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「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄の文化財 「 伊江島 ・ ゴヘズ洞穴遺跡 」

2013-12-30 05:52:41 | 沖縄の文化財







伊江島のゴヘズ洞穴遺
Cave Gohezu of Ie island

 ( 県指定史跡 ) 
Prefectural Historical Monument


指定年月日 : 昭和 52 ( 1977 ) 年5月9日 
Designaed Date : May 9,1977
所在地 : 沖縄県国頭郡伊江村字 西江上 ゴヘズ原
Location : Nishieue ,Ie-son,Kunigami-gun,Okinawa-ken



伊江島のゴヘズ洞穴遺跡は、伊江島のほぼ中央に位置する通称ゴヘズ山(高さ約82m)と呼ばれる
山の琉球石灰岩洞穴内にある遺跡である。
洞穴の入り口は一辺がおよそ2.5mの三角形状の縦穴になっており、
地表下約3.8mで広い床面に達する。
床面は北側へ約19m延びた主洞を形成しており、更に下方へ細く延びた下洞がある。
多量の鹿の化石が洞穴内で出土しており、
数少ない沖縄の旧石器時代遺跡の中でも、遺物の出土の豊富なことと、
保存が良好なことで他に例をみない貴重な遺跡である。


The site is located in a Ryukyuan limestone cave at a mountain known as Gohezu
( about 82m. high ) which is a the central part of the Ie island.
The entrance of the cave is a triangle pit with a 2.5m.
side, and the floor is at 3.8m. below ground.
The floow stretches 19m. to the north to form a main part, and goes further to a narrow paet.
Many fossil deers are found in the cave. It is a matchless site among a few remains of Old Stone
Age because it is rich in archaeological articles which are in a good condition.



沖縄の文化財 ・ 沖縄県恩納村 『 万座毛 』

2013-11-10 00:03:48 | 沖縄の文化財









万座毛
Cape  Manzamo
( 県指定名勝 )
Prefectural Scenic Beauty


指定年月日 : 昭和 47 ( 1972 ) 年5月12日
Designaed Date : May 12,1972
所在地 : 沖縄県中頭郡恩納村字恩納
Location : Onna,Onna-son,Nakagami-gun,Okinawa-ken



万座毛は、恩納集落の北西の海岸際にあり、波で削られて出来た琉球石灰岩の海食崖地形と
約100m四方に広がる自然の芝生の広場からなっている。
万座毛という名称は、18世紀の前半に当時の琉球国王
尚 敬王 ( 在位1713~1751 ) が北山見回りの途中にこの地に立ち寄り、
「 万人を座らせるに足りる 」 と言ったことに由来すると言われている。
尚 敬王を歓迎して歌人、恩納ナベが詠んだ
「 波の声もとまれ 風の声もとまれ首里天加那志 美御機がま 」 という歌碑が
入り口付近に建っている。
また、オキナワスミレやオキナワマツバボタンなど生物地理学上貴重な植物も数種類生育している。
眺望が素晴らしいことで訪れる人も多く、沖縄本島における代表的な観光地である。


A Ryukyuan iimestone sea cliff and grassy open space form Cape Manzamo
which is to the northeast of Onna village.
The name manzamo comes from a story that when King Sho-Kei
visited the place on his way back from an inspection tour of Hokuzan,
he stated his impression of the place “ large enough for a myriad of people to sit ”.
Several kinds of biogeographicallyprecious plants grow there.
Cape Manzamo is one of the most famous sightseeing spots of Okinawa.



