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「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県宮古島  「 鏡原馬場と人頭税廃止100周年記念碑 」

2013-02-08 05:05:54 | 沖縄の文化財



「鏡原馬場跡」









かつての競馬の審判台







城間正安と中村十作の顔がある 「 人頭税廃止100周年記念碑 」












「 史跡 鏡原馬場跡 」 と刻まれた石碑の隣には70センチ程度に積み上げた石垣作りの審判台。
あの記念すべき年、審判台の上に立った4人の目には何が映ったのだろうか。
宮古島の南西にある鏡原馬場に大歓声が沸き上がったのは1894年(明治27年)3月。


琉球処分で沖縄が日本に併合されてから15年後のことだった。
宮古の農民代表として人頭税廃止を国会に請願し、
税撤廃の確信を得て帰島した城間正安、中村十作、平良真牛、西里蒲の慰労祝賀会。
漲水港で4人を出迎えた農民数百人は鏡原馬場まで約3キロの道のりを宮古の伝統舞踊クイチャーで練り歩く。
そののち、島内から優れた馬を集め、当時、農民に禁じられていた競馬を催した。
そんな悪税が廃止に近づいたとき、宮古農民は禁を犯して喜びを競馬にぶつけたのだった。

琉球王国が琉球藩となった1872年(明治5年)、
沖縄本島では士族だけに制限していた乗馬を農民にも許可している。
ところが、宮古島では翌1873年の富川親方規模帳(琉球王府高官の布告)で、
農民の乗馬を改めて禁じ、競馬に参加した場合にはムチ打ち刑に処すと通告した。

本島と離島・宮古島の温度差。宮古方言で「ヌーマピラス」と呼ばれた競馬も本島とは性格が異なる。
娯楽的な色彩はなかった。

宮古島は平坦地が比較的多く、馬が最も警戒するハブ(馬は微量の蛇毒で絶命)も生息していないため
馬産に適しており、王朝時代から沖縄最大の馬供給地になっていた。

1653年から琉球王府の江戸上り(慶賀使、謝恩使派遣)が始まると、宮古上布とともに宮古馬も献上させた。
その献上馬の選定会が競馬だった。
献上先は首里王府、薩摩藩に加えて徳川将軍家である。
記録には残っていないが、よほど精錬された走りが求められたのだろう。

明治から昭和初期の宮古競馬は鏡原に加えて友寄、宮国、新里、与那覇、友利、福里、新城、比嘉の馬場でも行われたが、
ムチを振るうと失格になったという。本島にはそこまで厳格な決まりはない。

「水の入った茶碗を騎手の手のひらにのせて走らせても、水がこぼれなかったという。
乗る人に震動を感じさせない絶妙な走法」(宮古研究第4号・宮古の在来馬)
という宮古競馬は王朝時代の精錬された献上馬選定の名残りである。

そんな献上馬の安定供給を図るため、琉球王府は常駐した御目利(馬役人)に馬帳(馬の居住台帳)を提出させ、
生死も毎年届け出を命じる徹底した管理ぶりだった。




沖縄県宮古島  ・ 平良綾道 ( ピサラアヤンツ ) 「 祥雲寺石垣 」

2013-01-25 00:52:24 | 沖縄の文化財




























平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたので、
これから少しずつ紹介して行きたいと思っている。

祥雲寺は薩摩藩の建議で1611年に山月和尚によって開山された。
当時の寺域はどの程度あったか定かではないが、
1685年になって住職の輪番制 ( 3年交換 ) を設けているところから、
寺域も次第に整備されて来たものと推定される。
『 球陽 』 は1696年の大地震の際、寺の石垣が崩されたことを記しており、
このころすでに祥雲寺の石垣があったことを示している。

18世紀の初頭、宮古では全域にわたって大規模な土木工事が進められており、
このとき祥雲寺の石垣も改めて築かれたものと考察される。
戦災をはじめ都市計画等によって平良の町並みも大きく変貌し、石垣も消滅しつつある。
当時の石垣文化を知る上からも貴重な建造物である。

所在地 : 宮古島市平良西里



沖縄県宮古島  ・ 平良綾道 ( ピサラアヤンツ ) 『 ドイツ皇帝博愛記念碑 』

2013-01-17 00:10:32 | 沖縄の文化財



「 ドイツ皇帝博愛記念碑 」


















平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたので、
これから少しずつ紹介して行きたいと思っている。


