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「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

福岡県直方市 『 月今宵爰も東に山はあれど 』 湖白庵諸九尼

2016-09-04 03:07:58 | 文学・文化・映画作品



諸九尼が京都を懐かしんで詠んだ 「 福智山 」









直方市中央公民館にある 「 世越捨亭 見類分別や 山さくら 」 諸九尼の句碑








直方市中央公民館の句碑の横にある「 世を捨てて 見る分別や 山ざくら 」 の碑文





湖白庵諸九尼は、江戸中期に活躍した俳人で、
女性でありながら各地を行脚しながら数々の俳句を残した。

諸九尼は庄屋に嫁したが、
しばらく近くに滞在していた医師で俳人の湖白庵浮風に俳諧を習うことになる。
二人は俳諧の師弟であったのが夫や周囲から疑われ、
意を決して旅立った浮風を追いかけ、
関西に移って共に暮らすことになった。

宝暦12年 ( 1762年 ) 、約20年間一緒に暮らした浮風が亡くなり、
諸九尼は剃髪し、諸国行脚に発つ。
明和8年 ( 1771年 ) に、芭蕉の 『 奥の細道 』 の跡を懐かしく思い、東北に旅し、
著した紀行集 『 秋風の記 』 は有名である。
安政7年 ( 1778年 ) 浮風の故郷である直方に帰り、俳諧の指導に努めた。


 『 月今宵爰 ( ここ ) も東に山はあれど 』 


( 福智山に昇る ) 月が見える。ここ ( 直方 ) も東に山がある。 と、
京都の東山を懐かしんで詠んでいる。

諸九尼も見た福智山は、北九州市国定公園福智山系の主峰であり、
この山頂から観る360度の眺望の素晴らしさは北部九州随一と言われている。


湖白庵諸九尼、本名 : 有井なみ。
正徳4年 ( 1714年 ) 竹野郡唐島 ( 現・久留米市田主丸町 ) に生まれた。
寛保3年 ( 1743年 ) 浮風の後を追い京都に入り、翌年大阪に移る。
宝暦5年 ( 1755年 ) 京都に移り、住居を 「 千鳥庵 」 と称する。
宝暦12年 ( 1762年 ) 浮風の死去後、剃髪して 「 蘇天 」 を名乗る。
安永7年 ( 1778年 ) 京を去って直方に帰住する。
天明元年 ( 1781年 ) 68歳で没する。

主な著書に、紀行集 「 秋風の記 」 、俳諧撰集 「 その行脚 」 「 湖白庵集 」 、
没後刊行の 「 諸九尼句集 」 などがある。


「 世越捨亭 見類分別や 山さくら 」の句碑がある直方市中央公民館
直方市中央公民館  /  福岡県直方市津田町7−20


福岡県岡垣町  『 鐵鉢( てっぱつ ) の中へも霰 ( あられ ) 』  種田山頭火

2016-08-31 03:13:33 | 文学・文化・映画作品



岡垣町の成田山不動寺にある 「 鐵鉢の中へも霰 」 句碑










さつき松原











破れ笠と鉄鉢、木の杖を手にした姿。
放浪の俳人・種田山頭火は、酒と旅に生きながら、
多くの自由律俳句を生み出した。
字数の少ない 「 短律 」 と呼ばれるものが多い山頭火の句の中で、
特に短いものの典型としてよく知られているのがこの句であろう。


 『 鐵鉢の中へも霰 』 


鉄鉢は修行僧が戸口で米や銭を受け取る鉢のことである。
鉄鉢を打つ霰の音が、
正月の振る舞い酒を反省する山頭火の 「 全身全心 」 を、
笞 ( むち ) のように打つ。
” 音の詩人 ” といわれる山頭火の代表句にふさわしい。

昭和7年 ( 1932 ) 1月8日の日記に、
「 雪、行程六里芦屋町 」 と記されており、
玄界灘に臨む ” さつき松原 ” で詠んだ絶唱と言われている。
「 さすがにこのあたりの松林はうつくしい。もっとも日本的な風景だ 」 と、
日記に続けている。