沖縄の文化財 『 勝連城跡 』 

2013-10-02 06:16:09 | 沖縄の文化財







勝連城跡
The Ruins of Katsuren Castle

( 世界遺産 )
World Heritade

琉球王国のグスク及び関連遺産群
The Gusuku Sites and Related Propertis of the Kingdom of Ryukyu



指定年月日 : 平成 12 ( 2000 ) 年12月2日 
Designaed Date : December 2,2000
所在地 : 沖縄県うるま市勝連町字南風原赤吹原、同城之下地
Location : Hebaru,Katsuren-cho,Uruma-shi,Okinawa-ken



 勝連城跡は与勝半島の付け根に位置し、小高い丘 ( 標高97m ) を中心に築かれた城である。
中城湾を隔てて護佐丸の居城であった中城城を望む城は、
5つの郭に分かれ、最高所に一の郭があり、二の郭、三の郭、四の郭と東側へ低くなり、
四の郭東側の一段低くなった所に東の郭がある。
二の郭には殿舎跡が、谷地形をなす四の郭には南側に南風原門、
北側に西原門および5つの井戸がある。
伝承によると、茂知附 ( もちづき ) 按司に代わって10代目の城主になった阿麻和利は、
海外と貿易を盛んに行って勢力を拡大したが、1458年に首里王府によって滅ぼされた。


 Katsuren Castle was built on a smsll hill ( approxmately 97meters above sealevel )
located at the base of the Katsuren Peninsula. Nakagusuku Bay from the Katsuren Castle site.
Katsuren Castle consisted of 5 sections and includwd the Haebarumon Gate to the South,
the Nishibarumon Gate to the North, and 5 independent wells for water.
 According to legend, Amawari, the 10th king of the Katsuren domain, expanded the power
of the realm by engaging in prosperous overseas trading. However, the castle fell under the
control of the royal government of Shuri in 1458.



沖縄県本部町 ・ 沖縄の文化財 『 浜元サチピン貝塚 』

2013-09-27 04:49:01 | 沖縄の文化財



B&G沖縄海洋センター内にある 「 浜元サチピン貝塚 」






浜元サチピン貝塚
Hamamoto Sachipin Shell Mound

( 県指定史跡 )
Prefectural Historical Monument



指定年月日 : 昭和 49 ( 1974 ) 年12月26日 
Designaed Date : December26,1974
所在地 : 沖縄県国頭郡本部町字浜元 北原
Location : Hamamoto,Motobu-cho,Kunigami-gun,Okinawa-ken


浜元サチピン貝塚は、B&G沖縄海洋センター内にあり、
西海岸に突出した琉球石灰岩台地の上および海側崖下斜面部に形成され、
沖縄貝塚時代後期 ( 約3500年前~2500年前 ) ~ 中期
( 約2400年前~2100年前 ) に属している。
台地上からは無文の土器と石器類が多量に出土し、海岸側の崖下斜面の貝層からは、
主として伊波・荻堂式土器などが出土している。
しかし本格的な発掘調査が実施されていないので、遺跡の具体的な性格については分かっていない。
台地上は中期、崖下部は前期と沖縄貝塚時代における遺跡立地をよく示しており、
遺跡の占地形態を知る上で貴重なところである。
また、前期の遺跡としては沖縄本島北部における数少ない例の一つでもある。


The shll mound is on a Ryukyuan limestone plateau that juts out into the west coast
and slope under the seaside cliff which are in B & G Okinawa Marine Center.
It belongs to the early ( approx. 3500~2500 years ago ) to the middle
( approx. 2400~ 2100 years ago ) Okinawan Shell Mound Age.
Among the excavated articles are many pieces of pottery with no patterns,
Iha and Ogido pottery.
However, no specific characteristics are known because there has not been
any serious investigation.




沖縄県今帰仁村 ・ 沖縄の文化財 『 今帰仁村仲原馬場 』

2013-09-20 04:40:18 | 沖縄の文化財








今帰仁村仲原馬場
Nkahara - Baba at Nkijin - son

 ( 県指定史跡 )
Prefectural Historical Monument


指定年月日 : 昭和 34 ( 1959 ) 年6月1日 
Designaed Date : June 1,1959
所在地 : 沖縄県国頭郡今帰仁村字越地
Location : Koechi,Nakijin-son,Kunigami-gun,Okinawa-ken




