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「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

福岡県築上町寒田 ・ 「 雲の砦 」 岩井 護

2014-11-09 05:58:41 | 文学・文化・映画作品



三丁弓の岩








城井ノ上城址登り口





岩井 護は、飯塚市出身で、福岡市に住み、博多の郷土史に造詣が深い。
戦国ものをはじめ歴史・時代小説などを執筆している作家である。

『 雲の砦 』 は、旧・築城町寒田の城井谷 ( きいだに ) の城井ノ上城主の宇都宮鎮房と
中津城に居を構えていた黒田官兵衛孝高 ( 後の如水 ) と長政親子の戦いと、
薩摩藩に逃げる八重姫を描いた小説である。
この作品は、昭和44年 ( 1969年 ) フクニチ新聞に85回連載されたものである。

中津城に赴いた鎮房は、酒席で長政に謀殺された。
黒田官兵衛孝高の肥後の鎮圧に同行していた朝房 ( 鎮房の嫡男 ) は、
熊本県の木葉で黒田官兵衛孝高に切腹を命じられ、拒む朝房を惨殺する。
政略結婚させられた鎮房の双生児の娘のうち、姉の鶴姫は鎮房謀殺後、
小犬丸の河原で磔にされる。

ふたごは不吉として家臣に預けられていた双子の妹・八重姫は家臣二人に守られて
寒田 ( さわだ ) の城井谷を脱出し薩摩藩に向かった。
八重姫たちは、臼杵から日向街道を南下、宇根原地区の山道を豊後と日向の国境近くにたどり着く。
そこで見たものは、 「 城井谷の城井ノ上城付近の山々の眺めとそっくりだったのだ。
陽射しをはね返して、ぎらぎら光っている雲の頂きは、緑の山頂で懐深い城井谷の暮らしを
四百年にわたって見守って来た、城井ノ上城の厳しい姿とそっくりだった 」 とある。

城井ノ上城の入り口には、男三人が座れるほどの大きな穴があり、
攻めの手を防ぐのに三丁の弓で足りたという 「 三丁弓の岩 」 が砦となった。


岩井 護 ( いわい まもる ) は、昭和2年 ( 1929年 ) 嘉穂郡飯塚町 ( 現・飯塚市 ) に生まれた。
西南学院大学在学中から 「 九州文学 」 に参加していた。
九大付属図書館在籍中に書いた「雪の日のおりん」で第10回小説現代新人賞受賞した。

小説 「 花隠密 」 (講談社刊)が松平健の主演で舞台となり、大阪の新歌舞伎座などで上演された。
花を愛した徳川家斉にハナショウブを献上する肥後と宇和島の 「 花戦争 」 を背景とし、
勝負に負けた宇和島から花作りの秘密をさぐりに肥後に潜入する 「 花隠密 」 の悲恋を描いた作品や、
「 まぼろしの南方録 」 「 踏絵奉行 」 「 福沢諭吉 」 「 西南戦争 」 などがある。
2013年1月30日没。



福岡県飯塚市 「 柳原白蓮が暮らした部屋 」

2014-06-19 00:02:41 | 文学・文化・映画作品



二階が白蓮が暮らした部屋








柳原白蓮







全面ガラス窓になった庭園側







白蓮の部屋から見える庭園







部屋に掛けられた白蓮直筆の掛け軸







家紋をあしらった床の間の天井






白蓮が暮らした部屋の天井







有田焼きで造られた電灯のソケット







次の間にある天井の仕切り







取っ手のチューリップと今は煤けて黒くなった銀箔があしらわれた襖








内壁の明り取り






食事などを差し入れた階段上の小窓







白蓮の部屋に続く階段











柳原白蓮が暮らした部屋は北棟の二階の角にある。
その部屋に一本の掛け軸が掛かっている。

『 朝化粧 五月となれば京紅の
             青き光も なつかしきかな 』 


この歌は、白蓮が旧伊藤邸で暮らした時に詠んだ一首で、
五月の光の中で朝化粧した時に、
ハマグリの口紅に、なつかしい京都を飯塚からしのんで詠んだ歌である。

この歌は、大正4年(1915年)発刊の白蓮第一歌集 『 踏絵 』 をはじめ、
その後、『 白蓮自選歌集 』 や 『 流転 』 などに収録された歌で、
白蓮自身がこよなく愛した歌でもある。