さつき松原は樹齢200年以上の黒松並木が続く白砂青松、
紺碧の海の弓状砂浜で、伊勢の二見浜、日向の小戸浜と並んで
日本三浜の一つにあげられる。

この 「 さつき松原 」 は、黒田長政が海岸一帯に植林したのが始まりで、
田畑の風よけ、砂防のため植林が続けられたものである。


「 鐵鉢の中へも霰 」 の句碑は、
岡垣町の湯川山 ( 471m ) の山腹にある成田山不動寺の境内にある。



福岡県大牟田市 ・  森田ヤエ子 作詞 / 荒木 栄 作曲 『 がんばろう 』

2016-08-25 03:45:43 | 文学・文化・映画作品



世界遺産となった 「 三池炭鉱宮原坑跡 」








坑内トロッコ







かつて石炭を満載した列車が走っていた旧三池炭鉱専用鉄道敷跡






 『 がんばろう 』 は、昭和35年 ( 1960年 ) に、
三井三池炭鉱の労働争議の中で生まれた労働歌である。

この年は、60年安保闘争と並んで日本の総労働対総資本の決戦と言われた
三池争議が最終段階に入った年で、
全国からのオルグ ( 支援者 ) が大牟田に結集してきた。
日本のエネルギー転換政策に沿った大量解雇通告で始まった三池争議は、
第二組合を結成、暴力団のピケ隊襲撃事件と激しい闘争となっていった。

この歌は、三池労組の若手が中心となって結成した歌声部隊から、
「 みんなの心を奮い立たせる歌を・・・ 」 との依頼で生まれたものである。

作詞者の森田ヤエ子は、当時、三菱上山田炭鉱厚生課勤務で、
歌声部隊に参加して大牟田に通っていたが、
この要請に応えるため集会に加わり、イメージをつかみ作詞した。

三井三池製作所勤務だった荒木 栄が作曲を担当し、
炭鉱労働者コンビによって生まれたのが 『 がんばろう 』 である。


がんばろう! つきあげる空に
くろがねの男のこぶしがある
燃えあがる女のこぶしがある
闘いはここから 闘いは今から

決然とした闘志に満ちたこの労働歌は、
たちまちみんなの心をとらえ闘いの場を支えた。
この歌は、その後 ” うたごえ運動 ” に乗って全国で歌われた。



作曲者の荒木 栄は、当時 大牟田に住み、
三井三池製作所に勤務しながら、数多くの作曲を手掛けた。
三池争議が終結した2年後の昭和37年 ( 1962年 ) に、
38才の若さで没した。

昭和47年には、 『 がんばろう 』 『 三池の主婦の子守歌 』 など入った
LPレコード 『 荒木 栄作品集 ・ 不知火 』 が発売された。


北九州市若松区 ・ 宗像市鐘崎    『 海路残照 』  森崎和江

2016-08-21 09:11:05 | 文学・文化・映画作品



若松工業地帯の洞 ( くき ) の海を眺める





森崎和江は宗像市在住で、詩人、評論家、
そしてノンフィクション作家として知られている。
韓国で生まれた森崎は一貫して女性や民族、姓名などを
大きなテーマをして書き続けている作家といえよう。

「 海路残照 」 ( 昭和56年、朝日新聞社 ) は、
海辺の村に残る不老不死の女の伝承から、村人の暮らしを描き出した作品である。
ほら貝を食べた海女が幾百年も若い姿のまま生き、各地を巡りつつ津軽まで行った。
この伝承に心を惹かれた作者が言い伝えの残る 「 庄の浦 ( 現・若松区乙丸 ) 」 と、
鐘崎 ( 宗像市玄海町 ) から、類似の伝承が残る若狭小浜、輪島、
そして海女たちがたどり着いたとされる津軽十三湖へと訪ね歩いて綴られている。

「 長寿の海女の話が語られていた江戸期には、遠賀川の満潮が逆流していた。
また若戸大橋の方から玄界灘の海流が、洞 ( くき ) の海を通って
川まで打ち寄せていたのだった。
そして、長寿譚のある庄の浦あたりで潮が出合っていたのだ。
海上をゆく舟は波荒い響灘を避けて、この洞の海を通ったりしたのだろう 」

鐘崎は日本海沿岸に伝わる海女の技法の発祥の地といわれ、
漁民の移住や出稼ぎによって東は能登の輪島の舳倉島 ( へぐらじま ) 、
西は対馬の曲浦 ( まがりうら ) などに足跡を残している。

鐘崎の織幡神社境内には、昭和初期の海女の姿をした 「 筑前鐘崎海女像 」 があり、
今でも数人の海女によって技法が伝えられている。
また玄海町立民俗資料館には、福岡県有形民俗文化財の指定を受けた
「 海女の用具一式 」 がある。