仲原馬場は、今帰仁小学校の南隣にあり、幅約30m、長さ250mの長方形の馬場である。
その周りは高さ約1m、幅5~10mに土を盛り上げてつくられた観覧席があり、
大きな琉球松が植えられている。
馬場は古くから民俗行事を行う場として、また畜産奨励のための競馬場として設けられた場所である。
村の産業・教育の振興をはかる集会や大衆の娯楽の場としても利用されてきた。
戦前は、各村に二、三の馬場が存在したが、戦争で壊されたり、
あるいは耕地や宅地になったりして姿かたちを変えてしまった。
この仲原馬場は沖縄の馬場の形式を残した貴重な遺跡である。


This 30×250 meters rectangular riding ground is on the south side of Nakijin elementary school.
Baba is a place where folk events were conducted, and where was a racing track for encouraging
stock raising. It was also for educational promotion meeting and the public recreation.
Nakaharad-baba is a precious remain because it is the only existent
that has a characteristic of Okinawan baba



沖縄県名護市 ・ 沖縄の文化財 『 古我知焼窯跡 』

2013-09-12 00:14:53 | 沖縄の文化財








古我知焼窯跡
The Remains of Kogachiyaki Kamaato

( 県指定史跡 )
Prefectural Historical Monument



指定年月日 : 昭和 47 ( 1972 ) 年5月12日 
Designaed Date : May 12,1972
所在地 : 沖縄県名護市字古我知奥又原
Location : Kogachi,Nago-shi,Okinawa-ken



古我知焼窯跡は、古我知集落西方の丘陵にある陶器を焼いた窯の跡である。
造られた時期は不明だが、およそ160年前に廃窯になったと言われている。
生産した製品は上焼がほとんどで、南方系・朝鮮系・薩摩系の焼き物を思わせる技法が見られ、
釉薬は灰釉や鉄釉が多く使われており、布ぶきやワラぶきといった特有の施釉方法を用いている。
また、文様付けは釘彫りや貼付文・飛鉋・印花文などの技法が取り入れられている。
大水カメ、壷類、スリ鉢などの日常雑器類の他厨子ガメなどが多く焼かれ、
数年前までは地表に数基の窯跡の姿を見ることができた。


The remains of kiln in which potteris were baked are on a hill at the west of kogachi village.
The time of its establisment is not known, but it is said that the kiln was ruined about 160 years ago.
Southern Koren, and Satsma's baking techniques can be found in the product.
In addition to daily ware such as large water jars, pots and mortar, miniature sanctuary pots are baked.
until a few years ago, remains of the kiln appeared on the ground.




沖縄県名護市 ・ 沖縄の文化財 『 屋我地運天原サバヤ貝塚 』

2013-09-03 00:07:04 | 沖縄の文化財








屋我地運天原サバヤ貝塚
Sabaya Shell Mound at Yagaji-Untenbaru

( 県指定史跡 )
Prefectural Historical Monument



指定年月日 : 昭和 31 ( 1956 ) 年10月19日 
Designaed Date : October 19,1956
所在地 : 沖縄県名護市字屋我地運天原
Location : Yagaji-Untenbaru,Nago-shi,Okinawa-ken



屋我地運天原サバヤ貝塚は、屋我地島北部の運天原にある沖縄貝塚時代中期
( 約2400~2100年前 )から後期 ( 約2000年前~12世紀 ) の貝塚である。
貝塚は海岸近くにあるサバヤと呼ばれる独立丘の南側斜面地に広がっており、
その範囲は約300㎡程である。
アラスジケマンガイを主体とする貝層が堆積しており、周辺にも貝殻が散布している。
他には面縄 ( おもなわ ) 第一式と呼ばれる土器が出土し、
貝塚の上方には間口約10m、高さ約2m、奥行き約3mの洞穴があり、
貝塚時代の住居址の可能性が大きいと言われている。
洞穴内には砕かれたアラスジケマンガイやキクザルガイなどの貝殻が散布している。


This shell mound is at the northern part of Yagaji island,
Untenbaru, and it belongs to the middle~the late Okinawan Shell Mound Age.
The 300㎡ shell mound stretches on the southern slope of a hill called Sabaya,
The main contents of the layers are called Arasujikemangai.
There are shells scattered around the spot, too. Pottery called Omonawa-daiichi-shiki
( the first type of Okinawa ) is also discovered. Over the shell mound,
there is a cave which is possibly remains of a residence of that time.