福岡県糸田町 『 逢ひたい捨炭山が見えだした 』 種田山頭火

2014-06-10 05:07:41 | 文学・文化・映画作品



伯林寺の境内にある山頭火と緑平の二行彫りの句碑








山頭火の句碑が書かれた皆添橋のレリーフ







井上陽水の歌碑 ( 夏まつり )








句碑 「 逢ひたい捨炭山が見えだした 」  種田山頭火






井上陽水の歌碑 ( 夏まつり )




種田山頭火は、大正15年の45歳から亡くなるまでの15年間を
行乞 ( 托鉢 ) の旅に終始した俳人である。

自由律俳句の萩原井泉水主宰の俳誌 「 層雲 」 に属し、選者の一人で、
この15年間で詠んだ句は九千句余りにのぼる。
字数、形式にとらわれず、自由な表現で自然、心をうたった句を愛する人は今も多い。

 逢ひたい捨炭山 ( ボタやま ) が見えだした

この句は、昭和5年11月29日、かねてからの俳友で後援者でもある木村緑平を
田川郡糸田町に訪ねた時の句である。
緑平は大正の初め、大牟田の三井三池鉱業所病院の病院長の時に山頭火と知り合い、
昭和2年に糸田町に移った後も、宿の提供はもちろん、
句集発刊や松山市の一草庵建設費用などの支援をした。
また、山頭火は旅先の日記全冊を緑平に託しており、
緑平はそれらを保存し、山頭火を世に出すための役割を果たした。

山頭火は糸田町の緑平宅を14回訪ねており、
町では二人の交友を記念して皆添橋に俳句のレリーフと二人の説明版を設置し、
さらに皆添橋から緑平の旧宅までの道を 「 山頭火漂白の道 」 として整備している。

ボタ山は、炭坑から掘り出された原炭から石炭を選び出した後のボタ ( 石炭かす ) を
ピラミッド型に積み上げて捨てたもので、小山のようになっている。
石炭全盛期は筑豊炭田に多数見られた。
山頭火が詠んだボタ山は、直方経由で糸田に向かう途中、
汽車の窓から見えて来た田川郡金田、方城町付近のボタ山らしいが、
今は住宅地などに変わっている。

「 逢ひたい捨炭山が見えだした 」 の句は、
山頭火の心の友だった緑平の 「 雀生れてゐる花の下を掃く 」 の句と
二行彫りの一基の句碑として、糸田町の伯林寺境内に建てられている。


ちなみに、山頭火の句碑は全国で増え続けているが、
生前は宗像郡玄海町神湊の隣船寺の 「 松はみな枝垂れて南無観世音 」 が
一基あるのみだった。


これは蛇足になるが、この山頭火の句碑の近くに
井上陽水の実家跡に陽水の歌碑 ( 夏まつり ) が建っている。


『 夏まつり 』


作詞 : 井上陽水
作曲 : 井上陽水
歌  : 井上陽水



十年はひと昔 暑い夏
おまつりはふた昔 セミの声
思わずよみがえる 夏の日が
ああ今日はおまつり 空もあざやか

自転車のうしろには 妹が
ゆかた着てすましてる かわいいよ
もらったおこづかい なくすなよ
ああ今日はおまつり 早く行こうよ

綿菓子をほおばれば すぐとける
友達もみんな居る 笑い声
道には並ぶ店 オモチャ売り
ああ今日はおまつり 何を買おうか

十年はひと昔 暑い夏
ふるさとはふた昔 夏まつり



福岡県田川郡糸田町 「 皆添橋の山頭火の句 」

2014-06-10 05:06:41 | 文学・文化・映画作品



田川郡糸田町にある皆添橋








山頭火の句























田川郡糸田町を流れる中元寺川に架かる皆添橋には、
糸田町の木村緑平と縁があった種田山頭火の句
『 逢いたい捨炭山 ( ボタやま ) が見えだした 』 がレリーフになっている。





