがひに切ない思慕恩愛の情を交わしてゐるのである。
 
春の日は静かに夕靄の中にうすれて行く。やがて汽船は本部半島にその影を隠した。
つきせぬ名残りを一抹の黒煙にとどめて。
                 大正7年3月31日作

昭和34(1959)年12月22日、稲垣氏をお迎えしての除幕式が行われ、
あの頃の出船見送りの様子を再現してみようということで、
城区の古老の方と婦人会が多数参加して行われた。
貧しい沖縄を出て、遠い外国に移民するとき、その長い長い別れを惜しみ、
また応召して生きて帰れないという悲壮な惜別の思いもあって、親戚一族揃ってこの煙を焚いた。
いつ会えるかもわからないという悲壮な気持ちが高じて太鼓を鳴らし、
かりゆし(めでたいこと)の旅歌を歌って賑やかに見送ったのであろう。



長崎県平戸島の川内峠にある 「 吉井 勇の歌碑 」

2013-01-20 07:00:31 | 文学・文化・映画作品















平戸港の西南約3kmの所に,眺望の良さで知られている川内峠がある。
その峠の頂上に 「 山清く海うるはしと たたえつつ旅人われや 平戸よく見む 」 という
吉井勇の歌碑が立っている。
標高約270mの高さに大草原が広がる峠一帯からは、
九十九島をはじめ生月島、遠くは壱岐、対馬などが一望に見渡せ、大パノラマが楽しめる。


吉井 勇は、維新の功により伯爵となった旧薩摩藩士・吉井友実を祖父に持ち。
海軍軍人で貴族院議員も務めた吉井幸蔵を父に、東京芝区に生まれた。

幼少期を鎌倉材木座の別荘で過ごし、鎌倉師範学校付属小学校に通う。
1900年(明治33年)4月に東京府立第一中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)に入学するが、
落第したため日本中学(現在の日本学園中学校・高等学校)に転校した。
漢学塾へ通い、『十八史略』『文章規範』などを習う。
この頃『海国少年』に短歌を投稿して1位となった。

1905年(明治38年)に攻玉社を卒業後には胸膜炎(肋膜炎)を患って入院するが、
鎌倉の別荘へ転地療養した際に歌作を励み、
『新詩社』の同人となって『明星』に次々と歌を発表。
北原白秋とともに新進歌人として注目されるが、翌年に脱退する。

1908年(明治41年)、早稲田大学文学部高等予科に入学する。
途中政治経済科に転ずるも中退した。
大学を中退した1908年(明治41年)の年末、耽美派の拠点となる「パンの会」を
北原白秋、木下杢太郎、石井柏亭らと結成した。

1909年(明治42年)1月、森鴎外を中心とする『スバル』創刊となり、
石川啄木、平野万里の三人で交替に編集に当たる。
3月に戯曲『午後三時』を『スバル』に発表。坪内逍遥に認められ、
続々と戯曲を発表して脚本家としても名をあげる。
1910年(明治43年)、第一歌集『酒ほがひ』を刊行。
翌年には戯曲集『午後三時』を刊行し、耽美派の歌人・劇作家としての地位を築いた。

1915年(大正4年)11月、歌集『祇園歌集』を新潮社より刊行。
装幀は竹久夢二、このころから歌集の刊行が増える。
歌風は耽美頽唐であり、赤木桁平から「遊蕩文学」であるとの攻撃を招いた。
1919年(大正8年)11月、里見、田中純、久米正雄らと『人間』を創刊。
土佐での隠棲生活を経てに京都に移り、歌風も大きく変化していった。


吉井 勇については、北原白秋、与謝野 寛、木下杢太郎、平野万里らと
天草の下田にある 「 五足の靴文学記念碑 」 の時に再度紹介したいと思っている。


熊本県天草市  ・  祗園橋にある 「 橋本徳寿の歌碑 」

2012-12-27 00:06:05 | 文学・文化・映画作品
















祗園橋の袂にある橋本徳寿の歌碑には、

「 町山口川の
 流れせきとめし
 殉教者の
 むくろ数百千にして
 名をばとゞめず 」



と、ある。

本渡市内の町山口川の流れを堰き止めるほど、
数え切れないほど多くの殉教者の死体であふれていた。
それも誰が誰だか名前も分からないほど変わり果てていた。
そんな状況を詠った碑である。


橋本徳寿 ( はしもと とくじゅ )

1894-1989 大正-昭和時代の歌人。
明治27年9月10日生まれ。木造船技師をつとめる。
大正7年土岐善麿(とき-ぜんまろ)の選で第1歌集「船大工」を刊行。
のち古泉千樫(こいずみ-ちかし)に師事,昭和2年歌誌「青垣」の創刊に参加した。
平成元年1月15日死去。94歳。神奈川県出身。
工学院卒。歌集に「ララン草房」「日本列島」など。