明治6年 ( 1873年 ) 7月17日。
ドイツ商船ロベルトソン号は中国の福州からオーストラリアに向かう航路の途中、
台風に遭遇し、宮古島の南海岸・宮国村穴川の沖合いで座礁難破した。
これを発見した宮国村の人々は夜通しかがり火を焚いて、
遭難したその商船の乗組員8名を荒れ狂う海の中、救助した。
宮古島在番・蔵元は、乗組員8人を宮国村番所と野原村番所において、
34日間に渡り手厚く介護し、8月17日、役人は年貢運搬用の官船を仕立て、
この8名の乗組員を帰国させたのです。
後にこの事実を知った当時のドイツ皇帝ウィルヘルムⅠ世は、
自分たちの命も危うい状況で乗組員を救助してくれた宮古島の人々の
勇気と博愛の精神を讃え、
明治9年 ( 1876年 ) 3月、軍艦チクローブ号を宮古に派遣して、
上野村に記念碑を建てさせた。
チクローブ号は中国の上海で大理石の記念碑を積み、
長崎と横浜を経由して琉球藩庁を表敬し、3月16日の朝に宮古島の張水港に着いた。
蔵元近くの親越の坂が記念碑の建立の場所に選ばれ、
チクローブ号の水平たちにより作業が進められ、
3月22日に記念碑建立除幕式が盛大に執り行われた。
ちなみに記念碑のサイズは碑面約170cm×60cm。
碑文の表はドイツ語と漢文が、裏には漢文が記されていたという。


所在地 : 宮古島市平良 西里


沖縄県宮古島  ・  沖縄の文化財 「 高腰 ( たかうす ) 城跡 」

2013-01-03 08:14:51 | 沖縄の文化財






高腰城跡
The Ruins of Takausu Castle

( 県指定史跡 )
Prefectural Historical Monument


指定年月日 : 平成 3 ( 1991 ) 年8月2日 
Designaed Date : August 2,1991
所在地 : 沖縄県宮古島市城辺町字比嘉仲尾嶺
Location : Higa,Gusukube-cho,Miyakojima -shi,Okinawa-ken


 高腰城跡は宮古島の東海岸側にある比嘉集落北の高さ113mの丘陵の頂部に築かれたグスクである。
東西約70m、南北40mの大きさで、自然石ををそのまま積んだ城壁が残っているといわれている。
『 雍正旧記 』 や 『 宮古嶋記事仕次 』 という古い史料にはこの城の城主が高腰按司であったことや、
城の大きさなどが書かれている。
発掘調査によって13世紀~15世紀の土器、陶磁器、古銭、鉄製品などが見つかっている。


 Takausu castle was built on the top of a hill at the north of Higa village.
The ruins preserve a castle wall which was made of natural rocks.
That the lord was Aji Takausu, and the size of the castle are written in
old historical
records such as Yosei-Kyuki and Miyakojima-Kiji-Shitugi.
Among the excavated articles are pottery, ancient money, and iron products
of 13~15th century.
The ruins preserve its form of gusuku in a good condition, and has significance
in understanding
the condition of Miyako before it was influenced by the Ryukyu Kingdom.



沖縄県本部町  ・  沖縄の文化財 「 山川港原遺跡 」

2013-01-02 00:10:14 | 沖縄の文化財














山川港原遺跡
The Ruins of Yamakawa Minatobaru
( 県指定史跡 )
Prefectural Historical Monument


指定年月日 : 昭和 49 ( 1974 ) 年12月26日 
Designaed Date : December26,1974
所在地 : 沖縄県国頭郡本部町山川港原
Location : Yamakawa,Motobu-cho,Kunigami-gun,Okinawa-ken


 山川港原遺跡は、海に面した高さ15~20mの琉球石灰岩台地上にある沖縄貝塚時代中期
( 約2400年前~2100年前 ) の遺跡である。
遺跡範囲は台地上で少し凹地になっているところから、
その東方にある山川垣内権現洞穴遺跡の上方付近まで広がっている。
東方一帯をA地点、西方一帯をB地点と区分している。
遺物は口まわりが厚い文様のない土器が主で、他に小型の石斧 ( せきふ ) などがあるが、
貝殻、魚骨、獣骨などの自然遺物は出土していない。


 The ruins are of the middle of Okinawan Shell Mound Age ( approx.2400~2100 years ago ),
and are on a 15~20m high plateau that faces the seashore.
The spot where the ruins were discovered can be divided into two parts.
The relics are mainly pottery with thick mouth part and no pattern,
and a few small stone axes. A few natural relics such as shells are also found.