森崎 和江 ( もりさき かずえ、1927年4月20日 - ) は、詩人、ノンフィクション作家。

朝鮮大邱生まれ。福岡県女子専門学校(現・福岡女子大学)卒。
1950年、詩誌 『 母音 』 同人となる。
1958年、筑豊の炭坑町に転居し、谷川雁、上野英信らと文芸誌 『 サークル村 』 を創刊。
1959年-1961年、女性交流誌 『 無名通信 』 を刊行。
以後福岡を根拠地として炭鉱、女性史、海外売春婦などについて多くのノンフィクション、
また詩集を刊行する。1994年度福岡県文化賞受賞。
2005年、詩集 『 ささ笛ひとつ 』 で第14回丸山豊記念現代詩賞を受賞。

木村栄文のドキュメンタリー 『 まっくら 』 『 祭ばやしが聞こえる 』
にて構成や案内役として携わっている。


北九州市八幡東区  「 ジャンケンポン協定 」  佐木隆三

2016-08-18 03:41:31 | 文学・文化・映画作品



コークスを燃やし昼夜問わず ” 鉄づくり ” に従事する工場









八幡東区の高炉台公園にある 「 復讐するは我にあり 」 の碑






佐木隆三は、八幡製鉄所在社中に書いた 『 ジャンケンポン協定 』
 ( 昭和38年、新日本文学に発表 ) で、
昭和38年に第3回新日本文学賞を受賞する。
翌年から文筆生活に入り、現実の犯罪事件や法律、
裁判の矛盾点を鋭く突いた作品を書き続けた。

『 ジャンケンポン協定 』 は、会社とダラ幹 ( だらけた組合幹部のこと ) が、
5万人の労働者同士にジャンケンをさせ、負けた方をクビにする協定を結び、
その協定実施に日に、行列を作っている労働者たちのやり取りを描いた短編小説である。

ジャンケンポンは工場別に行われ、会社代表の課長と
組合代表の支部長の立ち会いのもと行われた。
ジャンケン参加者1124人のストリップミル工場では、
約3時間半かかる見込みであるが、勝負はなかなかはかどらない。

「 監督さん、アタシはチョキを出します 」
「 じゃ、ぼくもチョキを・・・ 」
「 どうしてもっと早く、アイコでショの術を発見できなかったんだろ 」
このつぶやきで小説は終わる。
結局、みんなの知恵で協定を骨抜きにしたわけである。

佐木は八幡製鉄所の体験を素材に 『 ジャンケンポン協定 』 を書いているが、
内容はフィクションであり、場所も特定できない。


佐木隆三は、1937年広島県から
旧朝鮮咸鏡北道に渡った両親のもとに生まれる。
1941年 広島へ帰国、終戦後八幡市 ( 現・北九州市八幡東区・西区 ) に移住。
1956年 福岡県立八幡中央高校卒業後、八幡製鐵に就職し文筆活動を開始。
1963年 「 ジャンケンポン協定 」 で新日本文学賞受賞。
1964年に八幡製鐵を退社後、文筆業に専念。
1976年 「 復讐するは我にあり 」 で第74回直木賞を受賞。
1990年 「 身分帳 」 で第2回伊藤整文学賞を受賞。
法廷ルポルタージュを多く執筆し、 「 裁判傍聴業 」 を自称する。



福岡県柳川市  『 廢 止 ( はいし ) 』  福永武彦

2016-08-12 02:56:09 | 文学・文化・映画作品



「 御花 」 の船乗り場





福永武彦は昭和17年 ( 1942年 ) から、
中村真一郎、加藤周一らと新しい文学グループ 「 マチネ・ポエティク 」 を結成し、
昭和22年 ( 1947年 ) に 「 1946文学的考察 」 を発表し、
戦後の荒廃した社会に新世代による新たな芸術至上主義を宣言し、脚光を浴びる。

『 廢 止 』 は、昭和34年 ( 1959年 ) に、雑誌 「 婦人之友 」 に発表。
福永が41歳の時の作品である。
物語は大学生の 「 僕 」 が、卒業論文を書くためにこの地の旧家を訪れ、ひと夏を過ごす。
旧家の姉妹である郁代、安子、旧家の養子・直之と 「 僕 」 との間で揺れ動く
複雑で微妙な恋愛感情を描いたものである。

「 この古びた町の趣は、舟の上から見るとまた一段とすぐれてゐた。
白い土蔵や白壁が夕陽を受けて赤々と輝き、
それが青黒い波に映って見事な調和を示していた。
小舟が横にそれて割り堀にはひると、
水の上に藻がはびこって、その緑色が蒼い水の上に漂ふさまが夢のやうだった 」 と、
水郷柳川の描写をしている。