沖縄県名護市 ・ 沖縄の文化財 『 改決羽地川碑記 』

2013-08-31 00:06:04 | 沖縄の文化財







改決羽地川碑記
The Moument of Kaiketsu Haneji River

( 県指定史跡 )
Prefectural Historical Monument


指定年月日 : 昭和 44 ( 1969 ) 年8月26日 
Designaed Date : August 26,1969
所在地 : 沖縄県名護市字田井等
Location : Taira,Nago-shi,Okinawa-ken



この石碑は1735年に行われた羽地大川の改修を記念して建てられたものである。
改修工事は当時の三司官 ( 大臣 ) の具志頭親方蔡温の指導で行われ、
工事は周辺の村々から延べ10万人を動員して3ヶ月間かかったといわれている。
この改修によって羽地大川は田井等や振慶名の南を流れて呉我の海に注ぐようになった。
現在、羽地大川は1917年 ( 大正6 ) ~1938年 ( 昭和13 ) の改修によって
仲尾次の海へ注ぐようになっている。
最初は石碑が壊れてしまったので、1830年 ( 道光 ) に建て直したと記されていたが、
表面がすり減って文字はほとんど読める状態ではなくなっている。



This stone monument was dedicated to the repair of Haneji Okawa in 1735.
The repair was guided by the then minister,Gushicyan Oyakata Sai-On.
It is said that the repair took three months with 100 thousand residents
from surrounding villages.
On the monument, it was written that it was rebuilt due to the damage
on the original one, but the letters are unreadable.



沖縄県宮古島市 ・ 宮古島の文化財 『 アナ井 ( あながー ) 』

2013-06-17 06:07:32 | 沖縄の文化財



坂を下りて行くと水源がある








水源に降りて行く坂道







アナ井の入り口に立つ路標と説明板





アナ井は、雍正旧記(1727年)に、 “ 東井、洞井であって掘年数不明 ” とある。
宮国村の番所跡の東に位置しているので、
当時は役人たちによって 「 東井 」 と呼ばれていたらしい。
水道が普及するまでは、宮国住民の生活を支える貴重な水資源であった。
夜も昼もひっきりなしに人が集まり、水汲み、洗濯、水浴などで賑わっていた。





沖縄県宮古島市 ・ 沖縄の文化財 「 来間島のスムリャーミヤーカ 」

2013-05-17 06:49:52 | 沖縄の文化財



栗間島 「 スムリャーミャーカ 」




















来間集落の南約800mにあるスムリャーミャーカは、来間島の古式床式墳墓である。
スムリャーミャーカとは、島の長間家の墓ということで、
古くは来間大殿ミャーカ、最近ではグンソーミャーカとも呼ばれ、
大正時代まで使用されていたという。
この墳墓の中央には一枚の珊瑚石灰岩の平板板がかぶさり、石室は3室になっている。
横は9m、縦が6.5m、高さが2.3mである。
副葬品のなかには15世紀ごろの中国の青磁片も見つかっていることから、
そのころに造られたのではと見られる。

(県指定文化財)



多良間島 「 土原豊見親のミャーカ ( んたばるとぅゆーみゃの墓 ) 」

2013-03-30 05:15:54 | 沖縄の文化財



多良間島 「 土原豊見親のミャーカ 」








石棺が入るように正面に開口の様式が取り入れられている







天蓋も石板で覆われている







墓の入り口にあるアーチ門







左横にある夫人の墓







石を盛った夫人の墓







墓庭を囲った石垣







入り口にある説明板








地元では 「 ウプメーカ 」 とも呼ばれている











土原豊見親 ( んたばるとぅゆーみや ) のミャーカは、多良間村字仲筋東筋里にある墓で、
土原豊見親は16世紀前半に多良間島に渡って、島を開拓した草分け的存在だと伝えられている。
また、オヤケアカハチらの乱平定に従軍、尚真王より多良間島主にされたと伝わる。