沖縄県本部町 ・ 沖縄の文化財 「 山川垣内権現洞穴遺跡 」

2012-12-31 00:13:21 | 沖縄の文化財






山川垣内権現洞穴遺跡
The Ruins of Yamakawa Kakiuchi Gongen Cave
( 県指定史跡 )
Prefectural Historical Monument


指定年月日 : 昭和 49 ( 1974 ) 年12月26日 
Designaed Date : December26,1974
所在地 : 沖縄県国頭郡本部町山川港原
Location : Yamakawa,Motobu-cho,Kunigami-gun,Okinawa-ken



 山川垣内権現洞穴遺跡は海岸に面した琉球石灰岩洞穴にある。
沖縄貝塚時代後期 ( 約2000年前~12世紀 ) の住居跡と考えられる遺跡である。
地元では 「 カチヌチグンジン 」 と呼ばれ、
今でも地域の人々の信仰の対象になっている。
洞穴は入り口の幅が2m、奥行きが4mあり、釣鐘型になっている。
洞穴内には人骨が葬られており、かつてここから須惠器の壷の完成品が見つかっている。
また洞穴には遺物を含んだ黒褐色の土砂が堆積しており、
その中から沖縄貝塚時代終末期からグスク時代にかけての物と推定される
土器や貝製のおもりなどが見つかっている。
沖縄県内にはこのような内容を持つ洞穴遺跡はきわめて少なく、その意味から貴重な遺跡である。


 The ruins are in the Ryukyuan limestone cave that faces the seashore,
and are considered to have been residences of the late Okinawan Shell Mound Age
( approx.2000~ the 12th century ).
The site is locally “Kachinuchigunjin”, and is a sacred place.
There is dark brown earth and sand that contains relics in the cave,
with pottery and shell weights.
The cave is significant because of its rare and precious contents in Okinawa.




沖縄県宮古島  ・ 沖縄の文化財 「 上比屋山遺跡 」

2012-12-22 00:12:50 | 沖縄の文化財








上比屋山遺跡 ( うぃっぴゃま いせき )
The Ruins of Uipya-Yama
( 県指定史跡 )
Prefectural Historical Monument


指定年月日 : 昭和 31 ( 1956 ) 年2月22日 
Designaed Date : February 22,1956
所在地 : 沖縄県宮古島市城辺町字砂川前原
Location : Sunagawa,Gusukube-cho,Miyakojima -shi,Okinawa-ken



 上比屋山遺跡は砂川集落の南に位置し、高さ40mの琉球石灰岩丘陵にある遺跡である。
南側は砂川遺跡と合わせて広い集落跡を形成している。
遺跡内からは宮古式や八重山式と呼ばれる土器、青磁、沖縄製陶器、南蛮陶器などが見つかっている。
特に青磁が多く見つかっており、その解釈について 「 倭寇の根拠地 」 説、
「 貿易で栄えた港町 」 説、 「 貿易の中継基地 」 説などいろんな説がある。
また、遺跡内には3ヵ所に御嶽があり、丘陵の上には物見台 ( トーンカイ岩 ) がある。


 The ruins are on a 40m. high Ryukyuan limestone hill which is the south of Sunagawa village.
Miyako and Yaeyama pottery, celadon, Okinawan and Nanban ceramic pottery are found in the site.
Especially, there are many celadon on which there are several explanations: the site was
① a base of Japanese Pirates of the Middle Ages'
② a port town florished by trades,or ③ a trade transit.
There are three separated utakis in the ruins, and a tonkai stone ( observatory ) on the top of the hill.



