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名護の街を一望する名護城 ( ナングシク ) の中腹に建つ 「 白い煙と黒い煙の碑 」 は、
大正七(1918)年当時、県立沖縄師範学校教諭兼附属小学校の主事をしていた稲垣国三郎氏が名護を訪れ、
名護城の散策中に出会った貧しい老父母と大和へ出稼ぎに出る娘の哀別の情景を主題にした物語がきっかけで、
昭和34(1959)年に建立された碑である。
この物語は、戦前戦後の教科書教材として採用され、
特に戦前の教科書は、検定教科書として取り上げられ、
沖縄(琉球)を知らない全国の人々に大きな反響を呼んだ。
この物語に当時の沖縄の生活をみることができる。
【 稲垣国三郎作 「 白い煙と黒い煙 」 】 の一節
合図の煙 親子の別れ 汽船のデッキの上から彼の乙女が涙で曇った目で、
ふる里の山を慕い父母を恋ひてこの白煙を見つめてゐることであらう。
白い煙と黒い煙 かうして若い乙女と老いたる親とが、
山と海とでたがひに切ない思慕恩愛の情を交わしてゐるのである。
春の日は静かに夕靄の中にうすれて行く。やがて汽船は本部半島にその影を隠した。
つきせぬ名残りを一抹の黒煙にとどめて。
大正7年3月31日作
昭和34(1959)年12月22日、稲垣氏をお迎えしての除幕式が行われ、
あの頃の出船見送りの様子を再現してみようということで、
城区の古老の方と婦人会が多数参加して行われた。
貧しい沖縄を出て、遠い外国に移民するとき、その長い長い別れを惜しみ、
また応召して生きて帰れないという悲壮な惜別の思いもあって、親戚一族揃ってこの煙を焚いた。
いつ会えるかもわからないという悲壮な気持ちが高じて太鼓を鳴らし、
かりゆし(めでたいこと)の旅歌を歌って賑やかに見送ったのであろう。