柳川の川下りは、全長約4キロのコースで、
西鉄柳川駅近くの乗船場からドンコ舟に乗り込み、
赤レンガの並蔵や「御花」のなまこ壁の蔵などを通って沖端まで下る。
そんな詩情あふれる風情を求めて四季を通じて観光客が訪れる。



福永 武彦は、大正7年(1918年)
福岡県筑紫郡二日市町(現・筑紫野市二日市)に生まれる。
1941年、東京帝国大学文学部仏文科を卒業する。
1945年、治療と疎開のため北海道帯広市に移り、
帯広中学校の英語教師として赴任する。
その年に処女作 「 塔 」 を発表する。

1954年の長編小説 『 草の花 』 で作家としての地位を確立し、
人間心理の深奥をさぐる多くの長編小説を発表した。

また、中村真一郎・堀田善衛とともに
映画 『 モスラ 』 の原作となる 『 発光妖精とモスラ 』 を執筆、
中村真一郎・丸谷才一と組んで、
西洋推理小説をめぐるエッセイ 『 深夜の散歩 』 を刊行し、
さらに加田伶太郎の名前で推理小説を書いた。


同人仲間の原條あき子(詩人、2003年没)と1944年に結婚したが、
1950年に離婚。二人の間に作家・池澤夏樹がおり、
更にその娘が声優・池澤春菜である。


福岡県久留米市田主丸町 ・ 『 月光菩薩 』 火野葦平

2016-07-30 03:39:59 | 文学・文化・映画作品



筑後川堤防の道路沿いに建つ 「 月光菩薩 」









台座には火野葦平が自ら書いた碑文が刻まれている








月光菩薩の後方に耳納連山が見える







月光菩薩から赤い筑後川橋が見える







北九州市若松区にある火野葦平の旧宅 「 河伯洞 」








現在も葦平の本名「玉井勝則」の表札が掛かっている












『 月光菩薩 』 を書いた火野葦平は、北九州市が生んだ芥川賞作家で、
戦後は 「 花と龍 」 、 「 ただいま零匹 」 などの新聞連載小説で
人気作家としての座を不動のものにした。
一方、河童を題材とした河童物といわれる短編小説を数多く残し、
独自の文学を形成している。

田主丸を舞台とした河童物のひとつが、
昭和32年 ( 1957年 ) 7月の 「 別冊小説新潮 」 に発表された 『 月光菩薩 』 である。

「 九千坊頭目のいる筑後川は、また、カッパの伝説の豊富なところ。
特に最近は方々から水神の祠や、カッパの神様が新しく発見されて、
私の用件もふえたというものだ 」 と 『 月光菩薩 』 の中で述べているが、
「 カッパの遺跡 」 をたずねた火野が、田主丸で見た月光菩薩の由来を書いた小説である。

物語は、柴山旦那と女中おツネとの悲恋物語で、
昭和28年 ( 1953年 ) の大水害で亡くなったおツネの死を悼み、
筑後川堤防の道路沿いに菩薩像が建立されている。
その台座には、後に火野自らが書いた碑文が刻まれている。

月光菩薩は、久留米市田主丸町片の瀬温泉近くの筑後川堤防の道路沿いに建っている。


火野葦平は、 ( 現・北九州市若松区 ) で、
沖仲仕「玉井組」を営んだ玉井金五郎の三男二女の長男として生まれる。
自伝的作品 『 花と龍 』 などに書かれているように、
父・金五郎は現在の愛媛県松山市の出身、母・マンは現在の広島県庄原市の出身である。

旧制小倉中学校 ( 現福岡県立小倉高等学校 ) 卒業、早稲田大学英文科中退。
『 糞尿譚 』 で芥川賞を受賞。その後の『麦と兵隊』は大きな評判をよび、
『 土と兵隊 』 『 花と兵隊 』 とあわせた 「 兵隊3部作 」 は、
300万部を超えるベストセラーとなった。
東京と福岡に本拠を二分し、東西を往復しての執筆活動で多忙を極めた。
著述業と共に 「 玉井組 」 二代目も務める。