沖縄県宮古島市  ・  沖縄の文化財 「 野原岳の霊石 」

2012-12-18 00:03:58 | 沖縄の文化財







野原岳の霊石
Tamaisi at Nobarudake
( 県指定史跡 )
Prefectural Historical Monument


指定年月日 : 昭和 31 ( 1956 ) 年2月22日 
Designaed Date : February 22,1956
所在地 : 沖縄県宮古島市上野村字野原鏡原
Location : Nobaru,Ueno-son,Miyakojima -shi,Okinawa-ken



現在霊石は野原岳の南側の麓にあるが、最初の頃は頂上付近の北西側斜面にあった。
霊石は琉球石灰岩でつくられており、直径が110㎝、高さが135㎝の円柱形をしている。
今から600年ほど前に野原岳一帯を支配していた大嶽按司が守り神としてこの霊石をつくり
野原岳の頂上付近に立てたという伝説が残っている。
地元ではこの霊石をタマザラ御嶽と呼んで、今でも信仰の対象になっている。


 Tamaishi used be on the northwestern slope near the top of Nobarudake.
It is currently located at the southern foot of the mountain.
Column-shaped Tamaishi is 110㎝. across and 135㎝. high Ryukyuan limestone.
There is a folklore that Tamaishi was built as a guardian deity by Aji Ufunushi
who had ruled the entire Nobarudake area.
The local residents still worship Tamaishi, calling it Tamazara-Utaki.



沖縄県中城村  ・ 沖縄の文化財  「中城城跡 ( なかぐすくじょうせき ) 」

2012-12-08 00:36:46 | 沖縄の文化財






中城城跡
The Ruins of Nakagusuku Castle
( 世界遺産 )
World Heritade
琉球王国のグスク及び関連遺産群
The Gusuku Sites and Related Propertis of the Kingdom of Ryukyu


指定年月日 : 平成 12 ( 2000 ) 年12月2日 
Designaed Date : December 2,2000
所在地 : 沖縄県中頭郡中城村・北中城村
Location : Nakagusuku-son / Kitanakagusuku-son,
Nakagami-gun,Okinawa-ken



中城城跡は沖縄本島中部の中城湾に面した高台にあって、
沖縄の城跡の中でも最もよく城郭が保存されている。
城は六つの郭からなる連郭式の山城で、
城が築かれた時期は15世紀後半ごろと考えられている。
城壁は一部に野面積みが施されているが、
大部分が琉球石灰岩の切り石積みで見事なアーチ門を有している。
切り石積みの城壁には布積みを主体とする郭と、あいかた積みを主体とする郭があり、
築城の歴史を知る上で重要である。
中城城は尚 巴志の山北攻めの時に活躍した護佐丸の居城として有名であるが、
1458年に阿麻和利によって滅ぼされた後は、
城としての機能はなくなり間切り番所として使用されていた。



 The ruins are on a hill that faces Nakagusuku Bay at the central partof Okinawa.
Their structural Remains are best preserved among all Okinawan castle ruins.
The castle consists of six parts, and is believed to have been established
in the first half of the 15th century.
Nakagusuku Castle is famous as the residence of Gosamaru who was active when Sho-hashi attacked Sanboku.
After Gosamaru was destroyed by Amawari, the castle lost its
function and was used for officisl purpose.


沖縄県久米島 ・  沖縄の文化財  「 具志川グスク ( 久米島 ) 」

2012-11-14 00:14:20 | 沖縄の文化財







具志川グスク
The Ruins of Gusikawa Castle
( 国指定史跡 )
National Historical Monument


指定年月日 : 昭和 50 ( 1975 ) 年12月10日 
Designaed Date : December 10,1975
所在地 : 沖縄県島尻郡久米島町具志川村字中村渠クシメ原
Location : Gushikawa-son,Kumejima-cho,Shimajiri -gun,Okinawa-ken


具志川城跡は仲村渠 ( なかんだかり ) 集落の北約500mの場所に築かれたグスクである。
城は三方が崖になっている琉球石灰岩の丘の上にあり、 『 具志川間切旧記 』 によると、
15世紀後半に真達勃 ( まだふつ ) 按司によって築かれたといわれている。
石垣は輝石安山岩と琉球石灰岩を利用して積まれており、城内は三つの郭に分かれている。
城内からは外国製の青磁や土器片の他に鉄くずも見つかっており、城内に鍛冶場もあったと思われる。
15世紀後半頃の城の造り方を研究するためにも重要なグスクである。


 The ruins are on a Ryukyuan limestone hill with cliffs on three sides, and are 500m.
to the north of Nakandakari village. According to Gushikawa Magiri Kyuki,
Gushikawa Castle was built by Aji Madafutu in the srcond half of the 15th century.
Many pieces of pottery and foreing celadon were discovered in the castle.
Pieces of scrap iron were also discovered, inferring an existent of a blacksmith.



