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「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

熊本県天草市高浜  ・  十三仏公園の 「 与謝野夫妻の歌碑 」

2012-11-14 00:16:55 | 文学・文化・映画作品



天草・十三仏公園の 「 与謝野夫妻の歌碑 」









歌碑から遥かに望む妙見ヶ浦









十三仏公園がある鼻と上大瀬の遠望









歌碑の下の海










この十三仏公園は、以前ここにある 高浜灯台 で紹介したことがある。

明治40年夏、新詩社の与謝野鉄幹 ( 寛 ) 、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里は富岡に泊り、
わらじがけで大江教会にガルニエパマテルさんを尋ねた。
越えて昭和7年秋、鉄幹は晶子夫人を伴い篭でこの地を訪れ、数々の名歌を残を残した。
その時の歌碑が、天草市天草町高浜の十三仏公園に建っている。


鉄幹
 
  天草の十三仏の山に見る
   海の入日とむらさきの波


晶子
  
  天草の西高浜のしろき磯
   江蘇省より秋風ぞ吹く



どちらも、光景が目に浮かぶような歌である。




大分県豊後高田市  ・  国東半島 「 長崎鼻 」 ( 江口章子の歌碑 )

2012-10-16 16:05:02 | 文学・文化・映画作品



海に突き出た長崎鼻









国東半島 「 長崎鼻 」の鼻崎にある祠















鼻先の景色







海水浴場







駐車場にあるマップ









国東半島の先端部近くに突き出した半島 「 長崎鼻 」 。
近くに姫島が望み、遠くに周防灘を隔てて四国、中国を望める風光明美な半島である。
海蝕洞穴のあるリアス式海岸と黒松の茂る地に灯台、
キャンプ場、ログハウス(冷暖房完備)や売店などの設備が完備している。
国東半島北部の代表的な行楽地である。
















香々地の長崎鼻で江口章子の歌碑建立除幕式が行なわれたのは昭和53年2月26日である。


ふるさとの
  香々地にかへり 泣かむものか
    生まれし砂に 顔はあてつつ



江口章子は、大分県西国東郡(現杵築市)生まれ。
1904年、大分県立第一高等女学校入学。
1906年、女学校で見合いをして結婚。
大分市に新居。1912年、夫の不行跡に悩み出奔、平塚らいてうを頼る。
後に北原白秋を知る。1913年、三浦三崎に白秋をたずね、城ヶ島へ同行。
『城ヶ島の雨』はその時に作詩される。
章子、出奔の詫を入れ夫の元に帰る。1915年、協議離婚。
単身上京し「青鞜社」の仕事をする。翌年白秋と同居。
1918年、「新潮」に『妻の観たる北原白秋』を書く。この頃から章子の文芸活動が活発になる。
1919年、北原白秋と婚姻届出。1920年、白秋の『雀の生活』の跋文を書く。
「木菟の家」の新館建築に尽力。
5月に白秋と離婚。別府に帰り「銅御殿」(あかがねごてん)に柳原白蓮をたずね、少時そこに住む。
1921年、京都大徳寺に入る。1923年、一休寺住職と再婚し京都に移るが家を出て上京。
関東大震災にあう。1927年、中村戒仙と同居。1928年、詩文集『女人山居』出版。
1930年5月 死の約束をしていた生田春月が瀬戸内海で投身自殺、悲歎にくれる。
10月、中村戒仙と婚姻届出。この頃から神経を病む。
1931年、発病。京大精神科に入院し退院。1933年、法要時に裸身で座禅をくむ。
入院。1934年、詩集『追分の心』出版。1937年、脳溢血で半身不随となる。
1938年、中村戒仙と離婚。1939年、卜部鉄心と同居。
以降、脳溢血を繰り返し、1946年、脳軟化症で永眠。 /『城ヶ島の雨』(末永文子著)より



信州蓼科高原に観音堂建立、托鉢して資金集め、12年8月入仏式。
蓼科からの帰途、車中にて脳溢血で倒れる。

先述の歌碑の歌は、信州蓼科観音堂にいた章子から大分県中津市稲堀にいた
縁者利光ふみ子あてに送られたハガキ(昭和12年9月20日消印)の文面に書かれた望郷のうたである。


これは個人的な感想であるが、江口章子は恋多き女性だったと思う。
結婚依存症ではないが、おそらく恋をすることで創作意欲が湧いたのだろう。
そして恋する心の燃焼が消えかかると、新しい恋を探し、
常に新しい恋こそが彼女の原動力であったのだろう。
色んなタイプの人を好きになった彼女は、そのとき求めた相手が好きになった人だったのだろうが、
彼女は灰になるまで恋する女であり、歌人であったと、思う。



熊本県小国町  「 笹原家の庭と文学碑 」

2012-05-11 19:29:54 | 文学・文化・映画作品



笹原家の庭

















小国町の道の駅 「 ゆうステーション 」 を出て、
次に向ったのが、善正寺山門前にある石橋だったが、
その石橋を探しているときに故・笹原芳介氏の家の庭と二つの文学碑に出会った。

この庭の前庭には、高浜虚子の歌碑
「 火の国の 火の山裾の 山並の 幾尾根越えて 小国やはある 」
があり、
後庭には、高野素十の句碑
「 一日の 阿蘇行その後 冬籠 」
がある。