北九州市若松区 「 火野葦平文学碑 」

2014-06-01 04:53:41 | 文学・文化・映画作品



北九州市若松区 「 火野葦平文学碑 」

















火野葦平文学碑は、洞海湾を一望する高塔山南側の台地に建てられている。
方形の大きな黒御影石で、台に使用した斑紋のある赤い石は、
スェーデンから取り寄せたものである。
 黒御影石の文学碑の表面には、故人の筆跡で

   泥に汚れし背嚢に さす一輪の菊の香や

火野 葦平

と、彫りこまれている。

 裏面には故人の文学の友、劉寒吉の追悼文が刻まれている。
昭和35年建立。谷口吉郎 ( たにぐちよしお ) 氏の設計である。
 除幕式には、 『 九州文学 』 の同人や地元の人たちは勿論、
東京からも多くの文士が参列した。
 作家の丹羽文雄が 「 この碑文は四行詩の前二行で、
あとに続く<異国の道を行く兵の 眼にしむ空の青の色>という二行が書かれていたら、
葦平も喜ぶだろう 」 と述べたのが、参列者の共感をよんだそうです。
 
 碑の下には、葦平選集八巻・芸術院賞をうけた 『 革命前後 』 の原稿・筆記具、
へその緒などが埋蔵されています。
 火野葦平は、明治40年若松に生まれ、こよなく郷土を愛し生涯を文学に徹した。
 それは『糞尿譚』で芥川賞を取り、『麦と兵隊』等兵隊三部作で文学不動の精神を確立し、
『革命前後』に至るまで、終生かわることがありませんでした。
 昭和35年1月24日、高塔山に斑雪の光る未明に、河伯洞の書斎で自ら命を絶ちました。
享年53才でした。
 毎年、命日の前の日曜日に碑の前で、葦平忌が催されます。
筑前琵琶・尺八の演奏に故人を偲び、参列者一同菊一輪を捧げ、
最後に全員で“麦と兵隊”の歌を合唱します。



北九州市若松区 「 火野葦平旧居 『 河伯洞 』 」

2014-05-31 04:45:41 | 文学・文化・映画作品



火野葦平旧居 「 河伯洞 」















本名の 「 玉井勝則 」 の表札が掛かった玄関




















かつて 「 玉井組 」 の事務所があった場所











河伯洞 ( かはくどう ) は河童の棲家といった意味で、火野葦平の住居であった。
一時会社の寮として貸されたりして建物が傷んでいたが、
1997(平成9)年北九州市の文化財に指定され、保存されることになった。

戸籍に従えば、1907(明治40)年1月、火野葦平は福岡県遠賀郡若松町に生まれ、
1914(大正3)年若松町は若松市となる。
本名を玉井勝則といい、父と母は彼の小説「花と龍」の主人公である玉井金五郎とマンで、
その長男に生まれた。
金五郎とマンの間には男3人、女7人の10人の子が生まれ、
父金五郎は石炭仲仕 ( 石炭荷役夫、この地方では 「 ごんぞう 」 と呼ばれた ) の親分として
玉井組の看板を掲げていた。


火野葦平は、若松をこよなく愛した作家である。
彼が書く作品の舞台のほとんどが北九州で、
日本の近代化という激動の波にもまれた庶民の哀歓をとらえているのが特徴である。

そんな彼の作品 「 花と龍 」 は、読売新聞に昭和27年6月から翌年5月にかけて連載された。
明治から昭和にかけて石炭の積み出し港として全国一の出荷量を誇った若松を舞台に、
沖仲仕の世界を生き生きと描いている。
葦平の父、玉井金五郎は門司で沖仲仕となり、マンと出会って所帯を持ち、
下関、戸畑、若松と渡り歩く。
その間、裸一貫から若松でも一目置かれる石炭荷役請負業の
玉井組の親分と呼ばれるようになり、
市会議員も務め、沖仲仕のために奮闘する。