沖縄県阿嘉島  ・ 沖縄の文化財  「 御殿の木 ( アカテツ ) 」

2012-11-12 00:10:31 | 沖縄の文化財

















「 御殿の木 」 の近くにある阿嘉小学校・中学校・幼稚園





「 御殿の木 」

この大木は、阿嘉島では 「 ウルンのケー ( 御殿の木 ) 」 と呼ばれている
アカテツ ( 方言で 「 ギヌツ 」 ) という。
アカテツは、アカテツ科の常緑高木で、海岸近くの低地に生育し、
防風林や屋敷林などに利用している。
この木の樹齢は400年以上と推定される老大木で、
高さ13m、枝の広がりは南北13m、東西17mで、
ほぼ円形状に広がっている。
昭和の初めごろまで行なわれていた「種子取り」(方言で「タントゥイ」)という。
その祭りの時には、この木の傍に 「 御殿 ( ウルン ) 」 と称するカヤブキの小屋を作った。
このアカテツの拝所 ( 御殿 ) に成育していることから、
島の人々がこれまで大事に守って来た木で、県内最大のものであると考えられており、
植物の成長を考える上で貴重なものです。

                   座間味村教育委員会



沖縄県久米島  ・  沖縄の文化財  「 仲里間切蔵元跡 」

2012-10-24 21:56:33 | 沖縄の文化財








仲里間切蔵元跡
The Ruins of Nakazato Magiri Kuramoto
( 県指定史跡 )
Prefectural Historical Monument


指定年月日 : 昭和 31 ( 1956 ) 年2月22日 
Designaed Date : February 22,1956
所在地 : 沖縄県島尻郡久米島町仲里村字真謝
Location : Nakazato-son,Kumejima-cho,Shimajiri -gun,Okinawa-ken



 仲里間切蔵元は真謝集落内にある琉球王国時代の役所の跡で、面積が約1750㎡あり、
周囲は長方形状に石垣で囲まれている。地元ではウクラ、またはウングヮと呼ばれている。
建物が初めて造られた時期は正確には分かっていないが、16世紀の中頃以降だと思われる。
周囲の石垣は琉球石灰岩で造られており、高さは北側が3.3mで、南側が2.7mとなっている。
正門は南側にあり、敷地の南東の角に土で造った物見台があったといわれる場所があるが、
現在残っているのは石垣だけで建物はない。
首里王府が久米島をどのように支配したかを知る上で重要な遺跡である。


 The 1750㎡ ruins of a government offce of ryukyuan Monarchy period is in Majya village.
It is surrounded rectangularly by stone walls. Locally called Ukura or Ungwa,
the kuramoto is believed have been built after the middle of the 16th century.
The stone walls are made with pieces of coral and Ryukyuan limestone.
This ruins are significant in telling how Shuri government ruled Kume island.



沖縄県久米島  ・  沖縄の文化財  「 ウティダ石 」

2012-10-21 17:21:39 | 沖縄の文化財







ウティダ石
Utida Stone
( 県指定史跡 )
Prefectural Historical Monument


指定年月日 : 昭和 49 ( 1974 ) 年1月17日 
Designaed Date : January 17,1974
所在地 : 沖縄県島尻郡久米島町仲里村字比屋定下村渠、東原
Location : Nakazato-son,Kumejima-cho,Shimajiri -gun,Okinawa-ken


 ウティダ石は、比屋定集落の東方の松林の中にあり、今から約500年ほど前に
久米島仲里間切りの堂之比屋という人が日の出を観測した場所であると伝えられている。
別名、太陽石と書いてウティダウガミイシとも呼ばれている。
石の表面には数本の線が刻まれており、太陽の動きを観測する時の目印となっている。
農業用の暦のない当時、日の出の位置の移動を調べることによって季節の変化を知ったという。
それを元に農民は種をまく時期、収穫する時期などを決めることが出来たといわれている。
古い時代における日の出観測のやり方を知る上で貴重な遺跡である。