ミャーカは宮古地方独得の墓の様式で、大きな板石を用いた箱式石棺墓が二基あり、
一基は土原豊見親の墓で、もう一基は夫人のものだといわれている。
墓の周囲は高さ60センチほどの琉球石灰岩で囲まれており、入り口はアーチ型の石門になっている。
天蓋も石板で覆われており、沖縄本島の亀甲墓とは違った形体をしている。
どちらかというと亀甲墓よりも家屋を模った厨子甕のような感じである。
また、地元では 「 ウプメーカ ( 大墓 ) 」 とも呼ばれている。
墓の近くには土原豊見親を祀った多良間神社がある。




沖縄県宮古島  ・  沖縄の文化財 「 大和井 ( ヤマトガー ) 」

2013-03-04 05:13:12 | 沖縄の文化財



宮古島 「大和井 ( やまとがー )」



















入り口付近にあるブトゥラガー






上まで高く積み上げられた石組み








一番下にある井泉部分






大和井があるロータリー







目印となる道路の案内板












宮古の人々は古くから「うり井」を中心に集落をつくり暮らしをたてていた。
戦後、水道が普及するまでは平良のまちにおいても同様であった。
「うり井」は一般に上り下りの通路に石段を設ける程度で、
多くは自然のまま利用されていた。
なかでも大和井(やまとがー)は全般にわたって人工がほどこされている。
下部に大きな石を置き、上部につれてだんだん小さな石に変わり、
さらに石も自然のままでなく、切り石を円形に積み上げており、
その力学的な工法は周辺の風致とともに訪れる者に安定感を抱かせる。
石造技術の枠を傾注したことが想定される。

隆起珊瑚礁の島である宮古島には川はなく、雨は地下水となって海に流れこむ。
海岸付近などにはその流れが湧き水となって湧き出す箇所があり、
ガーと呼ばれて、住民の貴重な生活用水として利用されてきた。
大和井は、宮古島市の市街地近くにあるガーのひとつで、
すくそばにあるぶとら井(ぶとらがぁ、プトゥラガーとも言う)とともに
「大和井(やまとがー)」という名称で1992年(平成4年)12月18日 に国の史跡に指定された。

大和井は、石段を降りた下にある降り井(うりがぁ)で、
周囲約20メートル、高さ約6メートルの円形の石積みの穴の底に石敷きの広場を設け、
その奥部が取水口とされている。
広場までは、折れ曲がった石段が続いており、その途中には門扉が設けられたと思われる閂の跡がある。
『雍正旧記』の記載から、1720年に掘られたものと考えられている。

伝承によると、この井戸は、首里王府や薩摩藩から派遣された役人専用の井戸であったといわれている。
宮古島に他に類のない見事な石細工や、厳重な管理の様子をうかがわせる閂の跡は、
この伝承を裏づけるものである。

プトゥラ井は、大和井から50メートルほど北西に位置する井戸で、
より簡素な造りを持ち、一般の住民用として用いられていたものと考えられている。




沖縄県多良間島  ・ 沖縄の文化財 「 寺山の遺跡 」

2013-02-16 00:03:48 | 沖縄の文化財



トゥンバラ岩の上にある拝所








〈 密之心海盛山拝書敬白 〉 文字が刻まれている拝所の石







伐り拓かれた山に大岩の拝所がある







拝所に上がる階段に手摺りが付いている







拝所の手前に 「 コンクリートで造られた滑り台 」 がある







寺山の遺跡の説明板






寺山の遺跡の入り口




寺山遺跡は、塩川集落の大道里に所在し、現在は拝所となっている。
ここは昔から 「 寺山ウガン 」 と称し、
那覇波の上護国寺二十四代の住職、真言宗の僧心海が居住し、
修行をしながら島民たちを教導したと伝えられている場所である。
心海は1697年(尚貞29)から1711年(尚液)までの14年間滞在している。