『 麦と兵隊 』 など兵隊小説作家として知られるが、
一方で河童の登場する作品が多く残る。
その数、小説、随筆、童話などで100点を超えるという。
芥川龍之介を敬愛しているが、芥川が 「 フィクションによってしか語れぬ事実がある 」 と、
河童を通して社会を風刺したのに対し、
葦平は 「 私の描く河童が理屈っぽく、
風刺的に、教訓的になることを警戒していた 」と書いている。
また、 「 河童が私の文学の支柱であることになんの疑いもない 」 と書いている。

三男・史太郎は、旧宅を利用した記念館 「 河伯洞 」 の館長を務める。



北九州市八幡東区と西区 ・  「 この天の虹 」 木下恵介監督

2016-07-25 03:03:23 | 文学・文化・映画作品



七色の煙をイメージさせる高炉台公園のシンボル 「 高炉モニュメント 」








官営八幡製鉄所・東田第一高炉跡





昔、 『 木下恵介アワー 』 という自らの名前を冠名にしたドラマがあった。

「 この天の虹 」 は、昭和30年代初頭の八幡市 ( 現・北九州市八幡東区・西区 ) を舞台に、
東洋最大を誇った八幡製鐵所 ( 現・新日本製鐵 ) と、
そこで働く人々の生活、恋と友情。
そして人間愛を描いた映画である。

昭和33年 ( 1958年 ) 松竹作品で木下恵介がオリジナル脚本を書き、監督を務めた。
映画は空から見た北九州市と製鉄所の工場全景が映し出され、
また、工場内を紹介するなど、劇映画の中に記録映画の手法が持ち込まれた。

八幡の歴史は 「 製鉄所の歴史 」 そのものと言えるくらい共存共栄の関係である。
明治時代まで静かな農漁村は、明治34年 ( 1901年 ) に、
官営八幡製鐵所の操業開始により、鉄鋼の街として急成長して行き、
日本を代表する鉄鋼業の工業地帯として、我が国の成長期を支えた。

この映画の題名の 「 虹 」 とは、煙突から空へ昇る煙のことで、
昭和27年 ( 1952年 ) から製鐵を効率的に行う酸素製鉄法が確立され、
酸素を大量に吹き込むため、粉塵が燃焼して赤い煙が出て、
黒煙や白煙と相まって 「 七色の煙 」 と言われ、高度成長を誇った。

しかし、現在の北九州市は、住民、企業、自治体が一体となって公害を克服し、
平成4年 ( 1992年 ) には国連環境開発会議から 「 国連自治体表彰 」 を受けている。

この高炉台公園は、昭和32年 ( 1957年 ) 北九州市制40週年を記念して造られたものである。



福岡県柳川市 ・ 宮崎 駿 と 高畑 勲 「 柳川堀割物語 」

2016-07-19 02:39:46 | 文学・文化・映画作品














「 柳川堀割物語 」 は、昭和60年 ( 1985年 ) に、
アニメーション界のゴールデンコンビの高畑 勲と、
宮﨑 駿の両演出家がコンビを組んで初めて制作した記録映画である。

掘割を舞台に展開する人と自然との共生を、
みずみずしい映像で描き上げている。

小舟にカメラを据え、船を水面に滑らせて水路から撮影した両岸の景色は
実に新鮮である。
掘割で洗濯をする人や魚とりに興じる子どもたち、
一致協力しての清掃活動と掘割再生へ向けて努力する人たちが次々に登場する。

賑やかな白秋祭や水天宮祭などの年中行事など、
カメラは移り行く四季折々の風景を織り混ぜながら、
掘割を克明にクローズアップしている。
水利システムや掘割の歴史的な役割などを紹介する場面には、
アニメーションが効果的に用いられ、わかりやすく解説されている。

映画のタイトル 「 掘割 」 とは、地面を掘って造った人口水路のことで、
いわゆるクリークである。
柳川市では、奈良朝の条里制導入以降に造られたもので、
市内全域で総延長は470キロにのぼる。
大昔からかんがい用水、船による水運路、農業用水、生活用水などの活用されてきた。

市内にある水の資料館は、柳川の生命線である掘割と、
人との関わりについて学ぶ場で、市内地の水流模型や堀干しの道具などの他に、
資料コーナーには、北原白秋ら柳川の文学者の資料も展示されている。


「 柳川あめんぼセンター 」

所在地  / 福岡県柳川市一新町3-1
電話  / 0944-74-4111


北九州市 ・ 田川郡 ・ 京都郡  /  『 白い山 』 村田喜代子

2016-06-23 01:55:04 | 文学・文化・映画作品



平尾台の草原一面に羊が群れるように見える石灰岩の 「 羊群原 」







まるでゴジラの背びれのような 「 鬼の唐手岩 」











村田喜代子は、文学者を数多く輩出している北九州市出身の作家である。
昭和50年 ( 1975 ) に、 「 水中の声 」 で第7回九州芸術祭小説部門で、
最優秀賞を受賞を機に文筆活動を始めた。