「 金五郎は、遂に決心した。マンも、同意した。
金五郎夫婦は、若松に移住した。
聯合組の壁から、古ぼけた 「 永田組 」 の札が外され、
真新しい 「 玉井組 」 の札がかかげられた。

これは明治39年に金五郎が若松の新仲町 ( 現・白山町一丁目 ) に
玉井組事務所を開いた場面で、海岸通り ( 現・本町一丁目 ) にも、
玉井組現場事務所があった。
その海岸通りには、古河鉱業若松支店や若松石炭商同業組合などの建物が
当時のまま立ち並んで、当時の面影を残している。



福岡県豊前市 ・ 恒遠醒窓が開いた私塾 「 蔵春園 」

2014-02-07 05:08:41 | 文学・文化・映画作品



恒遠醒窓が開いた私塾 「 蔵春園 」















醒窓、精斎を学徳をたたえる記念碑








庭園内にある 「 恒遠醒窓の胸像 」












福岡県豊前市薬師寺に恒遠醒窓が開いた私塾 「 蔵春園跡 」 がある。
往時の蔵春園内には、自遠館、夕陽楼、梨花寮、求渓舎、晴雪軒、遠帆楼、咬菜舎等の施設があり、
若者たちで賑わったことが想像される。
現在は、塾を主宰した醒窓・精斎父子が使用した書斎の求渓舎のみを残すところとなった。
なお、求渓舎を取り巻くように作られた庭園には、醒窓、精斎を学徳をたたえる記念碑が建立されている。


蔵春園は、文政七年 ( 1824 ) 恒遠醒窓によって上毛郡薬師寺村に開設された漢学私塾で、
恒遠塾とも呼ばれていた。

恒遠醒窓は、十七歳の時、儒学者広瀬淡窓が主宰する私塾・咸宜園に入門、
五年間を日田の地で過ごし、塾頭を務めたりもした。
長崎遊学後、二十二歳で故郷に帰った醒窓は私塾を開設、爾来、
教育者としての道を歩み続けることになる。

醒窓の死後は、その子・精斎が塾を継承し、明治二十八年 ( 1895 ) までの七十年間、
蔵春園の教育は続けられた。
その間、この塾の門を叩いた者は三千名にものぼると言われ、
その出身地は九州はもとより、中国・四国・近畿・東海・北陸の各地に及んでいる。
そして、明治維新革命の魁となった勤皇僧・月性や志士白石廉作、
真宗教団内で 「 豊前学派 」 と呼ばれる一派をなして注目を浴びた東陽円月など、
多くの素晴らしい若者が、ここから巣立って行った。


福岡県行橋市 ・ 村上仏山が開いた私塾 「 水哉園 」

2014-01-28 05:06:41 | 文学・文化・映画作品



村上仏山の私塾 「 水哉園 」









































初代川と鋤迫川が合流して長峡川となる行橋市上稗田。
そこに、かつて儒学者・村上仏山が開いた私塾 「 水哉園 」 があった。

水哉園は、天保6(1835)年に、儒学者・村上仏山(むらかみぶつざん)が開いた私塾である。
村上仏山 ( 諱は剛 ) は、文化7年 ( 1810 ) 年、上稗田に生まれた。
仏山は号で、近くのホトギ山に由来する。
9歳の時、津積村大島八幡神社の神官・定村直栄 ( さだむらなおしげ ) に漢学を学び、
12歳のころには 「 唐詩選 」 を暗記し、漢詩への強い憧れをもつようになった。
15歳で故郷を離れ、筑前秋月にある原古処の 「 古処山堂 」 に入門する。
古処が急逝したため、生涯第一の師と慕った白圭のもとで学ぶ。
その後、京都の貫名海屋や博多の亀井昭陽などを訪ね、諸国を歴訪する。