布教中は島民の天災地変の災害を救うために、
トゥンバラ岩(大岩)の上に碑が建てられている。

拝所の向って右側には、〈大清康熙四十年(一七〇一年)辛巳九月吉日〉とあり、
中央には梵字が、そして左側には〈密之心海盛山拝書敬白〉と刻まれている。

多良間では、心海は流刑されたとも伝えられているが、
何のために渡来したかは不明である。
土原氏家譜によれば、第八代春倫は少年の頃、
康熙五十年(一七一一年)辛卯、上国の折、心海は奥武山龍渡寺の住職にあり、
時の尚 益王に願い出て春倫を中城御殿御奉公勉をさせている。
それは心海が寺山の巨岩の上に碑を建ててから十年目に当たる。




沖縄県宮古島 ・ 平良綾道 ( ピサラアヤンツ ) 「 恩河里之子親雲上の墓碑 」

2013-02-14 05:12:42 | 沖縄の文化財
































平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたものを紹介して行きたいと思っている。


恩河里之子親雲上( おんがぁさとぬしぺーちん ) の墓碑は、
旧藩末期に建造されたもので現存する墓碑では比較的古いものである。
砂岩 ( 高さ62cm、横33cm、幅上部5~14cm、下方17cm ) を材料として使用している。
碑には右肩より 「 支流長真氏恩河仁也、乾隆年間卒。
向姓恩河里之子親雲上墓、同治十一年壬申在番同氏花城親雲上記 」 の文字が刻み込まれており、
下方には蓮弁の絵模様が描かれている。
墓碑には、蓮弁のほかに日輪や唐草等の絵模様がよく用いられている。
この碑の書を記した花城親雲上は同治11(1872)年に首里王府から派遣された在番で
同治13(1874)年の2月14日に病のため没した人物である。
彼の任期中には、平良頭忠導氏玄安ら54名の「台湾遭害事件」や
「 ドイツ商船ロベルトソン号宮国沖遭難 」 などの事件がおきている。
また、 「 琉球国が琉球藩 」 となったのも、彼の任期中のことである。
この墓碑は、これらの事件と直接かかわりはないが、
花城親雲上が在番として宮古島に赴任してきたことの証拠であり、
旧藩末期におきた事件等を彷彿とさせる貴重な金石文である。





沖縄県読谷村 ・ 沖縄の文化財 【 カタノー馬場跡 】

2013-02-13 00:17:12 | 沖縄の文化財



馬場跡に建つ石碑









馬場の面影を残す真っすぐな道






カタノー馬場は渡慶次小学校から宇座集落へ向うと右側に渡慶次運動場があり、
そこを過ぎると左側に 「 カタノー馬場跡 」 と記された石碑が建っている。
戦前は、この一帯に馬場があったそうである。
いつからこの場所で馬の競走が行なわれていたか定かではないが、
その昔、首里から士族らが残波岬への狩猟の途中、
退屈しのぎに競馬の稽古をしたのが始まりだと伝えられている。

戦前は、旧暦の6月25日・26日の両日に各地から飾り付けした馬に、
羽織・袴をまとった騎手がやって来て競馬が行なわれていたという。
馬をリズミカルに走らせ、スピードではなく、走法の美しさを競うものであった。
この競馬見物を 「 ウマミー 」 と言い、各地から重箱弁当を持参し楽しんだそうである。
この日は、駄菓子・おもちゃ屋などの出店が並び、子どもらにとっても楽しい行事であった。

競馬が終わると、渡慶次に各地から集まった力士によって相撲(沖縄角力)が行なわれ、
夜遅くまで賑わっていたそうである。