平成2年 ( 1990 ) に、第29回女流文学賞を受賞した 『 白い山 』 ( 文藝春秋 ) は、
「 もうすぐ死ぬ 」 と三十年間言い続け、九十歳で死ぬ 「 わたし 」 ( 作者 ) の祖母を中心に捉え、
種まきばあさん、腰の曲がった老婆、谷のばあさん ( 「 わたし 」 の夫のおば ) 、
英語で歌う老女、海産物の行商の老婆を巧みに織り込み、
老女のたくましさ、せつなさ、哀れさを描いた短編である。

祖母の死後のある日、 「 わたし 」 は姉と平尾台へドライブに出かける。
「 登り進につれて紅葉した崖に、石灰岩の岩肌が露出しはじめる。
見上げるような崖いちめんが白い岩である。 」
「 樹々の繁りは毛髪のように見える 」
「 つぎの崖が迫った。するとその岩には人間に額が浮き出ていた 」
進むにつれて 「 喉が現れる。顎が現れる。額が・・・、鼻が・・・、山肌につぎつぎに浮き出る 」
車を降り 「 わたしはいつのまにか祖母の大きな頭の上を歩いている自分に気がついた 」 のであった。

それは、平尾台を舞台に祖母への想いが、斬新に描写されている。


平尾台は我が国を代表するカルスト台地で、
広大な草原に白い石が点在する様が、羊が群れ遊ぶようで「 羊群原 」 と呼ばれている。
北九州市小倉南区、京都郡苅田町、勝山町、田川郡香春町にまたがり、
北東部の約250ヘクタールは、国の天然記念物に指定されている。
また、千仏鍾乳洞をはじめ、目白洞、青龍窟などの洞窟が点在する。


村田喜代子は、北九州市八幡西区出身。
両親の離婚後生まれたため、戸籍上は祖父母が父母となる。
市役所のミスで一年早く入学通知が来たため、1951年小学校入学。
八幡市立花尾中学校卒業後、鉄工所に就職。
1967年結婚し、二女を出産。

1977年「水中の声」で第7回九州芸術祭文学賞最優秀作を受賞。
これを境に本格的な執筆活動に入る。
1985年からタイプライターによる個人誌『発表』を作成し「文學界」同人雑誌評に送付。
1986年『発表』2号の「熱愛」が同人雑誌推薦作として『文學界』に転載され、
第95回芥川賞候補となる(該当作なし)。
続いて「盟友」(『文學界』9月号) が第96回芥川賞候補となる(該当作なし)。
1987年「鍋の中」で第97回芥川賞を受賞した。

やや怪奇味を帯びた作風だが、『龍秘御天歌』ではリアリズムに転じた。
「鍋の中」を黒澤明が『八月の狂詩曲』として映画化した際には不満で、
「ラストで許そう黒澤明」を『文藝春秋』に寄稿した。

『百年佳約』(下記参照)の挿絵を担当したスペイン在住の画家堀越千秋とは親友。

現在、泉鏡花文学賞、川端康成文学賞、紫式部文学賞選考委員。

物心がつく前から吃音があり、今も直っていない。
子どもの頃は悩んだが、社会人になってからはたいして気にならなくなったという。


受賞歴
1977年 「水中の声」で第7回九州芸術祭文学賞最優秀作。
1987年 「鍋の中」で芥川賞。
1990年 『白い山』で女流文学賞。
1992年 『真夜中の自転車』で平林たい子文学賞。
1997年 『蟹女』で紫式部文学賞。
1998年 「望潮」で川端康成文学賞。
1999年 『龍秘御天歌』で芸術選奨文部大臣賞。
2007年  紫綬褒章。
2010年 『故郷のわが家』で野間文芸賞。
2014年 『ゆうじょこう』で読売文学賞。
2016年  春の叙勲で旭日小綬章を受章。