 Udida Stone is in a pine woods which is st the east of Hiyajyo village.
It is said to have been a place where a person called
Donohiya of Kume island observed sunrise 500 years ago.
There are several lines on the stone that helped farmers to know the moves of the sun.
It is said that the farmers could have seasonal infomation and decide
when to seed, harvest, and furthermore, when to set sail.



沖縄県久米島  ・  沖縄の文化財  「 宇江城グスク 」

2012-10-17 14:11:35 | 沖縄の文化財







宇江城グスク
The Ruins of Uegusuku Castle
( 県指定史跡 )
Prefectural Historical Monument


指定年月日 : 昭和 49 ( 1974 ) 年1月17日 
Designaed Date : January 17,1974
所在地 : 沖縄県島尻郡久米島町仲里村字宇江城山田原
Location : Nakazato-son,Kumejima-cho,Shimajiri -gun,Okinawa-ken



宇江城城は宇江城岳の頂上に築かれた県内でも最も高い所にあるグスクで、
地元ではウィーグスクとも呼ばれている。
『 具志川間切旧記 』 によると、
このグスクは伊敷索按司の二男、中城按司がこの地をグスクと決め、
武久知樽金 ( むくち たるかね ) が城を造ったといわれているが、
城は尚 真王の時代に首里政府軍によって滅ぼされた。
グスク内には物見跡といわれている東側部分が最もよく残っていて、
板状の輝石安山岩が使用されている。
西側は米軍の基地で大部分が破壊されている。
城内からはグスク時代の土器や中国製の青磁などが見つかっており、
中国との貿易の歴史を理解する上で重要な遺跡である。


The gusuku was built on the top of Mt.Uegusuku, and is the highest one in Okinawa.
It is locally called Uigusuku. According to Gushikawa Magiri Kyuki,
this gusuku was built by Mukuchi Tarukane by the order of Aji Nakagusuku who was the
second son of Aji Ishikinawa.
It was destroyed by the military of Shuri monarchy in the period of King Sho-Shin.

沖縄県うるま市   ・  沖縄の文化財 「 勝連城跡 」

2012-10-15 22:49:57 | 沖縄の文化財







勝連城跡
The Ruins of Katsuren Castle
琉球王国のグスク及び関連遺産群
The Gusuku Sites and Related Propertis of the Kingdom of Ryukyu

( 世界遺産 )
World Heritade


指定年月日 : 平成 12 ( 2000 ) 年12月2日 
Designaed Date : December 2,2000
所在地 : 沖縄県うるま市勝連町字南風原赤吹原、同城之下地
Location : Hebaru,Katsuren-cho,Uruma-shi,Okinawa-ken


勝連城跡は与勝半島の付け根に位置し、小高い丘 ( 標高97m ) を中心に築かれた城である。
中城湾を隔てて護佐丸の居城であった中城城を望む城は、5つの郭に分かれ、最高所に一の郭があり、
二の郭、三の郭、四の郭と東側へ低くなり、四の郭東側の一段低くなった所に東の郭がある。
二の郭には殿舎跡が、谷地形をなす四の郭には南側に南風原門、北側に西原門および5つの井戸がある。
伝承によると、茂知附 ( もちづき ) 按司に代わって10代目の城主になった阿麻和利は、
海外と貿易を盛んに行って勢力を拡大したが、1458年に首里王府によって滅ぼされた。


 Katsuren Castle was built on a smsll hill ( approxmately 97meters above
sealevel )
located at the base of the Katsuren Peninsula.
Nakagusuku Bay from the Katsuren Castle site.
Katsuren Castle consisted of 5 sections and includwd the Haebarumon Gate to the South,
the Nishibarumon Gate to the North, and 5 independent wells for water.
 According to legend, Amawari, the 10th king of the Katsuren domain, expanded the power
of the realm by engaging in prosperous overseas trading.
However, the castle fell under thecontrol of the royal government of Shuri in 1458