哲学する自由 La liberté de philosopher
では、知に至る道をどのように歩むのだろうか。先ず、理性の行使を介して行う。彼が尊敬するデカルトとともに開かれた古典的合理主義の偉大な星座に名を連ねる。批判、議論、論証のすべての能力を開発することなく何事も不可能で、真に耐え得るものにはならない。理性の上に位置して理性が跪くべきものは何もない。これは、宗教に対する戦いなのか、王権への反乱になるのだろうか。
そんなことは全くない (Nullement)。反対に、この哲学する自由は信仰心にとっても公共の安全にとっても害にならないことをスピノザは示そうとする。それが彼の存命中に出された第2作 "Traité théologico-politique" 「神学政治論」 (1670) の目的である。またこの大著出版には、彼が無神論者であるという風評を論駁する意味も含まれていた。彼の同時代人は、「神が哲学的にしか存在しない」 "Il n'y a de Die que philosophique." ということを受け入れることができなかった。
神は自然 Dieu est la Nature
"Deus sive natura" (sive = ou bien, si tu préfères) この言葉にスピノザの精神革命のすべてがある。神、即ち自然。これは神についてのすべての見方と対立する。スピノザの神はいずれのものの外にもなく、その外にも何物もない。厳密には (stricto sensu) 宇宙と同一とみなされる。このユニークな見方によると、神はもはや人ではなくなり、何かの神 (Providence) とも関係がない。意志はなく、如何なる決定もしない。神がある出来事が起こるとか起こらないということを決めていると想像することは愚か以外の何物でもない、。
スピノザにとっての神は、始りも終わりも、外面も内面もない 「無限に無限な実体」 "substance infiniment infinie" である。すべては必然で起こる。今ある、あるがままのものはそれ以外ではありえない。他の世界を夢見たり、何かがうまく行かなかったり、失われたりすることを想像することは無駄である。世界は十全なのである。彼は言う "Par perfection et par réalité, j'entends la même chose." 「私は実体と完全を同一のものと理解している」