伊集院 静 ・ ねむりねこ 「 椿の葉 」 と 「 愛犬ピース 」 と・・・

2015-08-05 01:37:41 | 文学・文化・映画作品











我が家の 「 椿の葉 」






愛犬ピースの墓碑





椿といえば、五島列島だが、
今日は、以前飼っていた愛犬ピースの祥月命日なので、
五島列島ではなく、ピースのことについて書きたいと思う。

ピースが亡くなって今年で4年になる。
息子がインターハイで東北に行っていたときだった。
あの日は暑い日で、ピースの亡骸としばらく添い寝したあと、
スコップを持って庭に深さ1mほどの穴を掘った。
汗と涙が混ざったしずくをポタポタと
自分が掘った穴に落としながらの作業だった。
それが 「 椿の葉 」 の一節に出て来る情景となんとなく重なった。

それで、今日は伊集院さんの文を一部引用させて頂いた。


 或る夜、子供たちの可愛がっていた犬が死んだ。
我家の犬は代々父に一番懐 ( なつ ) いていた。
犬が死んだ瞬間、泣き出した子供たちを父は叱責し、
ひとりで犬を抱きスコップを片手に愛犬を埋めに出かけた。
数時間後、洗い場で手を洗っている父に声をかける母の静かな口調を
布団の中で聞いた。

 父はどんな表情をして、闇の中で穴を掘っていたのかと想像する。
それが小説の描写の核だと思っている。

 私はひとりの人間が人生をかけて成し得るものは仕事の内容ではなく、
人格がいかにつくられたかにあると思っている。
どんなに世間が着目する仕事をした人でも、
品格が欠けた人の手に依って成されたものは所詮三流だと思っている。
そして、その人なりがあらわれるのは、
微細な、思いがけない所作、行動の中だと信じている。


 一本の木を描写するのは、その木の高さ、幹の太さがすべてではなかろう。
やはり枝葉の中にしか見えない真実に似たものがあるのだろう。
 椿の花の咲いた折の美しさは、和花の中でも秀逸であると言われている。
だが、私は正直なところ椿の花は好きではない。
落花した時の腐敗した醜状を何度も目にして、
それが滅びた人間の肉体に重なるからだ。
むしろ椿で惹かれるのは、あの艶やかでいかにも強靭そうな葉のありようである。
 それが大人の男の気骨に相通じる気がするのだが・・・。



「 ピース又吉 」 と 愛犬ピースと沖縄又吉ハイツと・・・

2015-07-20 14:41:41 | 文学・文化・映画作品








今日も田んぼの畔刈りをした。
このところ午前中で仕事が終わるが、
午前中の4時間でも汗だくでクタクタになる。

そういえば、土曜日に草刈りをして草刈機を持ったまま用水路に落ちた。
用水路に竹が生い茂っていたので気付かずにその上に乗ったらドボン!である。
時間的に11時を過ぎていたので、ずぶ濡れのまま草刈りを続けたが、
カラダは重かったが、結構じゅっとりとして冷たくて良かった。

そんな草刈りから帰って来て、一番の楽しみは水風呂とビールとハイボールである。
このところ昼間から飲むことが多くて、ゴロゴロしながら本を読んでいる。

そうそう、最近話題になったピース又吉の 「 火花 」 が芥川賞を受賞した。
これは、スゴイ才能だと思う。
話題性で獲ったタイトルではなく、実力で掴み取ったものだから、
ホントに凄いと思う。
皆は芸人とか何とか言っているけど、職業に関係なく、
文字が人の心に訴えるものは何かを知っているのだと思う。

火花も好きだが、個人的には彼が東京の百地域について、
身の上話を綴ったエッセイの 「 東京百景 」 が好きである。
タイトルは太宰治の東京八景にちなんでいるそうだが、
ボクも、以前飼っていた柴犬のピースと、沖縄市の江洲グスク付近にある
「 又吉ハイツ 」 のイメージが強くて、売れはじめの頃から意識していた芸人である。
そんな彼が芥川賞を獲ったことを嬉しく思う。
多少、生活感が変わるかもしれないけれど、
今まで通りのスタイルで、そしてスタンスで行ってほしいと思っている。

でも、レコード大賞じゃなけれど、
物書きで続けていこうと思えば、これからが大変だと思う。
ファンは 「 火花 」 よりも、もっと良いものを期待するから・・・

でも、九州・福岡地区の番組のティーンティーンに出ていたままの姿で
これからも頑張ってほしいと思っている。




竹下しづの女 「 天に牽牛 地に女居て糧を負う 」

2015-07-07 00:01:41 | 文学・文化・映画作品

今夜は 「 七夕 」 である。
そんな日は、竹下しづの女の句を思い出す。

竹下しづの女 ( たけした しづのじょ、1887年3月19日-1951年8月3日 ) は、
日本の俳人。本名は静廼 ( シズノ ) 。

福岡県京都郡稗田村中川 ( 現・行橋市 ) 出身。
福岡女子師範学校 ( 後の福岡教育大学 ) 卒業後、
6年間の教員生活を経て結婚。2男3女を儲ける。
育児の傍ら本格的に句作を始め、
「 天の川 」 を主宰する吉岡禅寺洞を知り、指導を受ける。