天保6年 ( 1835年 ) 、26歳の時にこの塾を開いた。
塾名は、孟子の仲尼亟しばしば水を称して曰く、水なる哉かな水なる哉かなと。
何をか水に取れる。孟子曰く、原泉は混混として昼夜を舎おかず。
科あなを盈みたして後に進み、四海に放いたる。
本もと有る者は是かくの如ごとし。是これ之を取るのみ)」。
孟子の説明によれば、 「 水哉 」 とは、たゆみのない持続的な学問研究の姿勢を、
常に流れて止まない水に喩えたものと言える 「 水哉水哉 」 から採ったもので、
塾には、厳しい塾則があり、全寮制で試験による進級制度も取り入れられ
文学や詩文中心の人間づくりの倫理教育が行われた。

明治12年(1879)年、仏山が70歳で没した後も、養嗣子の静窓(せいそう)に受け継がれ、
明治17(1884)年まで、50年間続いた。
その間には、関西以西から3000人もの入門者があり、
なかでも末松謙澄 ( すえまつけんちょう ) 、吉田学軒 ( よしだがっけん ) 、
安弘伴一郎 ( やすひろばんいちろう ) など中央で活躍した人をはじめ、
狭間畏三 ( はざまいぞう ) 、守田精一 ( もりたせいいち ) 、杉山貞といった
この地方の先達者など、優れた政治家、学者、名僧、医師を多く輩出した。

仏山は、日本の漢詩壇をかざる大詩人でもあり、
1860年 ( 万延元年 ) 3月3日、井伊直弼大老が水戸藩士に暗殺された
桜田門外の変を詠んだ、 「 落下粉々、雪粉々・・・ 」 の漢詩を納めた
『仏山堂詩鈔(ぶつざんどうししょう)』(全三編九冊)は、日本中の私塾の教科書として用いられた。

塾舎跡の一隅には、仏山ゆかりの資料 ( 県指定文化財 ) を収める仏山堂文庫が建てられている。


村上仏山の詩集や著作を納めた 「 蔵詩厳 」

2014-01-28 05:05:41 | 文学・文化・映画作品



村上仏山の詩集や著作を納めた 「 蔵詩厳 」













村上仏山の私塾 「 水哉園 」 から南西に3キロばかり入った御所ヶ谷に神籠石がある。
それを見下ろすようにそびえるホトギ山。
そのホトギ山 ( ほとけ山 ) を号とした村上仏山 ( むらかみぶつざん ) 。

御所ヶ谷を神籠石の手前の急こう配を左に15分ばかり登って行くと、ホトギ山の東側にあたる。
その中腹にある巨石に 「 蔵詩厳 」 と刻まれている。
「 何でこんな場所に? 」 って、思うような場所である。
「 蔵詩厳 」 に行くまで息が切れるほどの勾配のケモノ道を滑り々登って行かなければならない。
それは、途中で道を間違えたのかと思うほどのケモノ道である。

そのケモノ道の上にある 「 蔵詩厳 」 の下に仏山の詩集や著作が埋められているという。
仏山がじきじきにこの場所まで来て埋めたのであるとするならば、
これだけ困難な山道を辿っても、仏山はこの場所を愛していたのだろう。

そういえば、能書家・下枝董村の鏡岩も墓も山の中だった・・・



北九州市若松区 『 まかり通る 』 小島直記

2014-01-15 05:17:41 | 文学・文化・映画作品



石炭荷役が行われた若松の岸壁













小島直記は、主に政財界で活躍した人の伝記を数多く書いている。
『 まかり通る 』 は、 「 電力の鬼 」 といわれた松永安左エ門の
波乱にとんだ人生の足跡を克明に描写した小島直記の伝記小説の代表作である。

「 サンデー毎日 」 に昭和47年 ( 1972年 ) 1月から翌年10月まで連載された。
松永安左エ門については 『 まかり通る 』 の他にも 『 福沢山脈 』
『 松永安左エ門の生涯 』 など四作品を発表している。

安左エ門は、明治8年 ( 1875年 ) 、壱岐の豪商の長男に生まれ、
15歳で慶應義塾に入ったが、学生生活に疑問を持ち、
義塾の創立者の福沢諭吉を訪ね、 「 人生は学歴や卒業免状で勝負するものではない 」 と自説を述べ、
実業家を目指して熟を中退する。