大正9年に高浜虚子が主催する「ホトトギス」の巻頭を飾り、
彗星のように俳壇に登場し、
中央の俳壇でも認められるようになった。
しづの女の句は、母の心と子供の成長の様子、そして貧困の苦悩など、
生活そのままを大胆に表現している。
杉田久女とは同世代だが、久女とは生き方も句も対照的であった。


 「 天に牽牛地に女居て糧を負う 」 

昭和20年 ( 1945年 ) しづの女は、農地確保のため博多から帰郷し、
田小屋を建てて五反の田を作り、米を博多の子女へ一人で運んでいた。

今夜は七夕である。天の牽牛星は織女星と会うが、
私とは関係のない世界のことで、ここ地上には私という女が居て
夜道に食糧の荷を負って運んでいる。

これは、やや世間を僻んだ句であるが、
この慣れぬ重労働で少なからず健康を害したようであった。


しづの女の句は、理知的な手法で、女性の自我や自立を詠った作品が多い。
代表句として 「 短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉 ( すてつちまおか ) 」 が知られる。
昭和12年 ( 1937年 ) には、長男・竜骨 ( 吉信 ) を中心に
「 高等学校俳句連盟 ( のちの学生俳句連盟 ) 」 の結成にあたり、
機関誌 「 成層圏 」 を創刊し、昭和15年 ( 1940年 ) に句集 「 颯 」 を刊行した。
その後参加した中村草田男とともに指導にあたり、香西照雄、金子兜太ら後進を育てた。
また没年まで九大俳句会を指導している。



伊集院 静   「 ねむりねこ ・ ( 紫陽花 / 雨に光る花 ) 」

2015-06-06 00:06:41 | 文学・文化・映画作品
















庭の紫陽花が咲きはじめた。

私の背丈より高い茎のてっぺんで、花は七月の陽射しにむかって、
赤児が空に手を差し出すように伸びていく。

紫陽花には雨が似合う。というが、
入梅の季節に開花し、梅雨明けに花仕舞いするから、
雨の中をけなげに咲く姿が人に何かを訴えるのかもしれない。


雨・・・
小学生のころ、雨に濡れて学校へ行くのは嫌なものだった。
雨でなくても勉強嫌いで学校に行くのが億劫だった。
そんな雨に濡れて輝きを増す花もあるものだと、
大人になって気付かされた。


花を見つけたのは私だが、
花の方は何十年、いや何百年以上、
その場所で雨、風、雪に耐えながら、
一瞬の開花に、可憐な華やぎの時間を迎え続けているのだろう。



伊集院 静 「ねむりねこ ・ 雨の鉄線 」

2015-05-29 04:24:41 | 文学・文化・映画作品
















十月に入った仕事場に、鉄線の紫の花があざやかに咲いている。
秋を迎えて咲く鉄線は、どこか歳を重ねた女性が踏ん張っているような感じがする。
鉄線は夏の花であるから、初夏の、それも花弁が開く少し前の、
蕾の頃が、私は好きだ。


ボクの好きな作家で競輪が好きな伊集院 静さん。
その伊集院 静さんの本には色んな花が出て来る。
その中で知った 鉄線 。

この 「 ねむりねこ 」 の中でも色んな花が登場する。
紫陽花、野薊 ( のあざみ ) 、姫女苑 ( ひめじょおん ) など・・・
読み進めて行くうちに、そんな花の名が自然と染み付いて行く。

その中でも特に惹き付けられたのが 「 鉄線 」 である。
この本の第一章 「 どこへ行ったのやら 」 の中に、
” 雨の鉄線 ” という題の短文がある。
これは伊集院静さんの妻で女優でもある
篠ひろ子さんのお父さんのことを書いたものである。


最後に見舞った日に、私にむかって指をまるめ、
酒はやってるかね、と訊いた。
私がうなずくと、義父は満足そうに笑った。
とうとう最後まで、娘を頼むと口にされなかった。
鉄線の花ようにあざやかな男っ振りの人だった。