「 山周商店を訪ねると、番頭、丁稚、仲仕たちが忙しく出入りしていて、
主人の周太郎も客の応接で忙殺されている 」
北九州若松の石炭ブローカー山周商店を訪れた安佐エ門は、
命を張った修羅場もくぐり抜け、真の実業家を目指し、がむしゃらに仕事をする。
その後、九州の電気、鉄道、ガスと次第に事業を拡大していった。

明治初年まで小さな漁村に過ぎなかった若松に一大変革をもたらしたのは、
直方~若松間の筑豊興業鉄道の開通であった。
これによって若松は日本一の石炭積み出し港として栄え、意気盛んな者たちが殺到した。


小島直記 本名 ( 小嶋直記 )は、大正8年 ( 1919年 ) に
八女郡福島町 ( 現・八女市 ) に生まれた。
旧制福岡高校から東京帝国大学経済学部に進み、
海軍主計大尉で終戦を迎えた。
経済調査官を経て、昭和29年 ( 1954年 ) ブリジストンタイヤに入社。
昭和31年 ( 1956年 ) に、 『 人間の椅子 』 が芥川賞候補となる。
昭和40年 ( 1965年 ) ブリジストンタイヤを退社して文筆活動に専念し、
経済小説や人物評伝を著した。

主な著書に、 「 無冠の男 」 「 出世を急がぬ男たち 」
「 逆境を愛する男たち 」 「 小説三井物産 」 などがあり、
『 小島直記伝記文学全集 』 が出ている。



『 いななきは夏の風にのって 』

2014-01-07 17:52:41 | 文学・文化・映画作品








今から10年ほど前に小倉競馬場が新装オープンした年に、この本が出された。
その半年くらい前に原稿の依頼があった。
本は10章に分かれており、その8章を任された。
本が出来上がって頂くまで、どんな構成なのか知らなかったが、
ボク以外の方は、競馬に関連する名の売れた著名人ばかりであった。
その当時、ボクは現役の競輪選手だったので、
競馬を競輪と兼ね合わせて書いたものである。
それが唯一ほかの皆さんと違う視点だったので異色で、新鮮にうつったのかも知れない。
もちろん、その中には小倉を疾走した馬への想いを 「 馬の詩 」 を交えて書いた。

本がテレビで紹介されてから、ほどなくして本を購入した3人の方からファンレターを頂いた。
題材に取り上げた馬への想いと感謝の気持ちが込められていた。
たった3通の手紙であるが、自分の書いた文を読んでくれたことが実感でき、
すごく嬉しかったのを憶えている。



福岡県直方市 「 犬神博士 」  夢野久作

2014-01-06 05:05:41 | 文学・文化・映画作品



直方市内を流れる遠賀川の河川敷公園





夢野久作は福岡で数多くの伝奇、怪奇小説を発表した作家である。
久作の作品には玄洋社の頭山 満の盟友で、
明治、大正期に政治の裏面で活躍した父・杉山茂丸への反発と共感、
ひたすら近代化の道を走る当時の社会への批判がある。

「 犬神博士 」 は、昭和6年 ( 1931年 ) 9月から翌7年1月にかけて、
福岡日日新聞 ( 現・西日本新聞 ) に連載された作品で、
明治24年 ( 1891年 ) ごろの福岡と筑豊が舞台である。

主人公の犬神二瓶は浮浪者だが、予言がよく当たるので 「 犬神博士 」 と呼ばれている。
物語は彼が「チイ」と呼ばれていた7才のころ、炭坑の坑区争いに割って入ったり、
神に遣わされたような不思議な力をもって大人相手に痛快な活躍をみせる様子が描かれている。

 「 当時の直方は現在の直方市の半分もない小さな町であったが、
  それでも筑豊炭田の中心地として日本中に名をとどろかしていた。
  しかもその当時の筑豊炭田というものが又、
  まだ開けてから間もない頃のことで、鉄道がやっと通じたばかり・・・
  集まって来る人々は何よりも先に坑区の争奪戦に没頭 」 していたという。

かつて石炭産業で繁栄した直方市は、北九州国定公園の指定を受けた福智山一帯と、
広大な河川敷を持つ遠賀川に代表される自然に恵まれた街である。
この遠賀川河川敷を活用し、87.5ヘクタールの直方リバーサイドパークがあり、
魅力ある水辺とのふれあいをテーマーに、市民が集う場である。


夢野久作 ( ゆめのきゅうさく ) は、ペンネームも楽しいが、
特異な雰囲気を持った多才な作家である。
26歳で出家し、名を泰道と改め、法名を萌円とするが、2年後に還俗する。
29歳で喜多流謡曲教授となった。


小倉北区古船場町 『 無法松の一生 』 稲垣 浩監督

2014-01-04 05:50:41 | 文学・文化・映画作品



古船場町にある 「 無法松之碑 」









八幡東区 「 高炉台公園 」 にある文学碑





岩下俊作の小説 「 富島松五郎伝 」 を原作とする映画 『 無法松の一生 』 は、
稲垣 浩監督によって二度制作されている。
一作目は、昭和18年 ( 1943年 ) の大映作品である。
物語は明治から大正にかけての小倉の古船場を舞台に展開する。

車夫の松五郎は喧嘩っぱやく無鉄砲なので無法松というあだ名がつく。
だが義侠心が強く、気性のさっぱりした心の優しい男である。

ある日、怪我をした敏雄少年を助けたことで、その父の陸軍大尉吉岡と夫人を知る。
吉岡が突然他界して、松五郎は未亡人と敏雄に心から尽くすようになる。
かなわぬ恋心、そして孤独に悩みながら寂しく死ぬ姿が描かれている。

稲垣監督は人力車の大きな車輪が回るシーンを折々挿入し、
時の流れを表現して幻想的なムードとリズム感を演出している。
しかしこの映画は、 「 軍人の未亡人に思慕を抱くとは何事だ! 」 と、
検閲で11分ほどカットされたため稲垣監督は、
昭和33年 ( 1958年 ) にカラー版で再映画化、
これがベネチア国際映画祭でグランプリを受賞した。

当時の古船場は全国からさまざまな職人や物売りなどが集まり、
活気にあふれ、下町風情のある町であった。
今では狭い通りに飲食店、マンション、事務所などがひしめきあい、
その中に古い家並みがわずかに残っている。
ここの安全寺跡地に 「 無法松之碑 」 があり、毎年3月4日に碑前で供養が行われ、
祇園太鼓をたたき、酒を注いで無法松を偲ぶ。


稲垣 浩は、明治38年(1905年)東京に生まれた。
昭和3年 ( 1928年 ) に監督となり、 「 天下太平記 」 を同年に制作する。
主な作品に、 「 瞼の母 」 「 弥太郎笠 」 「 海を渡る祭礼 」
「 無法松の一生 」 「 手をつなぐ子等 」 「 佐々木小次郎 」
「 宮本武蔵 」 「 嵐 」 「 忠臣蔵 」 「 風林火山 」 などがある。
昭和55年 ( 1980年 ) に没した。



福岡県小竹町 「 硬山 ( ぼたやま ) を詠う 」  山本 詞の歌碑

2013-12-30 05:51:41 | 文学・文化・映画作品



「 硬山の歌 」 山本 詞の歌碑










山本 詞 ( やまもとつぐる ) は、筑豊で生まれ自らも炭坑で働き、
結核に苦しめられながら、炭坑の歌だけを歌うことを自らに課して、
坑内労働や坑夫の仲間たちのことを歌い続けた。
かつて 「 炭坑歌人 」 というジャンル分けができるほど炭坑夫の歌人は多かったが、
彼はその代表者といえる。

両親とも坑夫で本人も中学を卒業後、古河目尾炭鉱で坑夫となった。
炭鉱労組の中核的な存在となり、
労働争議や政治的スローガンを詠み込んだ歌も多く残っている。
結核療養中に歌を作り始め、炭車事故で亡くなるまで千三百余首を詠んでいる。

 硬山 ( ぼたやま ) を仰ぐときやはり坑夫らの
 歴史は坑夫が変へねばと思ふ

これは彼の代表作であり、 「 坑口から空に立つボタ山を仰ぎ見るとき、
坑夫たちの明日からの生活を良くしてゆくのは、
やはり自分たち坑夫しかいない 」 という、労働争議や炭坑仲間との連帯の中で
歌による自己表現に徹した山本らしい歌である。

目尾炭鉱は今では鉄工所に変わり、ボタ山も住宅団地に変ぼうした。
昭和60年 ( 1985年 ) に、山本が長く働いた小竹町に歌碑が建立された。

 硬山 ( ぼたやま ) の投影長き此の地帯を
 遂に故里として棲みつきぬ

と刻まれている。


山本 詞は、昭和5年(1930年)に田川郡糸田村に生まれた。
昭和21年 ( 1946年 ) に鞍手中学 ( 現・鞍手高校 ) を卒業後、
16歳で鞍手郡小竹町の古河炭鉱に就職した。
昭和28年 ( 1953年 ) 京都郡豊津療養所に入院。
療養中に歌作を始め、昭和31年 ( 1956年 ) 「 毎日歌壇 」 の年度賞を受けた。
昭和37年 ( 1962年 ) 炭坑内で事故死した。
死後、遺稿集 「 地底の闇を切り開け 」 、遺歌集 「 地底の原野 」 が
昭和37年に刊行された。
また、松井義弘の評伝 「 黒い谷間の青春 - 山本 詞の人間と文学 」(昭和52年)、
「 定山本詞歌集 」 ( 昭和60年 ) が刊行された。

歌碑は、鞍手郡小竹町新多 ( にいだ ) の西鉄バス新多バス停ロータリーにある。



福岡県香春町 「 青春の門 」  五木寛之

2013-12-25 04:56:41 | 文学・文化・映画作品



青春の門に出て来る「 香 春 岳 」








セメント工場がある一ノ岳










五木寛之は、自由で国際感覚あふれるデラシネ ( 根なし草 ) を主題に、
福岡の風土、アジアの中の日本人の情念を問い続けている作家・エッセイストである。

「 青春の門 」 ( 「 筑豊編 」 で吉川英治文学賞受賞 ) は、
昭和44年 ( 1969年 ) の 「 週刊現代 」 連載開始から長きに続く、
五木の渾身の代表作といえる。
炭坑全盛の筑豊を主舞台に、東京、北海道、シベリアと、
筑豊の子・伊吹信介の青春時代から社会人へと昭和29年 ( 1954年 ) から
昭和30年代を背景にした ” 大河小説 ” の名にふさわしい力作である。

主人公の信介は、父が炭鉱の坑夫の頭領、
母が炭坑婦、祖父が川船 ( 石炭運搬船 ) 船頭という
ヤマの血と風土に裏打ちされた川筋気質 ( 遠賀川流域独特の侠気果断の気性 ) で、
人生に立ち向かう。

「 伊吹信介は、子どもの頃から香春岳を眺めるのが好きだった 」 ( 青春篇 )
「(さよなら、香春岳。さよなら田川ー)・・・目の奥に香春岳の姿がくっきりと残っている。
こんどいつ再開するともしれぬ山の姿を、信介はくりかえし頭の中に描いた 」 ( 望郷篇 )


香春岳は筑豊を代表するものであり、 「 青春の門 」 の象徴である。
三つの頂からなり、史跡が多く点在している。
一ノ岳は全山が石灰岩でセメントの原料として削られている。
麓には香春神社や鬼ヶ城跡がある。
二ノ岳 ( 468m ) の東側斜面は梅の名所で神宮院がある。
三ノ岳 ( 511m ) は、明治時代まで採銅が行われ、
豊前国最古の神社と言われる古宮八幡神社、
平安時代に宇佐八幡宮に奉納する御神鏡を鋳造した清祀殿跡がある。